第23話 * 「純粋な愛」

 冬馬胡蝶とうまこちょうと出会ったのは十三年も前、僕らが三歳のとき。本当は赤ちゃんのときにも会っていたらしいが、僕に存在する一番古い記憶が三歳当時のものだった。


 両親に手を引かれて連れてこられた冬馬家の別荘、その玄関で胡蝶は母親に抱き上げられていた。自らの親指を噛む幼女は母親に似て、柔らかそうな銀色の髪と潤んだ青い瞳をしていて、天使を思わせた。父さんが言っていた『お前は将来、この子と結婚するんだ』の意味は今一つ理解できないまま、僕らは挨拶もそこそこに遊んだ。


 昼食を終えて一緒にお昼寝をしようというとき、ふと胡蝶が嗚咽おえつを漏らした。昔はよく泣く子だったのだ。一日一緒にいた僕も焦ることなく、一人で同い年の胡蝶と相対する。


「どうしたの?」

「これ、こわしちゃいました」


 そういって、胡蝶は立方体を差し出した。青と赤と緑と白と黄色とオレンジの正方形の塊が、小さな手のひらの上に載っている。それは彼女の父親のルービックキューブだった。六つの面はそれぞればらばらに、色鮮やかに染まっている。僕は、胡蝶が解けないパズルを壊してしまったと勘違いして泣いているのだと思った。


「だいじょうぶ、こわれてないよ」

「ほんとう、ですか?」

「うん、かして?」


 自信はなかった。けど、立方体を取る手に迷いはなかった。僕は、彼女の涙を止めたかった。二人で一つの立方体を覗き込み、僕は必至でパズルを回し続ける。


 ――一つの面が揃うころには日が傾き始めていた。窓際で向き合い、黄金色の下に影を作る。一面が青で統一された立方体を手渡すと、ずっと泣き出しそうだった顔にぱあっと花開くような笑みが浮かんだ。


「いまはまだこれしかできないけど、おおきくなったらきっとかんせいさせられる」


 僕も笑った。けれど、胡蝶の笑顔は陰ってしまう。一面だけ揃った立方体を胸に抱き、未来を憂いていた。


「すごいですね、あおとさんは」

「できるよ。きっと、こちょうちゃんも」

「わたし……こんなのでちゃんと、あおとさんのおよめさんになれるのでしょうか?」

「だいじょうぶ、がんばればなれるよ。このパズルみたいに」


 一面を青く染めたはずの立方体は夕日に照らされて、オレンジと黒の二色だけに見えた。胡蝶は呆けるように、僕を見上げた。あれが、彼女が僕の前で流した最後の涙だった。

 

 *


 それから。

 季節が巡り巡って十二回。


 桜舞う季節、僕は自宅の玄関先で満開の桜に匹敵する笑顔と出逢った。甲冑を彷彿させる銀色の髪、サファイアのような青い瞳、雪のように白い肌。僕を見つけるなり、ぱあっと花開いた笑顔を見て僕の時間は止まり、あの日にかえる。


 胡蝶は綺麗に頭を下げて、こういった。

「お久しぶりです、蒼斗さん。胡蝶です。貴方の許嫁の、冬馬胡蝶です。覚えていますか?」


 僕は精一杯カッコつけて胡蝶を迎え入れた。思いつく限りの紳士を演じたのがなんだか痛々しくて気恥ずかしくて、けれど胡蝶が笑ってくれていたから僕のカッコ悪さも許してしまえた。


 胡蝶はその春から僕らと同じ高校に通うために満を持してドイツから引っ越してきたのだ。この国では、胡蝶は翌年には結婚できる年になる、という理由も恥ずかしそうに話してくれた。そもそも僕の年が足りないが。


 その日はサプライズだったが、花嫁修業の一環として水無月家にお邪魔する許可も双方の両親から得ていると聞いて、彼女の本気度を思い知った。花嫁修業、という言葉自体、半ば死語のようなものだと思っていたからだ。


 弓道、茶道、日本舞踊、剣道、柔道、空手、合気道、居合道。得意料理は和食の始末。日本オタクが高じた母親のおかげでドイツにいながら日本的な習いごとを総嘗めした彼女は大和撫子そのものだった。


 思い出話に花を咲かせていると、ふと真新しいスクールバッグにぶら下がる薄汚れたぬいぐるみに目が留まる。それについて聞くと、雪のような肌は紅葉のようにかあっと赤く色づいた。椅子の上に正座する姿が一回り小さく見える。


「それは、その……蒼斗さんを模したものです。どうしても、貴方に会えないのが切なくて。でも、貴方を思えば、どんなことでも耐えられるから……もしかして、やはり、変、でしょうか?」


 僕のことで急にしおらしくなるものだから、嬉しくて恥ずかしくて愛おしくて、僕も思わず余所行きの笑顔が剥がれてしまう。


「変じゃない、嬉しいよ。でもさ、それなら写真とかでも良かったんじゃないのかな?」

「……失念していました」


 その日から胡蝶のスマホの壁紙はデフォルトではなくなった。近くて遠いツーショットは婚約者というよりも初々しいカップルのようだった。一人で映るのは不公平だといったのも、連絡先を交換するのに写真を利用したのも僕だった。


 *


「……さん……斗さん……蒼斗さん……起きていますか?」

 

 あれからさらに、一年と二か月が過ぎた昨日の朝、何の変哲もない一日の訪れは、変哲だらけの一日の始まりに取って変わることになる。


 囁くように僕を呼ぶ清澄な声に薄っすらと目を開く。本当は起こす気なんてなかったのかもしれない。慎ましく、けれどその日はノックはなく、冬の空を思わせるサファイアのような瞳が僕の顔を覗き込んでいた。今にも泣き出しそうな顔を見て何ごとかと目を開く。けれど、僕は努めて冷静に微笑んで見せた。


「うん、おはよう」

「あ……起きて、いらっしゃいましたか。その、おはようございます」


 小さな会釈に頷き返すと吐息が触れた。今にも唇と唇が触れ合ってしまいそうにある。


「……恥ずかしいな、寝顔を見られるのは」

「も、申し訳ございません。ですが、どうしてもお伺いしたいことが」

「何かあった?」

「ふと、気になったのです。私は、貴方の妻として相応ふさわしい女性になれたでしょうか?」

「……それは、そんなの」


 今さら言うまでもない。むしろあっけに取られて安心してしまった。けれど、それを言葉にするより先に、待ちきれないとばかりに胡蝶が訴える。


「私は今日この日まで貴方のことだけを考えて生きてきました。両親が決めた婚約者だからというだけでなく、一人の女として貴方を愛しています。だからこそ、不安なのです。蒼斗さんが私ではない女性に取られてしまったらと思うと、いてもたってもいられず、ですから、その」


 このときはまだ、改まって告白されるなんて思いやしなかった。だって、僕はいずれ胡蝶と結婚するものだと自然と納得していた。そこに文句なんてあるわけなくて、胡蝶も同じだと思っていた。同じであることを願っていた。でも、そうではなかった。胡蝶を不安がらせてしまっていた。


 雪白の肌を耳まで赤く染め上げて、胡蝶は告げる。

「籍を入れるその日まで、これからは恋人として、私と過ごしては頂けませんか?」


 最初は何を言っているのかよくわからなかった。頬の熱、動悸、胡蝶の浮かべた真摯さと不安の入り混じった顔。それらと一緒に言葉一つ一つの意味を反芻はんすうして、吟味ぎんみして、理解した。


 それが最初の分岐点こくはくだった。

 そうして僕は告白の答えを先送りにした。


 だって、自信がなかった。胡蝶が僕のお嫁さんになるために一途に重ねてきた努力に見合う努力を、僕はしてきただろうか。葵が罪を犯してまで僕を知ろうとしたように、僕は胡蝶のことを知ろうとしてきただろうか。楓が僕に嫌われないため変わろうとしたように、僕も胡蝶の理想に沿って変わろうとしてきただろうか。カンナが僕といるときのように、僕は胡蝶を楽しませてあげられただろうか。掟先輩が僕と一緒にいるべく無茶を続けたように、僕も胡蝶のために無茶をしてきただろうか。あの人と約束したようにカッコよく誠実な人間になれているだろうか。彼女を、幸せにできるだろうか。


 大切で、嫌われたくなくて、カッコよくありたくて、カッコよくあれなくて、誠実であろうとしたばかりに不誠実を成した。


 きっと重かった。でも軽薄でいるよりはずっと良かったはずだった。誰かを想うということは重くて然るべきなのだ。

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