一章 * Dye the sky

第2話 * 綺麗ねと 瑠璃色紫陽花 雨降られ

 雨が降っていた。昼休み、バケツをひっくり返したような大雨が庭の紫陽花あじさいを叩き、瑠璃色るりいろ紅色べにいろの境界線を曖昧にしていた。頂点に達しているはずの太陽は暗雲に隠れて見つからない。


「あーん、ですよ?」


 六月五日、昨日、僕は許嫁いいなずけの少女、冬馬胡蝶とうまこちょうと恋人になった。

 許嫁から許嫁兼恋人になったとはいえ、昨日の今日では大きな変化はない。せいぜい触れ合うことに対するハードルが僅かに低くなった程度。ゆえに、今日の昼は付き合いたてほやほやの彼氏彼女らしい初々しく甘ったるいイベントが発生するんじゃないかと胸をおどらせていたわけだが――


「ほおら、蒼斗。あーん、ですってば」


 ――雪白のプラチナブロンドと冬の空のような青い瞳は、黄昏時を象ったような黄金色のセミロングと夕焼けのような茜色の瞳に取って代わった。あーんはフルートを思わせる清澄な声色ではなく鐘のような荘厳さと鈴のような可憐さを兼ねた声色に代わり、僕の口元に卵焼きを押し付けている。


 片手は箸と卵焼きで圧をかけ、もう片手は僕の頬と顎を包むようにして逃がすまいとしている。しぶしぶ卵焼きを口に含み噛み砕く。冷めてはいるけど、ふわふわしていてほんのり甘い。作ったのは胡蝶だが、食べさせてくれたのは胡蝶ではないからなんとも複雑な心境。


「美味しいですか?」


 この子にそう問われて、美味しいと答えるのは何か違う気がした。でも、美味しいと言わないことは早起きして作ってくれた胡蝶を貶めるような気がした。見聞きされていないからといってそこにいない誰かを貶めるのは一途さも誠実さもカッコよさも感じられない。だから僕は、誰も傷つけない言葉を選んだ。


「……うん、美味しいよ」

 口の中に広がる卵と砂糖の甘さを飲み込んでから頷いた。黄昏時を象ったような少女の顔に、ぱあっと花開くような笑みは見当たらない。


 六月六日、今日、僕のクラスに転校生がやってきた。

 菊池紫苑きくちしおんと名乗った少女は開口一番にクラスメイト四十人弱の前で僕を好きだと恥ずかしげもなく言って除けた。衆人環視しゅうじんかんしの中の告白、だけであればまだ良かったかもしれない。それは歪んだ愛の告白だった。


 彼女の好みのタイプは僕だという。彼女の好きな食べ物は僕だという。彼女の趣味は僕を観察することだという。彼女の夢は僕のお嫁さんになることだという。


 ――ずきり、頭が痛む。


 それらの言葉は胡蝶が口にするのであれば驚きこそすれ何の疑問も持たずに喜ぶことができただろう。最後の一言に限ればいかにも胡蝶が言いそうですらある。しかし、出会って間もない異性が口にするのであれば話は別だ。彼女が眉目秀麗びもくしゅうれいであることをかんがみても愛を告げられて嫌な気分にはならないとはいえ、不信感は拭えない。


 何より彼女を見た瞬間から嫌な予感がして止まない。


 思わず窓の外へと目を逸らした。通り雨かと思ったが雨は勢いを増すばかりで止む気配はない。


「綺麗ですね、紫陽花。青と赤が溶け合っているようで、まるでわたくしと蒼斗様みたい。うふふふふふふふ」


 窓ガラスに映る菊池さんは僕に顔を寄せるように両手で頬杖をついていた。手の中の笑顔はどこか恍惚としていて、頬の熱で蕩けてしまいそうになっているように見える。蕩けるような笑顔から目を逸らすようにポケットから取り出したスマホを取り出すも、新規のメッセージはない。最後のメッセージは昼休みに入って間もなく届いた胡蝶からのものだった。


『部活の関係で遅くなりますので、先に食べていてください。お弁当は私の机の上に置いてあります。申し訳ありません』


 ――時計の長針を六分の一ほど遡った頃の話だ。

 なんだかフられたような気分になった。仕方ない。胡蝶には僕以外にも色々と抱えているものがあるのだ。


 二組に弁当を取りに行って自分の席に戻ると、菊池さんが傍に立っていた。自分の場所であると言わんばかりの威圧感に、前の席に座る黒髪ロングの幼馴染――葵はむしろ立てずにいるようだった。ただでさえ小柄な身体がいつもより一回り小さく見えた。


 僕の席には物憂げに紫陽花を見つめる男――に匹敵する体格と中性的な顔の少女――楓が座っていた。じゃんけんに負けて人数分の飲み物を買いに行かされた後と似たような状況だったが、今日はおめえの席ねえからとにかっと歯を見せる豪快な笑顔は僕を迎えなかった。


 代わりに鏡に映る夕日を象ったような後ろ姿を睨みつけていた。これは楓曰く意図的に手を出したり口に出したりするのを抑えたゆえらしいのだが、結果的には言外に威圧してしまっている。


 大概の人間は生徒であれ教師であれ楓に睨みつけられると大なり小なり反応を示すのだが、菊池さんは意に介していないようだった。溢れ出た殺気にベリーショートが揺らいでいるようにさえ錯覚するというのに、菊池さんの波打つ黄金色のセミロングはもちろん、プリーツスカートも抱き着くように腰に巻かれたブレザーも揺るがず、彼女は優雅に頭を下げて見せた。


「おかえりなさい、蒼斗様。お昼にいたしましょう。わたくしをお食べになりませんか? わたくしに食べさせてください。わたくしが食べさせて差し上げます♡」

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