第29話 * 誰が為のメイプル

 アスターが差し出した手を取る。僕に拒否権はない。拒否をする理由もない。強いて言うのなら、僕の存在意義を否定される怖さはあった。けれど、それは楓の可能性から目を覆う理由にはならない。一途で誠実でカッコよく生きようとした結果があれなら、そんなエゴに付き合わされなかった結果があれなら、僕は楓が僕と出会わなかった可能性も見届けなければならない。

 浮遊感があった。ふわり、地面が消える。重力が消えて、空も消える。繋いだ手の感触だけが僕の存在を証明する。上も下も主観も客観も曖昧模糊として胃がひっくり返るような吐き気と同時、世界が返ってきた。

 楓を見に行く、ということは楓の近くに瞬間移動したのだろう。

 気づけば目の前には縦に一直線、大きく一直線に切り取られた青空が広がっていた。沿うのは煤けた灰色の壁。辺りを見渡すとき缶にきペットボトルにスナック菓子のから、色鮮やかなゴミが散乱している。路地裏だった。大通りに向かう光の中から、柄の悪い男たちが僕を睨んでいた。アスターはどこにもいない。

 灰色の制服を着た男が三人、赤い制服をきた男子高校生一人を包囲している。灰色の中で最も体格のいい男が赤い制服の胸倉を掴みながら、僕を睨んでいた。


「んだあいつ。お前のダチか?」


 赤い制服の生徒は僕を一瞥をして、さあな、と目をそらした。できることなら助けて貰いたいが期待できそうな見た目ではなく、かといって僕に興味をそらして逃げることも憚られる。そういう類の間が合った。

 胸倉を掴むデカブツがリーダー格なのだろう。金魚の糞の如き二人の内、一人がにやにやと顔を歪ませて僕の方へと近づいてくる。


「だとしても問題ないっしょ。藍学あおがくのお坊ちゃんとか、どう考えても雑魚っしょ」


 蟹股と猫背のその男はワックスでがちがちに固めた頭と顔だけで片手の指の本数よりも多いピアスを煌めかせていた。数歩先にいるはずなのに煙草の臭いがきつい。

 後ろは行き止まり。路地裏のごみ溜めの中、僕は人生で初めて不良に追い詰められていた。煙草臭さと嫌らしい顔が目と鼻の先に迫る。刹那、ピアスの男は顔を地面に打ち付けるように転んだ。

 明らかに鼻の折れたような音にぞっとしたのも束の間に、男にしては高く女にしては高い黄色い悲鳴が聞こえた。


「―—あねさん、来てくれたんすね!」


 それは胸倉を掴まれていた男の声だった。男は大通りから差し込む光の中で木刀を弄ぶ影に羨望の眼差しを向け、影は男の肩を叩いた。


「放っておけるかよ、放っておくわけねえだろ。慕ってくれる奴を見捨てたら男が廃る」

「姐さん、元々男じゃないっすけどね」


 影は木刀の柄で彼のこめかみを打った。ゴツン、と。案外重い音がした。


「バカ、そういうときは大人しく頷いときゃいいんだよ。怪我はねえんだな?」

「ええ、強いて言うなら今しましたけどね」

「そいつは重畳ちょうじょう


 煙草臭い男は僕に襲い掛かってきたのではなく、吹き飛ばされたデカブツの男の背中に押しつぶされていた。顔を潰されて失神した男には目もくれず、のそりと立ち上がる。


「んだ、てめえ」


 木刀を手にした影がにかっと歯を見せて笑った。


紅学あかがく二年、七海楓。ダチを助けに来た。まだ手え出してなかったみてえだから今回だけは今ので見逃してやる。消えな、デカブツ」


 影の名乗りに答えたのはデカブツではなく、三人の中で比較的目立たず、胸倉を掴まれていた男の反対側で尻餅を着いた男だった。彼は影を指さし、後ずさる。


「や、ヤバいっすよ。紅学の七海っていや、〈返り血の七海〉っすよ! 去年、白学うちの四天王を一人でぶっ潰したっていう伝説の!」


 デカブツが首を傾げる。威圧するような音がした。


「だったらなにか? 先代が総じてザコの集まりだったってだけじゃねえのか。だいたいよぉ、女なんかに一発貰ってこのまま退けるわけねえだろうが!」


 デカブツが駆ける。一足目、コンクリートの地面が揺れた。二足目、拳を構えた。三足目、拳を突き出した。四足目、デカブツが揺れた。五足目、デカブツが倒れた。

 三足目と四足目の間に殴打音が数回、重なって聞こえた。全て木刀が人の肉と骨を打つ音だった。影は木刀を担ぎ直し弄びながら、デカブツを避けて悠々と僕に近づいてくる。

 向こう側に人が集まってきたことを彼らの声と遮られた光で理解した。彼らは総じて彼女のことを呼んでいた。姐さん。姐御。楓姐さん。七海さん。楓さん。中には女子の黄色い悲鳴も混ざっていた。

 七海楓は木刀を持っていない方の手を挙げて応えた。


「すまねえ、ちっとだけ待ってくれ」


 声が止む。楓は腰を抜かしたままの僕に近づくと、膝が汚れるのも気にせずにひざまずいた。


「オマエ、名前は?」


 ビル風が羽織ったブレザーをはためかせ、栗色のポニーテールを揺らした。胸元の開いたワイシャツからはスポブラで押さえつけられてなお豊かな胸のふくらみが見えている。思わず目をそらすと、楓は力強く真っ直ぐに僕の目を見ていた。

 何か、思うところがあったのかもしれない。何か、思い出すかもしれない。失ってもやり直せるかもしれない。その希望が叶えられるかもしれない。けれど、


「―—通りすがりの藍花高校二年、水無月蒼斗。君と親友になっていたかもしれない男だ。覚えとけ」


 僕は、今の楓をやり直すべきだとは思わなかった。

 泣きそうだ。カッコつけるだけの僕とカッコいい元親友を比べて、自分がどこまでもちっぽけで情けない存在に思える。無理矢理笑ったら右目から涙が零れ落ちた。

 僕の名乗りを聞いて、楓は眉根をぴくりと動かした。それからにかっと笑って僕の頭を乱暴に撫でて、ブレザーを翻して背を向けた。引き留めたい。思い出して欲しい。謝らせて欲しい。もっと話がしたい。手を伸ばす代わりに割れた爪の割れた指をコンクリートに押し付けた。指先に冷たい血が滲む。痛い、けれど、楓が死んだときはきっと、もっと痛かっただろう。


「……あー、やっぱ駄目だ。これだけは言わせてくれ。今から喋るのはオレの独り言だ」


 まだ、楓は去っていなかった。立ち止まり、四角い空を見上げている。


「オレの嫌いなものは、もしかしたらなんてありもしない過去に縋りついて今を諦めること。それと誰かさんみたいに男の癖に女々しい奴だ。ダチ名乗るならもっと男らしくなって出直せ」


 ……なんだよ。独り言って。どう考えても僕へのメッセージじゃないか。

 湯上ヶ丘紅葉学園の生徒を中心に構成された大所帯の声が遠くなるにつれて、近づく声があった。いつの間にか逃げ出した一人を除き、灰色の制服は動いていない。アスターは見えない。誰も近づいてきていない。

 クツクツと湧いて、今や響き渡るほどになっている声は僕の声だった。ごみ溜めの中、コンクリートに身体を預けて雲一つない青空に笑った。

 共感するのように、あの日のように、アスターが隣に座っていた


「如何でしたか? これが七海楓が蒼斗様との記憶を失った場合。蒼斗様と出会わなかった可能性です」


 声が枯れるより先に排ガスに咽せた。視界が滲んでいる理由も曖昧になる。溜め息なんだか深呼吸なんだか判然としない息をして、僕は答える。


「僕の知っている楓よりも、こっちの楓の方が楓らしくて、カッコいい」


 クツクツと、僕は笑っていた。


「では蒼斗様に三つの質問をします。イエスかノーで答えてください」


 ふふっ、とアスターも笑う。


「その一。蒼斗様との過去のために死を選んだ三人は不幸ですか?」


 彼女たちが僕との過去を選んでくれたのが嬉しかった。でも、僕は三人に生きていて欲しかった。僕は何も答えられなかった。


「その二。蒼斗様との未来のために生を選んだ二人は不幸ですか?」


 彼女たちが生き延びて僕との未来に期待してくれたのが嬉しかった。でも、二人に僕のことを覚えていて欲しかった。僕は何も答えられなかった。


「答えられませんか。いえ、それが正解なのです。幸か不幸か決めるのは、道を選んだ者自身。わたくしでも蒼斗様でもございません。彼女たちは貴方がいなくても、彼女たちなりの幸福を見つけて生きられます」

「君のいう通りだ。少なくとも、僕を失った二人は前よりずっと幸せそうだった」

「理解が早くて助かります。そろそろ諦めもついたでしょう?」


 僕の代わりなんかいくらでもいる。我が侭でも良かったんだ。選んだ道で、その責任を負う覚悟があるのなら。自信がなくても良かったんだ。自信の無さに見合うだけの努力をしようと思えるなら。僕は、僕自身に従えば良かった。


「わかってたんだ。誰も傷つけない恋なんてもうできないって。考えもしなかった。僕がいない方が上手くいくこともあるなんて、悲観的でカッコ悪くて不誠実なこと――だから、もう諦めるよ」


 ふと隣を見る、両手と膝に埋めた顔には蕩けるような笑みが浮かんでいた。恍惚の境地に達した表情で、アスターはうふふと声を上げた。


「その三。ではわたくしと――わたくしと、愛し合ってくださるのですね?」


 満を持して、自分以外に選択肢がないと確信して、アスターはそういった。

 選ばないことが正しいこともある。アスターは選べなかった僕を責めているという風ではなく、選ばなかった僕を許しているという風でもない。

 死も忘却もある種の救いなのだ。死ぬことこそあの場では彼女たちの幸福だったかもしれない。僕がいない方がみんな幸せだったかもしれない。

 僕もにこりと微笑んで見せた。ぎゅっと目を瞑ると歪んでいた世界の線が整った。涙はもう流れない。期待した眼差しと蕩けた笑顔に、僕はいう。


「答えはノーだ。君と愛し合うことはできない。だって僕は、胡蝶のことが好きだから」

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