三章 * closest love【愛された人、愛されなかった人】

第14話 * 「貴方だけを見つめる」

 緋鉈葵ひなたあおいと出会ったのは十年前、小学校への入学を控えた三月末の日曜昼間のことだった。

 当時六歳の僕が応対したのは、黒い髪と白い肌のコントラストがはっきりした二人。方や高身長と黒髪ロングに丸いサングラスの女性。方やその背後に隠れる白い影が一つ。

 この春からの隣人は緋色ひいろなた、なんて物騒な字面の緋鉈さん。後から聞いた話だが、緋鉈母は有名な女優だったらしい。硝子のように透明感と芯のある挨拶も納得だ。


「ほら自己紹介、できるわよね?」


 娘は頷き、母は背を押す。腕を組んで目をそらし、仁王立ち。


「ひ、緋鉈葵よ! お隣のよしみで仲良くしてあげる!」


 風鈴をかき鳴らしたような声だった。すらっとした手刀が彼女の頭を撫でる。


「こら、変なキャラ作らないの」

「だ、だって、こうしないと上手く喋れないんだもん!」


 明るい色の涙目が僕と合い、母を睨み、俯いた。それを見て、僕は覚えて間もない作り笑顔を見せた。手を差し出すと、穴が開くほどに見つめて応えてくれた。


「大丈夫ですよ。僕の名前は水無月蒼斗。よろしくね、葵ちゃん」

「……あ、う、あぅ、よ、よろし、く」


 そうして緋鉈母は感心したようにこういった。


「まあ、よくできた子。きっとご両親の教育がいいのね?」

「……そう、ですね」


 それは僕を褒めたつもりで、僕と葵の二人を貶す言葉だった。思うところはあったけど、悪気はないというのも理解していた。だから僕は苦笑した。反論したところで彼女の機嫌を損ねるだけで誰も幸せにならない。僕が納得したふりをすることこそが、誰も傷つけなくてスマートな唯一の方法と思った。

 後々、それは間違いだったと思い直すことになるのだが。


 *


 小学校に入学してからも葵は変わらなかった。見栄っ張りで、誰彼構わず高飛車で、気づけば周りは敵ばかり。会話の輪に入ればうとまれ、困っている子に手を差し伸べればお節介だと睨まれ、やる事なす事が裏目に出る。葵はいつも寂しそうにしていた。

 四年生になった頃、葵はついにいじめられるようになった。誰が始めたのかはわからない。いつの間にか葵は無視されていて、机には悪意の満ちた落書きが増えて、物をよく失くすようになった。僕は、せめて葵を孤立させないように隣に寄り添った。ついにいじめが暴力に発展したとき、僕は葵の前に立っていた。


めなよ。いじめなんて、カッコ悪い」


 相手は暴力に躊躇ためらいがなく、体格のいい男子三人。カッコ良く勝てるとは思っていない。それでも日に日に増えるあざの理由を知ってしまったからには逃げるわけにいかなかった。そんなカッコ悪い真似できなかった。体育館倉庫に立ち込めるゴム製品と汗の匂いにむせ返りそうになる。


「お前には関係ないだろ、蒼斗くん」

「関係あるよ。僕は葵ちゃんの幼馴染だ」

「なんだよ、カッコつけかよ」

「そうだよ、カッコつけだよ」


 いじめっ子たちはわらい、僕も笑ってうそぶいた。

 次に目を覚ましたとき、五感が一挙に押し寄せた。熱、痛み、冷たい、鉄の味、涙の味、頭の下の柔らかさ。天井。夕日で陰った葵の顔は酷いものだった。下唇をきつく噛み締めて、涙と鼻水を垂らしてくしゃくしゃにして、お人形さんと評される美人が台無しになっていた。唾を飛ばしながら葵が叫ぶ。


「このバカっ、何でアンタがでしゃばってんのよ! アンタも無視してればよかったのに! あたしなんか放っておけばよかったのに!」

「ダメだよ、『あたしなんか』なんて言っちゃ」


 痛みを痛みで鞭打って立ち上がる。


「だ、大丈夫? 痛くない?」


 葵は離れる僕に手を伸ばし、おずおずと空を掴んだ。僕は行き場を失った手を掴む。


「帰ろう。一緒に」


 荒々しく、葵は涙と鼻水を空いた手で拭った。


「ごめん……ごめんね、蒼斗」

「いいんだよ。それより『ありがとう』の方が、僕は嬉しい」

「……ありがと」

 

 小さく頷いて、しっかり手を繋ぐ。二人で重い鉄扉を開く。鉄の擦れる重低音、カラスの鳴き声。黄金色に染まった体育館を歩く。その日から、僕らは幼馴染になった。


 *


 中学二年の夏だった。その日、僕は葵と一緒に帰ることができなかった。いつも一緒に下校していたわけじゃないが、葵の誘いを断ったのは初めてだった。それだけ、その日ゲームセンターに導入される新作ゲームを僕らは楽しみにしていた。事前に約束をしていたというのもある。


「蒼斗、今日、一緒に帰らない?」

「ごめん。今日は先約があるんだ」

「ふうん、別に、他に予定があるならいいわ」


 直後、葵はドアを開けることを忘れてドアに頭をぶつけて逃げるように僕の前から去っていった。目には大粒の涙が浮かんでいた。笑う友達と一緒に僕も苦笑したけれど、その涙が頭をぶつけた時のものか、それとも振り返った時には浮かんでいたものなのかがわからなくて、胸にわだかまりを残していた。

 結局、僕は少しだけ早く切り上げて帰ることにした。違和感を覚えたのは緋鉈家のインターホンを押した時だ。登校時は待ち伏せていたかのような速さで出てくる葵の反応がなくて、僕はわだかまりを残したまま家に帰ってきたのだ。

 水無月家の鍵は開いていた。玄関には二十二センチのカジュアルブーツ。階段を登って恐る恐る自室のドアを開く。薄く開いたドアの向こう側から、くぐもった声が聞こえた。


「えへへへぇ……蒼斗の匂いぃ……はあぁぁぁあ……匂いだけでイっちゃいそぉぅ……」


 僕のベッドの上で僕のタオルケットに包まる何者かがいた。奇行に走っているのは推定・緋鉈葵。僕は部屋の電気を点けた。

 髪を振り乱した葵が、タオルケットから鼻より上を覗かせた。見なかったふりをして目の前を通り、机の上に鞄を置いた。


「……見た?」

「見た」


 はっきりと頷くと、葵は取り乱してベッドの上に正座した。タオルケットと男物のパンツを離す気はないらしい。


「違うのよ? これはその、栄養補給っていうか。あ、えっと、と、とにかく違うの、ほんとうに」

「いいよ、別に。でも、先に言うべきことがあるんじゃないかな?」

「……おかえりなさい?」

「……こういう時は『ごめんなさい』の方がいいと思うよ」


 直後に葵が浮かべたはっとした顔には冗談ではないと書いてあった。


 *


 あれから5年が経った夏、あるいは昨日の昼休み、僕らは学校の図書館で対面した。

 葵はいつも一人だった。校内では唯一、図書室だけが葵の居場所だった。人見知りにも関わらず委員長に立候補するぐらい、彼女は図書室という場所を愛していた。

 図書館に着いて間もなく、葵の姿を見つけた。最も本とかびと埃の匂いが充満したすみの隅、掃除用具ロッカーの前に彼女はいた。手を振ると、彼女は見ていないふりをした。隣に立って同じように中庭を眺めていると、葵が風鈴のような声でこう切り出した。


「ねえ、アンタ、さ。好きな人とか、いる?」


 一音ごとに視線が泳ぎ、そのたびに視線が合う。


「べ、別に、蒼斗のことが好きとかそういうわけじゃ……なんて、言い訳なんて意味ない、か。あたしは、蒼斗が好き。頭のてっぺんからつま先まで好き。良いところも悪いところも全部大好き。あたしは蒼斗のこともっと深く、ちゃんと理解したい。もっといっぱい蒼斗のことが知りたい」


 葵は一度目を瞑り、再び大きく息を吸った。そうして、明るい色の瞳が僕を射抜いた。


「だから、さ。その。よかったら、あたしと付き合って欲しいの。ダメなら、いいから。ダメならせめて、今までと同じでいてくれれば、それ以上のワガママはいわないから」


 言葉を重ねるたびに声は掠れ、涙が溢れた。告白はそれで三度目だった。朝に告げられた二人の顔を思い出して、僕は答えを先送りにした。

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