第9話

 九



 パキスタンのファイサラバード国際空港に到着した小野達は、IHOの職員の指示で防護服に着替えた。


「この防護服、ものすごくゴワゴワするな。それに、縫い目も荒そうだし、本当に大丈夫か?」


 ウィリアムは防護服を着るなり、不安そうな声で文句を言い始めた。


「最新鋭のものですのでご安心ください、ミスター・リー」


 IHOの職員が面倒くさそうに答える。思えば、ウィリアムは飛行機に乗った時から文句ばかり言っていた。

 飛行機が揺れれば、やれ乱気流だのバードストライクだのと辺りを混乱させ、消灯した後も空気が冷たい、どこか穴でも空いてるんじゃないかと文句を言いつづけた。最初は丁寧に対応していたキャビンアテンダントも、最後の方では毛布を投げつける始末だった。

 乗客がざまあみろと思っている傍ら、小野は知識を持つことは様々な不安を生むものなのか、とも思い、エリーは今まで一緒に行動しなくてよかった、と安堵した。


 そんなウィリアムも空港を出ると、すぐに口が塞がった。それは他の者も同様で、緊張していた心がさらに引き締まった思いだった。空港の外には人の気配が一切なく、所々に全身から血を噴き出した人や動物が無残に倒れていた。風は東から西へ勢いよく吹いていて、時々パァンという銃声が辺りに鳴り響いた。


「ひどいわね。一体いつから……」


 エリーが口元にある無線で職員に尋ねた。防護服は口が完全に塞がれた状態なため、普通に話しても聞こえない。そこで、防護服に内蔵された無線を通して会話を行うのだ。他にも防護服に外付けされたマイクが、荒っぽくではあるが、外の音を彼らのイヤホンに届けていた。


「およそ十二時間前からです。アペプによる死者もさることながら、治安の悪化による犠牲者が後を絶ちません。治安部隊も初めは活動していましたが、司令官ふくむ上層部が次々とアペプに倒れてしまい、今では完全に機能を失っています」


 そこに一台の大型ワゴン車が現れ、中から防護服に身を包んだムトが現れた。


「エリー、よく来てくれたわね。他の皆さんは初めてですね。私がアペプの現地監督責任者をしているムト・ノーラです。これからみなさんにはアペプの最初の感染が確認されたナガル・パルカルというところに行ってもらいます。最初に言っておきますが、あそこはまさに地獄絵図です。気分を悪くされることが予想される方はこの場に残ってください」


 エリーが真っ先に心配したのは小野だった。以前に、地下遺跡の写真を見たとき、遺体が映し出された瞬間に吐きそうなそぶりを見せていたからである。


「セイジ、あなたは大丈夫?」


 小野は少しドキッとしてエリーのことを見た。


「ああ、特に問題ない。大丈夫だよ」


 小野は不器用に笑顔を作って見せた。


 一方、ジョーが心配していたのはミランダだった。ただでさえ神経衰弱になりやすい彼女が、たくさんの死体がある場所に耐えられるか心配だったのだ。彼女をずっと見つめるジョーに気づいたのか、ミランダは彼の瞳をじっと見つめるとニッと笑った。


「大丈夫だよ。防護服のせいで鼻が利かないのがネックだけど」

「まあ、それは俺も同じだ。イヤホンが耳に入っていて、耳の調子が悪くなっている」


 ジョーは目をさっと逸らすとそう呟いた。そんな彼の腕をミランダはそっと掴んだ。


「でも、もし私が危なくなったときは一緒にいてね」


 それはあの地下遺跡で怯えてうずくまる女性と同じ声をしていた。ジョーはしょうがないな、と思うと、掴まれている方ではない手で彼女の手を握った。自分もこの一件でずいぶん変わってしまったな、と我ながら思った。


「ああ、わかったよ」

「いいねえ、青春してるねえ」


 イヤホンからそう茶化すウィリアムの声が聞こえて、二人はハッと我に帰り、素早く距離を取った。ジョーとミランダとのやりとりは無線で全て周囲の人間に知れ渡っていたのだ。もちろん本人たちは二人だけでの会話だと思っていたのだが……。


「後でプライベート通信の仕方を教えるわ。そんなことよりも早く乗りなさい」


 ムトの言葉に一行は続々と車に乗り込んだ。エリーは先ほどの二人のやりとりに若干の憤りを覚えたものの、その奥にあるモヤモヤが邪魔をして、それを表に出すことはなかった。




 かつては多くの車で行き交っていたファイサラバード市内の道路は閑散としていて、車一つ通ってなかった。いたるところに人の死体や家畜の死骸が転がっており、数日すればハエが群がり、ウジがわくことは誰しもが容易に想像出来た。いや、動物すら死んでしまうのだから、そんな事すら起こらず、ただただ腐っていくだけかもしれない。


「そういえば……」


 走り始めてから一時間ほどしてムトが口を開けた。


「あなたたちから頼まれていた件、調べておいたわよ」


 彼女はタブレットを数回タップするとエリーに渡した。


「現地職員と派遣されたNGO職員に何人か養子で育った人物がいたわ。記憶がないかどうかまでは書類ではわからなかったから、会って本人に直接聞いてみて」

「ありがとう、ムト」


 エリーはタブレットに書かれた名簿を見た。小野もエリーの隣から乗り出すように見た。名簿を下に見ていくと小野はある名前に目が留まった。



 ネハ・ラオ



 第六章に出てくる「羅王」とイントネーションが近い気がした。


「エリー、これって」


 小野は彼女の顔を見る。彼女もそのことに気づいたらしく、二人は目を合わせて頷きあった。二人はネハ・ラオの資料を見てみた。彼女はインド出身で、国境なき医師団に看護師として所属していた。


「やはり、彼女に六歳以前の記憶があるかどうかわからないわね」

「そこは直接会って確かめるしかないだろう」


「そうね。ちなみに聴取するのはあなたがしてくれるかしら?」


 エリーの突然の提案に小野は驚いた。今まで彼女が主導で質問をしており、話の腰を折るようならばかかとで踏んで来ていた彼女が、小野に主導権を委ねるというのだ。


「どうして僕なんかに……」


 小野がおずおずと尋ねるとエリーはそっぽを向いて答えた。


「ほら……、あなたの方がそういうの得意でしょ」


 なるほど、と思う反面、どうして今になって、という二つの気持ちが小野の中で渦巻いた。


「わかったよ」


 小野はそう言うと、ネハ・ラオに会った時のシミュレーションを頭の中で始めた。




 そこからさらに二時間ほど走った。それぞれ思い思いに時間を過ごしていたが、その表情はどこか落ち着きがなく、よそよそしかった。この頃から道端に横たわる死体の数が多くなってきた。


「ここら辺は死者があまりにも多すぎて死体の処分すら追いついていないの。もう少ししたら目的地に着くわ」


 ムトが交差点を曲がろうとしたその時だった。原付バイクがものすごいスピードで対向車線から出てきて、危うく衝突しそうになった。 ムトは慌ててハンドルを切って衝突を回避すると、クラクションを鳴らしながら呟いた。


「おかしいわね……」

「どういうこと?」


 エリーが尋ねた時、後部座席に座っていたジョーが窓に張り付くようにしてそのバイクを見始めた。


「どうしたんだ、ジョー?」


 モランが心配した様子で尋ねる。


「行方不明になっていた俺の親友のボウ・タダノがあのバイクに乗っていたんだ!」


 それを聞いて、全員が目を大きく見開いた。


「ムト、あなたがおかしいと思ったことは何?」


 なぜここにジョーの親友がいるのか。エリーは何かヒントがないかと思い、ムトに尋ねた。


「この辺りの大気はすでにアペプによって汚染されていて、防護服をしていないとすぐに感染してしまうの。それなのに、あの人は防護服どころか、マスクすらつけていなかったのよ」


 彼女の言葉に小野は納得した。


「これでボウ・タダノが操られていて、かつアペプの開発者とボウ・タダノを操っている人物は繋がりがあることがわかったな」


 ジョーは呆然とした様子でボウが走り去った方向を見つめていた。脳裏にはこれまでの彼との思い出が流星のごとく流れている。


「あの方向には何があるんだ?」


 ジョーはムトに尋ねた。


「私はまだここに来て日が浅いから周辺のことはよくわからないわ。現地の人ならわかるかも」

「ジョー、何を考えているつもりなの?」


 ムトの言葉に重ねるようにしてミランダが尋ねた。


「まさか、あの人を追いかけるわけじゃないよね?」

「わかっていると思うけど単独行動は厳禁よ、ジョー。いくなら全員でそこに行きましょう」


 ミランダの言葉に沈黙するジョーにエリーは鋭く忠告した。


「ああ、わかってる。ただ気になっただけだ」


 彼は言葉を濁すと、元の場所に座り直した。車はしばらく進むと、大きな病院の前で停止した。病院の駐車場は遺体の入った黒いビニール袋で埋め尽くされており、入り込む余地がないほどだった。


「これは、なかなか……ひどいね」


 普段はお気楽な調子のウィリアムも流石にぐうの音も出ない様子だった。


「中に入って、職員の説明を受けてください」


 ムトの言葉に一行は病院の中に入っていった。病院はとても静かで人通りが少なかった。しかし、散乱した書類や転がった一足の靴から、つい数時間前までここが混乱に満ちていたことが想像出来た。


「ありえないでしょう。ここが1日前は大勢の人でごった返していたんですよ。それが今やこんなだ。あまりにも……酷すぎる」


 病院の入り口で大柄な男が小野たちに話しかけてきた。


「IHOから派遣されたライアン・ロフスキーです。気軽にライアンと呼んでください。私もまだここに来て日は浅いですが、この病院での過ごし方を説明します」


 ライアンと名乗る男は全員と握手すると、一つの部屋に連れていった。そこは何重にも除菌装置やエアーダスターが取り付けられており、外部のものは一切受け付けない、という厳重さがうかがえた。


「ここは、通称『クリーンルーム』と呼ばれる部屋で、職員が寝食することが出来る唯一の部屋です。男女兼用で、風呂はありませんし、トイレも仮設ですがここしかありません。ただ、防護服を脱ごことが出来るただ一つの空間ですので、リラックスしたい時はこの部屋を利用してください。中には十層にも及ぶ除菌装置が付いています。一つずつしっかりと潜って除菌した上で、中に入ってください」

「では、みんな中に入ってください。そこで、現状とこれからのことについて話そうと思います」


 ムトの言葉で一行はクリーンルームに入っていった。


「ウエッ、消毒液の匂いがひどいわ。こんなのとても正気じゃいられない」


 久々に防護服を脱ぎ、鼻で思いっきり呼吸したミランダはひどくむせた。


「それに、エアーダスターの音のせいで耳がキンキンする」


 ミランダに同調するようにジョーが耳を塞ぐ。


「はいはい二人とも、文句を言わずに前に進もうか。私だって長時間ガラス越しでものを見てたから目が疲れているんだよ」


 そんな二人の背中を押しながらモランは温かい言葉をかける。


 クリーンルームの中はひどく簡素で、二十畳ほどの部屋に二段ベッドが十五個と、大きなテーブルが一つ、あとは丸イスやパイプイスなどのイス類が三十個ほど置かれていた。テーブルには数名の中東系の人がいて、一人が白衣姿で二人がナース服、残りが私服を着ていた。


「現地の医者のナムハ・ジェラルド氏です。現地の医者で残っているのは彼しかいません」


 ムトは白衣姿の男を紹介した。男は片言の英語で「ヨロシク」と言って軽く会釈した。


「いま、この病院にいるスタッフはあとどれくらいいるんだい?」


 モランが辺りを見回して尋ねた。クリーンルームにはナムハ含めた数人以外は誰も見当たらない。


「あと十名ほど外で作業しているよ。最近は遺体の処理にその作業の比重は傾いてるけどね」


 ライアンがうつむきながら答える。


「ミスター・ジェラルド。まずは現状を説明してくれますか?」


 ムトはナムハにそう促した。


「君たち、見た、たくさんノ死体。つまり、人、大勢死んでいる。外はアペプで汚染。防護服なし、出たら、すぐニ死ぬ」


 ナムハはたどたどしく説明を続けた。


「綺麗ナ部屋、ここだけ。電気、使える。けど、水道水、飲めない。アペプに汚染されてル。トイレ、簡単ノある。食事、水、限られている。配られる時以外、ダメ」

「要は、外に出るときは防護服を絶対に着ることと、電気は使えるけど水道水は使えない。食事と水は配給制になっている。こう言うことね」


 エリーがナムハの説明を捕捉した。


「それぐらい、誰でもわかるさ」


 ウィリアムが茶化すように言うと、エリーがきっとした目つきで彼のことを睨んだ。そんな二人のやりとりが面白かったのか、スタッフの何人かが声を殺して笑った。その様子に二人は思わず見とれてしまった。


「すまない。彼ら、この頃、笑ってない。だから、つい……」


 ナムハは申し訳なさそうに頭を下げた。笑うことすら忘れるほど場が張り詰めているのか、と小野たちは改めて現場の悲惨さを痛感した。


「ところで……」


 エリーは話題を変えようと口を開いた。


「ここのスタッフに『ネハ・ラオ』という人物がいますよね?」

「ああ、いる……」


 エリーの問いかけにナムハは少し動揺した口調で答えた。


「できれば彼女と話がしたいのですが、よろしいですか?」


 彼女の言葉にナムハ含め、数名のスタッフがお互いを見て頷きあった。


「会えるが、彼女、ここにはいない」

「では、どこに……」


 ナムハは言うのをためらったが、エリーの目力に圧倒されて渋々と口にした。


「……入院棟」




 辺りは日が落ち始め、間も無く夜を迎えようとしていた。本来ならばこの町も人々が帰路に立つ時間だ。公園では遊んでいる子供たちがお腹を空かせ各々の家に撤収し始め、カササギはかわいげな鳴き声をだしながら飛んでいるはずだった。しかし、辺りは人どころか動物の姿も見当たらずシーンとしていて、不気味な雰囲気を醸し出していた。


 小野とエリーは病院の廊下を入院棟に向かって歩いていた。二人が探している人物、ネハ・ラオは、一人でずっとアペプに感染した患者の世話をしているらしい。ここ二日間、食事もとらず、睡眠も彼らとともにしているのだという。


「彼女は目の前にある命が助けられず、ただ朽ちていくことが悲しいんだと思うわ」


 ムトはうつむきがちに言った。


 目の前の命が助けられない。神崎の小説にあった詩の内容に似てるな。


 小野はそんなことを考えながらエリーと共に入院棟に入っていった。入院棟の病室のほとんどはすでに片付けられており、黒いビニール袋に入った死体置き場となっていた。普通の病室からさらに奥に行くと「集中治療室」と書かれた看板があった。中にはまだ生存している患者がおり、心電図がピーピーと心音伝える音を鳴らしていた。


 その部屋の中に一人の防護服に身を包んだ人物がいた。その人は一人の患者の手をそっと握っていた。その患者は全身から血を溢れ出し、白かったはずのシーツは真っ赤に染まり、心電図はプルルプルルと異常を告げるサイレンを鳴らしていた。


 


 おやすみ


 


 無線が通じていたわけではないが、こちらからかろうじて見えた口元はそう動いたような気がした。やがてピーと心電図が心肺停止を告げる音を出すと、防護服の人物はそっと心電図の電源を落とした。


 ブブッという無線がつながる音がした後、弱々しい女性の声がイヤホンから聞こえてきた。


「どちらさまですか?」

「インターポリスのエリー・コネリーです。こちらは日本のセイジ・オノ。ネハ・ラオさんで間違いないですか?」


 エリーが動揺することなく答える。


「はい。私がネハ・ラオです。ムトさんから話は聞いています。どうぞお入りください」


 ネハは集中治療室の入り口までゆっくり歩を進めると、扉を開けた。


「まだ生きてる方がいらっしゃったのですね」


 エリーがベッドで寝ている患者らを見渡した。


「生きてはいますが、助かる見込みはありません。彼らも持ってあと数時間でしょう」


 ネハは先ほど死亡した患者のところまで行くと、だらりと下がった手をそっと胸の上に重ねた。次に、病室の奥から黒いビニール袋を取り出すと、丁寧に遺体を中に入れていった。


「全員にやられているんですか?」

「私たちは彼らを助けるためにここに来ました。けど、私たちが出来ることは何もなく、今に至ります。なら、せめて葬いだけでも私たちの手で行うべきなのです」


 ネハは遺体をビニール袋に入れ終わると、ゆっくりとチャックを閉めながら呟いた。


「助けられなくてごめんなさい。来世があるのなら、あなたに精一杯の祝福があらんことを……」


 あたりに一時の静寂が訪れた。口を開ける者は誰一人としておらず、心拍を伝える電子音だけが空間を満たしていた。


「それで、私に何か用ですか?」


 ネハはこちらを向くとニコリと笑った。その声音からは疲れが垣間見えた。


「あなたにいくつか質問をしたいのですが、よろしいですか?」


 エリーの視線を感じ、小野は一歩前に出て言った。


「ええ、いいわ。いったん外に出ましょう」


 ネハの一言で三人は集中治療室の外に出た。彼女の声は弱々しいのだが、しっかりとした芯があってどこか安らぎを覚える声だった。


 小野は全員が出たことを確認すると、質問を切り出した。


「まず、あなたは六歳から養子に送られている。間違いありませんね?」

「はい、その通りです」


「次に、あなたは六歳以前の記憶を持っていますか?もし持っているようなら具体的なエピソードを聞かせて欲しいのですが……」

「六歳以前のことは全く思い出せません。どこか、ぽっかりと穴が空いてしまったような感じです」


 彼女の表現は小野たちが感じていた記憶の欠落の仕方を見事に表現していた。記憶が薄れたような霞がかかったものではなく、触れる事すら許されない空洞のようなものなのだ。


「なるほど。では、最後に重要な質問なのですが……」


 そう言って小野はネハのことをまじまじと見た。夕焼けに照らされ、彼女の顔が一瞬見えた時、その儚い表情に小野は質問することを少しためらってしまった。


「あなたは他の人よりも明らかに秀でていると自負する能力はありますか?」


 ネハはしばらく考えると、ゆっくりと喋った。


「そうですね、一つ心当たりがあるのでお見せしましょう」


 彼女は小野の手をそっと握った。そして、顔を可能な限り近づけて小野の表情をマジマジと見つめた。エリーはその光景がまるで、一組のカップルが世界の果てで愛を誓っている風に見えた。途端に胸がむしゃくしゃして静かに別の方角を向いた。小野は少し緊張しながらも、ネハの瞳をじっと見た。彼女の藍色の瞳はとても潤んでいて、今にも涙が一滴こぼれ落ちそうだった。


 やがてネハはポツリポツリと言葉を連ねた。


「あなたは今までにないくらい大きな勇気を持って行動していますね。自分の持っている力が役に立つと考え、普段は積極的に動かないのに動こうとしている。しかし、一方であなたはひどく混乱している。今まで自分のものと信じていたものが他人によって与えられたものだとわかり、不安と底知れぬ恐怖に脅かされている」


 彼女はそこまで言うと、そっと小野から離れた。


「いま言ったことはあなたの心の中で起きていることと合っていますか?」


 小野は呆然として立ち尽くしていた。彼女は自分の心の中に感じていたものを言葉に置き換えて鮮明化してくれたのだ。そのおかげで彼は今、自分を正確に見つめ直すことが出来ていたのだ。


 そして、この感覚がどこかで味わったものだと感じた。


「当たっています。一体、どう言うことですか?」

「簡単に言うと、私は人を観察することにより、その人が何を思っているのか、何を考えて生きているのか、を潜在的意識も含めて高精度で知ることが出来ます。主に顔の表情だったり、目の動き、脈拍だったり、呼吸音からこんな感じなんだろうな、と解釈しています」


「驚いたわね。そんなことが可能だなんて……」


 エリーは感嘆の声を出した。


「あなたもやっておきますか?」


 ネハはエリーに手を差し伸べた。エリーは思考を読み取られたら自分でも知らない感情が晒されるのではないかと思い、丁重に断った。


 その時、無線からムトの声が聞こえた。


「夕飯の準備が出来たわ。クリーンルームに戻ってきて」

「了解です。すぐに向かいます」


 エリーがそれに答えた。


「ねえ、ネハもいるでしょう?あなたもそろそろ何か食べたらどう?そうでないと体を壊すわ」


 ムトの声にネハは首を横に振った。


「私は現在生存している感染者全員の死亡が確認するまで、ここを動くつもりはありません」


 彼女が様子を見て、小野はなぜ彼女が食事を拒んでまで看病をしているのかわかった気がした。きっと、ネハは患者が今際に何を考えているのかがわかってしまうのだ。それを少しでも拾い上げておきたいから、食事もとらずにつきっきりで患者の世話をしているのだ。


「お二人はクリーンルームに戻ってもらって結構です。私は引き続き看病を続けます」


 ネハはゆっくりとした歩調で集中治療室に戻ろうとした。しかし、二日間飲まず食わずでいた体はすでに限界に達しており、彼女は扉の前で崩れ落ちてしまった。


「ほら、あなただってもう限界でしょう。ご飯を食べてからまた戻ればいいじゃない」


 エリーはなだめながら彼女の体を支えた。


「でも……、そしたら……、私たちがここにいる意味はありません!」


 彼女は嗚咽を漏らしながらそう叫んだ。無線のマイクが音を拾いきれずにビリビリと鳴った。


「ムトさん……」


 小野はクリーンルームにいるムトに呼びかけた。


「誰か一人でもいいのでスタッフをこちらに派遣してくれませんか?そしたら、彼女は一人で面倒を見続ける必要は無くなると思うんです」


 彼の提案にムトは軽くため息をつくと、


「わかった。今クリーンルームにいるスッタフを一人向かわせます」

 と言って、承認してくれた。


「あなたほどの能力はないですが、これで患者さんたちも報われると思いますよ」


 小野はネハにプライベート無線をつなげるとそう言った。ネハは弱々しく顔を上げて礼を言った。




 三人で入院棟からクリーンルームのある本部棟まで移動している途中、小野は先ほどの感じた妙な感覚について考えていた。


 まるで全て見透かされているかのようで、心が丸裸にされてねっとりと見られているような感じ……。そうだ。最初、神崎守に目の前で起きていることを次々と言い当てられたときと同じ感覚だ!


 そう思うのと同時に小野は神崎守の小説のカラクリが少し解けた気がした。しかし、それはあまりにも人間離れしたことで現実味はなかった。


 いや、待てよ。

 彼は考えた。


 いま目の前で現実味のないことが起きているんだ。この一連の出来事の真相が現実味のない話だって可能性はある。


 彼は頭の中で理論を組み立てながら、エリーとネハの二人とクリーンルームへ向かった。




 クリーンルームで夕飯を食べ終わると、七人は部屋の角に集まって会議を開いた。まずはネハに現状の説明とこれまでの捜査結果について報告した。ネハは小野の考えを読んでたからか、そこまで動揺せずに事実を受け止めた。


 ネハへの説明がひと段落すると小野は手を挙げて注意を引いた。


「ここで一つ思いついた仮説があるんだけれども聞いてくれないか?神崎守の小説についてだ」


 全員が息を飲んで彼のことを見た。


「もしかして、どうやって未来を予知したかわかったのかい?」


 ウィリアムがにやけながら尋ねてくる。


「ああ。今まで未来の事象を予知する方法までは自分の中で説明出来ていたのだが、登場人物の心境までは完璧に予知することまでは説明出来なかった。けれど、今回ネハに出会ってその一端がわかった気がしたんだ」


 一同がネハのことを見た。ネハは幾多もの視線が突然自分に向けられたことに驚き、肩幅を狭くした。


「彼女は人の表情や脈拍数などからその人が何を考えているか予想することが出来る。もし小説を書いた人物がそれに近いことが可能だとしたら……」

「どういうこと?一体あなたは何が言いたいの?」


 エリーが眉をひそめて尋ねる。


「例えば、エリーはウィリアムが皮肉を叩くとすぐに睨む。これは彼女の性格や日頃の振る舞いを見ていれば簡単に予想出来る。つまり、この小説を書いた何者かが僕らのことをよく知っていて、こうすればこう反応するというところまでわかっているとしたら……」


 そこまで言うとウィリアムが「そう言うことか」と言って顔を上げた。


「つまり、小説を書いた人物は私たちの行動パターンを全て熟知しているわけだ。そこに自分が仕掛けた人物がアクションを起こせば、その反応を事前に予測して小説に書くことが出来る」


 ウィリアムの説明で全員が目を見開いた。


「でも、そんなこと可能なの?セイジでさえエリーの行動を完全に予測することなんて不可能でしょう?」


 ミランダが尋ねる。なぜ例としてエリーを持ってきたのか、小野はあえて考えないようにして質問に答えた。


「僕らはゾルダクスゼイアンによって作られた可能性が高い。なら、彼らはそういったことが可能な人間も作れるんじゃないだろうか?」


 彼の言葉に全員がハッとした。


「なら、俺たちがこれからしようとしていることは、全て奴の思う壺なんじゃないか?」


 ジョーは気難しそうな表情を浮かべて腕を組んだ。


「まだ、この仮説が正しいと決まったわけではないよ。私はまだこの仮説に疑問に思っていることがある」


 そう言ったのはモランだった。モランはみんなが落ち着くまで待つと切り出した。


「セイジ、君の考えが正しいとして、第六章の詩のところはどう説明するんだ?」


 小野は手に持っていたペットボトルを一口飲むと口を開いた。


「人間の脳は糖分をエネルギーにしているけれど、ずっと糖分を与えていれば永遠に動かせるものではない。もちろん休息が必要なんだ。きっと、僕らの行動を予知する作業というのは脳にかなりの負担をかけるはずだ。だから、限られた時間だと予知する内容も限られてきてしまうと思うんだ」

「なら、もう少し後でもよかったんじゃないか?」


 モランは続けて尋ねる。


「もし、あの原稿が一日でも遅く僕の元に届いていたら、僕はあそこに書いてある通りに行動していなかったかもしれない。つまり、この小説は僕ありきで作られている。とても自己中心的な考えであることは認めるけれど。でも、そうなってくると、僕が小説を受け取るまでの日にちを逆算して書き終える日が決定する。そこまでになんとか第六章まで書かなきゃならなかったんだ。しかし、休息しながらだと間に合わなかった。だから、最後の章だけ不正確な詩を用いることで部分的に予知したんじゃないかな?」


 小野が言い終わると、ウィリアムが手を挙げて言った。


「それならもう一つ可能性はある。小説を書く人物にも予知出来る未来に限界があった、ということだ。例えば、一ヶ月先のことは容易に予想出来ても、そこから先は一気に難しくなる、とか……」

「確かにそれもあるかもしれない」


 小野はウィリアムの意見に同意を示した。


「それなら話が早いわ」


 エリーは全員の注意を自分に向けた。


「相手のカラクリがわかったのなら、今度はこっちから仕掛けましょう!」

「それについてなんだけど……」


 小野は言葉を濁らせながら彼女を遮った。


「さっきも言った通り、相手は僕らの行動パターンを全て把握している。つまり僕らがどう出ようと相手もそれを予測していると考えるのが妥当だと思う」

「じゃあ、どうすればいいの!」


 エリーは少し怒り気味で言った。


「僕が考えているのはこのまま彼らの思惑通りに途中まで乗っていく。そして、ウイルスの開発者に出会ったらパンデミックをやめさせるよう説得する。それが最善だと思うんだ」

「思惑通りに行動して途中で殺されたらどうするの?」


「彼らは僕らを殺す気は無いと思う。あるならとっくに殺しているはずだし、わざわざ面倒なことをしてまで僕らを集めないと思う。きっと理由はどうであれ、僕らは殺される可能性は少ない」


 エリーの怒涛の質問に小野は何食わぬ顔で答えた。こういったやりとりも随分と慣れたものだ、と小野は内心で思った。


「なら、話が早い。当初の予定通り明日は『アムシャ・ハー』に行こう」


 ジョーの言葉に小野とエリーとネハが彼のことを見た。


「アムシャ・ハーはこの近くにあるオアシスで、ジョーの親友のボウが向かった方角にあるらしい。しかも、ナムハの話によると、第一感染者はそのアムシャ・ハーから帰ったところ感染したそうなんだ」


 モランが補足するように丁寧に説明した。


「なるほど、確かに怪しいわね……。わかったわ。明日はそこに向かいましょう」


 エリーは即座に結論を出した。


「一応、ムトとライアンも同伴するみたい。何かウイルスのヒントがあるかもしれないからって」


 ミランダに言われてエリーはチラッとムトたちがいる方向を見た。彼女の視線に気づいたのか、ムトはこっちを向き、軽く会釈した。


「そうね。もし犯人と遭遇したら二人が役に立つかも」

「それは私も今、考えていたところだ」


 ウィリアムが笑顔で便乗してきたので、エリーは不快な視線を彼に向けた。結局、ここまで彼が何をしたいのか一切わからずじまいだった。


「とりあえず、みんな明日に備えて今日はもう寝よう。ネハ、君も来てくれるよね?」


 モランはネハのことを見た。彼女は小さく頷くと、


「でも、患者さんを最後まで看取らせてください」

 と呟いた。




 各々が様々な感情を胸に秘めて寝る中、ネハは一人で防護服を着て入院棟に行った。


 集中治療室にはまだ数人の患者が心電図の音にのせて精一杯に生きていることをアピールしていた。しかし、その音もやがて弱くなり、最終的にはピーという心肺停止を知らせる音に変わってしまう。


 ネハは心電図がその音を鳴らすと、そっと心電図の電源を落とした。


 鳴っては落とし、鳴っては落とし……。


 その作業を繰り返していくこと数時間。明け方になる頃、入院棟で作動している心電図は一つも無くなっていた。

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