第8話

 八


 劉・美友(リュウ・メイヨウ)は、カイロにあるIHO中東・北アフリカ支部の四階の廊下を、急ぎ足で自分のオフィスに向かって歩いていた。今しがた臨時の会議が終わり、これから追加の調査員を早急に選定しなければならなくなったのだ。

 パキスタンで発生したアペプのパンデミックは、確認されてからわずか数時間でその範囲を半径数百キロに伸ばしており、首都のイスラマバードに到達するまで時間の問題とされた。送り出したIHOの調査員のうちすでに二名の死亡と半数近くの感染が確認されている。


 なんとかウイルスの正体を突き止めないと。本当に取り返しのつかないことになる。


 美友はオフィスに戻ると、ディスプレイに映った部下からの報告を読みながら状況を整理した。アペプはウイルス、もしくはそれ以下の大きさのもので、これまでは感染力はゼロだったが、今回のパンデミックで空気感染が確認されている。そして、人が密集する地域に向かう傾向があるらしい。


「まるで意志を持った生き物ね」


 美友はそう呟くと、人差し指の爪を噛んだ。感染したら死亡する確率は百パーセント。この確率が今まで揺らいだことはない。


 打開策が見つからない彼女の脳裏に一つの手紙があった。手紙は彼女の所属するある組織からのもので、次のように書かれていた。


「幹部各位。本日付で『計画』の最終段階に移行する。各位はこれまで通り振る舞うように。なお、この情報は規約一〇七〇番により、一切の公開を禁止するものとする。各位の幸運を祈っている」


 私はIHOの理事として、そして一人の人間としてこの計画を止めるべきだった!


 彼女は頭を抱えてうずくまった。しかし反対したところで何も変わらないことは明らかだった。事実、この計画に反対したベン・ハドリーはアペプによって殺害されたのだ。


 扉をノックする音が聞こえて「失礼します」、という太い声の後に扉が開いた。彼女のボディガード兼秘書のライアンが部屋に入ってきた。途端に彼女は自分の体が熱くなるのを感じた。自分の心が弱っているときに思っている人が現れると、人というのは本当に脆くなるものなのだと自覚した。


「どうしたの、ライアン?」


 彼女は婚約指輪をそっと引き出しにしまうと、オフィスチェアから立ち上がり、ゆっくりと彼の元に歩いていった。ライアンも彼女との距離を縮めてくる。ほのかに彼の香水が彼女の疲れた体と心を癒してくれた。


 ライアンは彼女がそばまで来ると急に抱きしめ、熱いキスをした。突然のことに混乱しながらも、美友は彼のキスをそっと受け止めた。


「どうしたの、急に? 今はダメよ。同じ職場の夫に見つかったらどうするの?」


 美友はそっと彼から離れて甘い声で言う。


「そんなの関係ないだろう。それに、いけないとわかっているところでするキスは興奮するんじゃないか」


 ライアンは再び彼女を抱きしめ熱いキスを交わした。彼の舌と美友の舌はいやらしく絡まり、お互いの熱を高めた。


「なあ、美友。実は一つ訊きたいことがあるんだ」

「なあに?」


 美友はとろりとした甘い声で返した。すでに彼との熱いキスのせいで頭はぼーっとし、体のいたるところが火照って敏感になっていた。


「『リモデリング・プラン』について教えて欲しいんだ」


 その言葉に美友の頭はすぐに冷静さを取り戻した。とっさに彼のことを突き飛ばし、数メートル距離を置く。


「どうしてそんなことを知ってるの?」


 そう尋ねた美友の頭には既に一つの結論が出ていた。それはまさに自分たちが欲しい情報を聞き出したい時に使う手と同じだったからである。相手の親友や恋人を操り、情報を聞き出すと言う卑劣な手段。


「あなた、ライアンではないわね。何者なの?」

「いやはや、バレてしまいましたか。さすがはIHOの理事をされているだけある」


 ライアンの口調が急に変わった。彼はそれから一呼吸置くと話し続けた。


「私は『Oー七三八』、あなたたちで言う『アペプ』の被害を止めにウイから来た者です。あなたならそこまで言えばわかるでしょう」


 美友は彼の言葉で全ての事情を把握した。


「アペプの感染はあなた達の意思だと『彼』は言ってたわ」

「とんでもないです。『彼』こそが我々の保管庫から『Oー七三八』を盗み出し、オリジナルに改造したんです。我々はあなた達をまだ『観察対象』でしかみておらず、『抹殺対象』としておりません。そもそも、我々があなた達に接触すること自体、規約違反になります」


 美友はそっと自分のデスクに戻ると腕を組んだ。この目の前にいるライアンになりすました人物の目的を正確に知る必要があるのだ。


「それで、どうして『アペプ』を止めに来た人が、『リモデリング・プラン』のことを聞きたがるんです?」

「どうやら、『彼』はこの一連の計画にエリー・コネリーをはじめとする七人の一般人を巻き込んでいます。彼らの共通点を調べると、彼らは幼少期に『リモデリング・プラン』に参加していることまではわかりました」


「よくそこまでわかったわね」


 美友は感嘆の声をだす。


「我々にとっては大したことではございません。我々の作った基地であるユカタン半島の地下遺跡からDNAを検出し、ジョー・モリスとミランダ・カステヤノスを特定しました。その後、二人と同じ境遇、すなわち六歳までの記録がない者を世界中からリストアップしました。そこで浮かび上がった残り五人の共通点を調べただけです」

「そこまでわかっているなら、どうして私にそのことを聞くの?あなた達の技術なら調べられるんじゃない?」


「それが、計画は二十年以上前に中止されており、計画に関する書類やデータは完全に削除されていました。おそらく『彼』の指示でしょう。それ故に、私たちは直接この計画を知っている人物に聞く以外なかったのです」

「なるほどね」


 美友はそこまで言うと、組んでいた腕を解いて右人差し指の爪を噛んだ。途端に彼女の頭にある疑問が浮かぶ。


「ねえ。あなたは『彼』の同族なわけでしょ?」

「はい、もちろんです」


「なら、私がこれから何を言おうとしているのかわかるんじゃないかしら?『彼』はいつも私たちの言いたいことを当てていたわ」


 そう言われると、ライアンは少し照れ臭く笑うと言った。


「彼はそっちの方面では他を圧倒する才能があります。しかし、私のそれはまだまだで、せいぜい『あなたなら話してくれるだろう』、ということがわかるくらいです。なので、内容までははっきりとはわかりません」

「そう、わかったわ」


 美友はそう言うと再び手を組んだ。


「『リモデリング』という言葉はどういう意味かご存知かしら?まあ知っていると思うけど」

「ええ。『改造する』、という意味ですよね」


「そうよ。この計画は文字通り改造する計画なの、人間をね。薬の投与や心理的作用を働かせることなどによって、まだ発達段階の幼児に行われていたの。こんなの世間に公表すれば倫理観の欠如だと批判を浴びるのは確実だった。だから秘密裏に行われた。皮肉なことに、私たちIHOが主導となってね」

「計画を提案したのはやはり、『彼』ですか?」


「ええ。人類をさらに上の段階にするため、とか言っていたわ。いまにして思えば馬鹿げた話だったわけだけど、当時はみんな彼の考えを支持した」


 美友はそこで一呼吸おくと続けた。


「リモデリング・プランに参加した幼児の多くは実験に失敗して死亡、もしくは意思疎通が不可能な廃人になっていったわ。その子達は当然『殺処分』となって殺された。人類のさらなる繁栄のために未来ある子供達を犠牲にするなんてふざけているわよね」


 彼女の声は震えていた。


「計画に参加した幼児はどうやって選んだんですか?」

「身寄りのない子供なんて世界中どこにでもいるわ。産んだけれども経済的余裕がないから路地裏に子供を捨てる、なんて発展途上国ではよくあることよ」


 ライアンは続けて尋ねた。


「計画に参加した子供の中には成功した者もいたのでしょう?その子があの七人なのですか?」

「彼らだけではないわ。本来、実験に成功した子供達は冷凍睡眠させられ、来るべき日に目覚めるようにされてる。おそらく、その子達は『彼』が保管してるんじゃないかしら?」


「来たるべき日とは?」


 ライアンの質問に美友は鼻で笑うと答えた。


「いまこの瞬間よ。『アペプ』によって人類の九十九パーセントは死に絶える。そこで彼らが初めて目覚め、新たな人類を作っていく。それが『彼』の考えている計画の完成段階なの」


 美友は両腕を広げた。そこにはもはや憐れみと卑しめしかなかった。


「では、あの七人はどうやってこの計画から抜け出したんです?」


 彼の質問に美友は少し考えると答えた。


「かつて、リモデリング・プランの統括部長にアルバルト・リーという人物がいたわ。そこまで言えば、あなたなら理解出来ると思うけど、どうかしら? 」


 美友は試すようにライアンのことを見た。ライアンは美友の意図を感じたのか、ニヤリと笑った。


「ええ、もちろん。あなたの言葉のおかげで、全てが一つに繋がりました」

「やはり、あなた達はすごいわね。私たちはそこまで繋げることは出来ません」


「ハハハ。我々はあなた達のように物理的に戦うことは出来ません。だから頭を使うのですよ。そうすることで、今まで幾多もの争いを退けてきました」


 ライアンは軽く笑うと頭を指差した。そして懐から一本の試験管とUSBを取り出すと美友に渡した。


「これをあなたに託します。詳細と使用方法はこのUSBの中に保存されています。あなた方の技術なら三日とあればこの素材をものに出来るでしょう。ただし、約束してください。これを使うのは今回だけにする、と」

「わかったわ。約束する」


 美友は頷くと、試験管とUSBを受け取った。


「では、私はこれで」


 そう言って立ち去ろうとしたライアンを美友は慌てて呼び止めた。


「ちょっと待って。あなたはこれからどこに行くつもりなの?」


 ライアンは振り向いて彼女のことを見た。


「我々の基地は何もユカタン半島だけではありません。パキスタンの方にもあります。パンデミックが起きていることから、『彼』はきっとそこにいるでしょう」

「もしかして、その格好のまま行く気?」


 ライアンは少し考えると答えた。


「そうですね。これを何人にも使うと、始末書を多く書かなければならなくなるので」

「きっとパキスタンは入国規制されているはずよ。私が現地に電話して入国出来るようにしてあげる」


「それはありがたいです」


 ライアンは笑みを浮かべると頭を下げた。


「現地に着いたらムトという女性を訪ねて。彼女が現地責任者をやっていて、エリー・コネリーとも接触しているわ。きっと何かの役に立つはずよ」

「わかりました。ありがとうございます」


 ライアンは美友のオフィスから出ていった。


 美友は緊張の糸がほどけてどさりとオフィスチェアに座り込んだ。そして、狐につままれたかのような思いでボーっと天井を眺めた。


「もしかしたら……」


 彼女はそう呟くと、ライアンからもらったUSBをパソコンに指して、操作し始めた。

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