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「一本吸っても? こういう雰囲気の店にいると味わいたくなってしまって」


「かまわないよ。私は吸わないが香りが好きでね。この喫茶店も数少ない喫煙可能な店だから贔屓にさせてもらっているんだよ」


「今のご時世、喫煙が出来る店も少なくなりましたからな」


 ユナンはシガーカッターで葉巻の先端を切ると火をつけて一服した。至福を感じさせるように白い煙を口からこぼれるように吐き出していると携帯の着信音がした。ユナンは「失礼」と言うと立ち上がってフロアの端まで行き携帯に出た。


 法案は窓から小雨が降るフラスクウォークを眺めた。傾斜になっているこの通りを上っていくカップルは一つの傘の中に一緒に入っていて、まるで幸せの坂を上がっているかのようだった。


「お待たせいたしました、李さん」


 ユナンは椅子に着くと一つ咳払いをして口を開いた。


「ただいま部下から報告がありました。大変申し上げにくいのですが、丸川出版は『月の鳥』の続編を制作する予定は現在ないそうです」


「何だって?」


 法案はこれまで出したことのないくらい大きな声で叫んで立ち上がった。声は静かな喫茶店の隅々にまで響き渡り、それに気づいた法案は席に着いた。


「どういうことだい?」


 法案は小さな声でユナンに訊いた。


「部下に被害者の身辺を調べさせました。彼は生活文化局、いわゆるビジネス書などを発行する部署に所属していたそうです。また、丸川出版にも問い合わせましたが、『月の鳥』の続編を制作する予定は今のところないという回答をもらいました」


 頭の中が真っ白になった。まさか念願の名作の続編を制作するつもりで来たのに、警察の事情聴取をされたあげく制作する予定はないと言われるとは思わなかったからだ。


「では、私は今の話を署に伝えてきますので、この辺りで……」


 ユナンはそう言って立ち上がると、シルクハットを頭にのせた。


「後日、奥様にも事情を聞くため捜査員がご自宅に向かうかもしれませんがご了承ください。では」


 最後にそう言い残すと彼は喫茶店から出て行った。


 法案は、しばらく焦点の合わない目で店の天井を眺めていた。


 人々の宗教観に注目して執筆を続けてきた法案にとって仏教は他の宗教にはない異質さを持っていた。因果論、空、三法印……。まるで古代の人々が人間というものを理解するため

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