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に作られた学問のようなものだと彼は感じていた。その考えを見事に表現していたのが左塚治の「月の鳥」であった。法案はこの作品に出会ったとき、いつか自分の手で結末を書こうと決めた。たとえそれがエゴによるものだったとしても。


 まるで目の前に現われた禁断の果実の前で正座をさせられているかのような気分だった。決してそれを食べてはいけない、しかしその味を考えるだけで魅力は増していく。


 知恵の樹の実を前にしたアダムとイヴもこんな気持ちだったのだろうか。


 法案はふとそんなことを思った。エデンの園にある知恵の樹の実は食べてはならないとヤハウェより言われていたアダムとイヴだが、二人は蛇にそそのかされて食べてしまう。この出来事により二人はエデンの園を追放され、男には労働の苦役が、女性には出産の苦しみが与えられた。


 私が「月の鳥」の続編という禁断の果実を食べたとき、どのような苦しみが私を襲うのだろう。


 法案は底が全く見えない巨大な穴に落ちていく感覚に陥っていた。


「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」


 ふと頭の中で声が響いた。創世記の第三章で蛇がイヴに知恵の樹の実を食べるように促した時の言葉だ。いま自分の横にその蛇がいてそう囁いているように法案は感じた。


 そうだ、おそらくこの作品を書き切れれば私は何かつかむことが出来るのだろう。


 法案は禁断の果実を口にしたような興奮を感じ、鞄からノートと鉛筆を取り出した。先が丸くなった鉛筆を鉛筆削りで尖らせ、ノートの最初のページの一番上に走り書きでこう書いた。


「月の鳥―地上編」




第五章




 たくさんの音が聞こえる。


 水が流れる音、風が木々をなびく音、動物の足音、鳥の鳴き声……。


 それらの音が全て重なりあい、壮大な景色が頭の中で描かれる。


 そんな音の重なりから一つの鳴き声を聞き取った。


「ワッワッ、ワッワッ」


 この鳴き声は……。

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