第3話
三
二日後。小野とエリーの二人はパナマ市内でレンタカーを借りて、パナメリカナ自動車道をパナマ市外に向けて走っていた。これから出会うのは事件の第一発見者であるフェルト・ジーニョである。彼は勤務している警備会社から事件の責任を問われ、処分が下されるまで自宅謹慎になっている。
「そろそろ連絡する時間ね」
エリーはため息交じりにそう言った。ロンドンにいるウィリアムとは定期的に連絡を取り合うようにしており、そこで事件の情報や推論を共有する、いわゆる捜査会議みたいなものを行なっていた。
小野はスマホを取り出し、ウィリアムの電話番号にかけた。二、三回の呼び出し音の後にウィリアムの陽気な声が聞こえてきた。
「やあ、おはよう、二人とも。そっちだと朝の十時くらいか。ロンドンは十五時で、ちょうど間食の時間だからアフタヌーンティーを飲みながら失礼するよ」
ウィリアムはこの捜査会議をずいぶん気に入っているらしく、毎回ご機嫌な様子だった。
「前説はいいわ。それよりも死因について何かわかったかしら?」
エリーが気だるそうに訊く。この態度からわかるように、彼女はこの捜査会議があまり乗り気ではない。
「ああ。私が思うに、やはりあれはウイルスか細菌の可能性が高いと思ってね。人為的であろうがなかろうが、そうでないと説明がつかないと思うんだ」
「それについては僕も同意見です。どこでそれらが盛られたかは置いておいても、あのようなことを出来るのは工学的には難しいと思います」
現場には争った形跡はおろか、本人以外の人間の形跡が全くなかった。となると残ったのは生物兵器、または自然発生した新種のウイルスということになる。このことは小野も最初から推測していた。
「けれど、私のパリ市警時代の同僚がウイルスであれば感染が広がっているはずだと言っていたわ」
「そう。それでいくつかの学術論文を読んで調べてみた。その結果、一部のウイルスではDNAを操作することにより、感染力を著しく低下させることが出来ると書いてある論文を発見したんだ」
電話の向こうからはズズズッと何かをすする音が聞こえた。おそらくウィリアムがアフタヌーンティーを嗜んでいるのだろう。
「ということは、DNA操作によって感染力が全くないウイルスを作ることも可能、というわけね」
「理論的には可能だと思う」
「つまり、何者かが感染力はゼロだが致死性のあるウイルスを開発し、それを被害者たちに投与させたということか?これなら全ての事件に一応の辻褄があうと思う」
小野は瞬時に頭を働かせ、その結論に至る。もし、自然発生的に感染力ゼロのウイルスが出現したとしても、彼らは生きていくことが出来ず、やがて死滅してしまう。そうなると、何者かが作って保管していると考えた方が可能性が高い。もし、この仮説が本当だとすれば、この事件は全て人為的に仕組まれているということになる。
「けど、その考えにもまだ不明な点は多いだろう。何より、神崎守が君の行動を予言してたことに関してはさっぱり解明出来ていない」
確かに、と小野は俯いた。なぜ神崎の予想通りに自分が行動してしまったのか。あれから考え続けているものの、さっぱりいい考えが思いつかない。
「とりあえず、会議はここまでにしましょう。もうすぐフェルトの家に着くわ」
エリーは車のハンドルを切った。確かに、もう数ブロック先でフェルトの自宅に着く。
「わかった。続きは後で話そう。七時間後でいいかな?」
「ええ。その頃には私たちもひと段落してると思うわ」
「それじゃあ、また後で」
エリーは車を近くにあった空き地に入れた。小野もウィリアムとの電話を切ると、降りる準備を始めた。
「フェルトの自宅に行く前に軽く事件のおさらいをしておきましょう」
エリーは車のエンジンを切ると、荷物をまとめ始めた。小野はカバンからベン・ハドリーの捜査資料を出すと読み始めた。
「事件は今から一ヶ月前にパナマ・ヒルズの最上階にある彼のオフィスで起こった。異常を感じて駆けつけた第一発見者のフェルト・ジーニョとヒルズの警備員数名が、オフィスチェアで全身から血を流して死んでいる被害者を発見。他にもボディガード二人が拳銃により殺害されている。窓ガラスが破られていたことや、訪問履歴に名前がなかったことから、警察は何者かが窓から侵入し、ハドリーを殺害したのち、異常に気づき部屋に入ってきたボディガード二人を拳銃により射殺。再び窓から逃走したと考えているみたいだ」
車を降りて足早に歩くエリーのあとを追いながら、小野は捜査資料を読み上げた。
「それで、あなたが疑問に思っていることは何かしら?」
「まず、最大の疑問は神崎が書いた小説に登場しているはずの『ランダ』という女性が現れていないことだ。第三章はランダを軸に物語が書かれているのに、その本人がいないと言うのはかなりおかしい。もう一つはベンのパソコンだ。第三章によると、彼のパソコンに犯人と思われる人物からのメールがあるはずなんだ。それを警察がみすみす見逃すとは思えない」
「要は、捜査資料と第三章にはいくつか違うところがあるってことね」
閑散とした歩道を歩きながら小野は続けた。
「そして、最後の疑問はどうしてベンだけ全身から血を流して死んでいて、他の二人は射殺だったのか。ベンを殺すのが目的であれば、最初からベンも射殺すればよかったのに、犯人はそうしなかった。その理由とそうした目的を知りたい」
一ブロックほど歩いたところに簡素な木造の平屋建ての一軒家があった。そこにフェルト・ジーニョが住んでいるらしい。
「ウィリアムの時と同様に私が基本的には進めていくから、よろしく」
エリーはドアのインターホンを押した。ジリリリリと一昔前のベル音がなる。ややあって、一人の屈強そうな男が出てきた。
「はい」
出てきた男はしわがれた声を出した。その声色からかなり疲れが溜まっていることが分かった。
「昨日電話したエリー・コネリーです。フェルト・ジーニョさんですか?」
「はい、私がそうです。どうぞ、中へ入ってください」
フェルトは扉を大きく開けて中に入るように促した。その際、外を警戒するような視線に小野は気づいた。
建物の中は2LDKで、寝室ともう一つの部屋は物置として使っているらしく、ダンボールや置物が乱雑に置かれていた。
「すみません。ここ最近、掃除をしていなかったもので。散らかってますが、どうぞ座ってください」
フェルトはダイニングに二人を招くと、急いでテーブルの上にあるものを片付けた。食べ終わった皿が洗われずにシンクのところに積まれていたり、床がホコリで覆われているくらい掃除をしていないとなると、彼はかなり不摂生な生活をしていると予想出来た。
「それで、ベン・ハドリー氏の事件に関することでしたよね。電話でお話しした通り、警察が発表したことが全てなので、私から言えることは特にありませんが……」
コーヒーを入れながら話すフェルトに対してエリーが口を開いた。
「我々は警察の発表が全てではないと考えています。だから、こうして今日ここを訪ねたわけです」
「と、言いますと……」
フェルトがコーヒーを人数分入れてテーブルにやってきた。差し出されたコーヒーに一礼しながらエリーは続ける。
「例えば、当時現場にはあなたとヒルズの警備員数名がいたとされていますが、本当はもう一人いたのではないのですか?」
いきなり核心をつくのか、と小野は心の中で驚きを隠せずにいた。思ったことを直球で喋ってしまうのは彼女のいいところでもあるのだが、こういった尋問の場面ではあまり役には立たない。
「そんなことはありません。我が社では対象の警備は二人一組と決まっています。たとえ相手がVIP中のVIPであってでもです。もし、存在しないもう一人がいたとしたらその人の名前を教えて欲しいですね」
眉をひそめるフェルトを見て、エリーは小野に目線を配った。どうやらこの場で当時いたはずの人物の名前を当てろと言うことなのだろう。
そんな無茶な注文をするな。
小野は心の中でため息をつくと、考え始めた。
確か第三章の主人公の名前はランダ・ミノス・カステヤだった。これは第三章に出てくるメールの件名や第五章で城とランダが会った時のことから分かる。神崎守は本名をもじってその者の名前をつけている。つまり、この「ランダ・ミノス・カステヤ」の中に本名となるヒントが隠されているはずである。
小野は頭の中で幾通りもの組み合わせを試してみた。やがて、その中で一番しっくりくる名前が見つかった。
「……ミランダ……」
小野がポツリと呟くと、フェルトのコーヒーを持っていない方の手がピクリと反応するのが見えた。
「例えば、ミランダと言う人物がいたとしましょう。その人がベン・ハドリー氏を殺害し、窓を割って逃走した。違いますか?」
フェルトはコップをテーブルに置き、両手を頭の後ろに持っていった。
「あなたがたは公安の方ですか?私に犯人隠蔽と逃走補助の容疑がかかっているから覆面捜査でここに来た、違いますか?」
公安?犯人隠蔽と逃走補助?二人の頭に疑問符が浮かんだ。
「いいえ。私たちはそのような者ではありません。電話でも言った通り、私はインターポリスで刑事をしています。そして隣にいるセイジは日本の出版社に勤めており、今回事件の捜査に協力してもらっています」
エリーが丁寧に説明するが、フェルトの態度は変わらなかった。
「まあ、たとえあなた方が公安の方であってもそう答えるでしょうな」
そう言うと手をテーブルの上に置き、こちらの方をじっとみた。
「いいでしょう。あの日起こったことを全て洗いざらい話してあげますよ。無論、これはすでにパナマ警察の方々には話してありますがね」
事件があった夜、ヒルズの地下にある警備員室で仮眠をとっていたフェルトは、対象の心肺停止を告げる非常ベルで目を覚ましたそうだ。
慌ててモニター室からベンのオフィスに電話をかけてみるが反応は全くない。なので、フェルトはその場にいた警備員とともに最上階にあるベンのオフィスに向かった。
ベンのオフィスの前に常にいるはずのボディガードがいなかったことにフェルトは不信感を覚えると、彼のオフィスの扉をノックした。やがて中で窓ガラスが割れる音がし、フェルトはこれは人為的なものであると確信したらしい。持っていた拳銃で扉の鍵を壊すと中に突入したそうだ。
フェルトらが中に入ると、ベンはすでに死亡しており、ベンの警護をしていた二人のボディガードも床に倒れていた。そして割れた窓にはもう一人のボディガードであるミランダが電源ケーブルをつなぎ合わせたロープを持って立っていたらしい。
「待て! ミランダ!」
フェルトはそう叫んだそうだが、その時にはすでにミランダは窓から飛び降りていた。彼女はロープをターザンのように使ってヒルズの外付けの非常階段に降り立ち、そこから逃走したそうだ。
全て話し終えたフェルトは何か質問はあるかい、と言わんばかりな顔で二人を見た。小野は彼の話を聞いて自分でもおかしいくらいの興奮に飲まれていた。彼の言っていたことは神崎守が書いた第三章の最後のシーンと全く一緒だったのだ。つまり、神崎守はこの光景を目の当たりにしたと言うわけだが、そうなってくると彼の正体がかなり絞られることになる。
まさか……。
小野はフェルトのことを見た。
まさか、彼が神崎守なのか?
「一つ質問をいいかしら?」
沈黙を破るようにエリーが言った。
「あなたはさっき、基本的にボディガードは二人一組で行動すると言ってたけど、どうしてあの時、ベンの警護には三人ついていたの?」
「うちの会社でも例外はいくつか存在します。基本的には二人一組で警護に当たりますが、対象が命の危険を感じた時、またはボディガードがそう判断した時、本部に増援を求めることが出来るのです」
「つまり、ベンは命の危険に晒されていたと?」
「わかりません。彼の夜の様子がどうだったかは担当のボディガードに聞いてみるしかありません。もっとも二人は死亡し、もう一人は逃走しましたがね。ただ、本部に増援要請を出したのはベン本人からだったそうです。確か二十二時ごろでした。それは記録を見ればわかります」
二十二時ごろ。神崎守の文章によれば、ベンが何者かとの会食を終えてオフィスに戻ってきた頃だ。
「ベンは確かその日の夜に誰かと食事をともにしていたはずですが、一緒に食事をしていた人物の名前はわかりますか?」
エリーもそのことに気がついたらしく、すかさず尋ねる。
「はい、確かあの日の夕食はベンのご友人とでした。もちろん職務上、お相手の名前を確認しにレストランに尋ねたのですが、プライバシーを理由に断られてしまいました」
「正体不明の相手との食事をボディガードが許可してもいいのですか?」
「うちの会社は民間警備会社なので基本的には依頼主の希望通りに動きます。しかし、依頼主の地位によって我が社の警備レベルも変わってきます。例えば大企業の社長・会長クラスのVIP。これを形式的に我が社では『レベル五対象者』と呼んでいるのですが、それくらいになると正体のわからない友人との会食はお断りしています。しかし今回のベン・ハドリー氏は有名企業の相談役をやったりしていましたが、本人自体はそこまで財産を保有していませんでしたので『レベル三対象者』として警護していました。それくらいですと、ご友人との会食は許可されます」
さすがVIP専門だな、と小野は思った。パナマトップレベルのオフィスビルの最上階に事務所を構える弁護士でさえも「財産をあまり保有していない」と言う表現を使うとは。金持ちを相手にしていると金銭感覚が麻痺しそうだった。
「あなたからは何か質問があるかしら?」
エリーは小野の方を見て言った。
「では、一つだけ」
小野はそう言うとフェルトの顔をまじまじと見た。ここから先、彼の変化を一つも見逃すまいと集中した。
「先ほどの話は誰か他の人にしましたか?」
「警察の人には話しました。しかし彼らにこの話は他言無用でと言われたので、それ以外の人には誰も話していません」
彼は眉ひとつ動かさずそう答えた。小野はこれは核心をつくしかないなと思った。
「では、もう一つ。神崎守という人物をご存知ですか?」
そう言われると、彼は眉をひそめただけで他に変わった様子は見られなかった。
「カンザキ?誰ですか、それは?私は知りません」
声色も特に変化がなかった。ということは彼は神崎守と無関係なのだろうか?
「その人が何か今回の事件に関係あるんですか?」
フェルトは身を乗り出して聞いてくる。
「いえ、彼は別の事件の関係者でして、念の為に聞いただけです」
エリーは、かかとで小野の足を軽く踏んだ。小野は思わず声を出しそうになったが、精一杯耐えた。
「神崎守の話はしないって約束だったでしょ」
耳元でエリーがそう囁いた。彼女の冷たい息が耳を刺激して、少しくすぐったかった。
「君が何か聞けって言ったからだろ。それに、もしかしたら彼が神崎守と繋がっているかもしれないと思ったんだ」
エリーは再びフェルトの方へ向くと尋ねた。
「今、あなたから聞いた話と私がインターポリスで受け取った資料とは随分違うようですが、あなたはその理由を知ってますか?」
「あまりこういうことを見ず知らずの人に言うのは危険だから言いたくはないのですが……」
「大丈夫です。先ほども言った通り、私たちは公安ではありませんし、捜査の情報は一切外部には漏らしません」
フェルトの渋る態度にエリーは一喝する。
「わかりました。あなたたちが公安の人間ではないことを祈りながら話します」
フェルトは身を乗り出して、手の指を組んで話し始めた。
「二人は『ゾルダクスゼイアン』という組織を知ってますか?」
「いいえ、初めて耳にしました」
エリーは首を横に振った。
「あくまで噂なんですけど、世界中の政治家や富豪も所属している組織らしくて、その構成員は幅広く、老人から子供にまで至るとか……。いわゆる秘密結社というやつです。その実在するのかどうかも存在目的もわからない彼らなのですが、話によると、世界の富のほとんどを所有し、大半の国を意のままに操ることが出来るそうです」
そんな大規模な秘密結社が存在するのか? 聞いたこともないな。もしかしたらウィリアムが知っているかもしれない。
「今回、私たちが警護したベンはそのゾルダクスゼイアンの幹部だったっていう噂を事件の後で友人から聞きました。もしかしたら、ベンは何かしらの理由で組織ともめて消されたのではないかと私は考えたんです」
「しかし、それはベンを殺害する動機の話であって、捜査資料とあなたの話が違うということの説明にはなっていません」
「エリーさん、さっき言いましたよね、『彼らは大半の国を意のままに操ることが出来る』って。それはパナマとて例外ではありません。しかも、世界中の大富豪から愛されているこの国がゾルダクスゼイアンの手中にないわけないんです」
「つまり、パナマ警察はゾルダクスゼイアンの意思によって事実を捻じ曲げたと?」
小野はフェルトの顔をまじまじ見ながら訊いた。
「はい。そしてミランダはゾルダクスゼイアンに関わる重要な情報を知ってしまった。だから彼らは裏で彼女のことを血眼になって探しているはずなんです。そうじゃないと私が監視されている理由が思い当たらないんです。きっと、彼らは彼女がここに来るだろうと踏んで待ち伏せしているんですよ!」
「ちょっと待って!あなた今、監視されてるって言ったわよね? それは、そのゾルダクスゼイアンという組織に監視されているってこと?」
エリーが目を見開いて間髪入れずに尋ねた。
「わかりません。けど、ここ数日間、誰かに見られている気がしてならないんです。それが警察なのか、はたまた組織の者なのか。私にはさっぱりわかりません!」
そう言ってフェルトは頭を抱えた。
なるほど、どうりで外を警戒したり、自分たちを公安の人間じゃないかと疑ったりしたわけだ。そんな精神状態の中で暮らしていれば部屋は散らかるし、汚くなるよな。
小野は埃まみれのダイニングを見渡した。気のせいか、風も起きていないはずなのに床に積もった埃が舞った気がした。
「どうやら、私たちはとんでもないことに首を突っ込んでしまったみたいね」
エリーはコーヒーを飲み干すとと立ち上がった。
「フェルトさん、私たちはこれで失礼します。貴重な話を聞かせてくれてありがとうございました」
そそくさと立ち去るエリーに小野も慌ててコーヒーを飲み干すと、
「コーヒーご馳走さまでした」
と言って、彼女のあとを追った。
「予想していたよりもおおごとになってきたわね」
フェルトの家を出た瞬間にエリーは口を開いた。
「彼が言ってた秘密結社については後でウィリアムに聞いてみよう。存在の有無もわからないことについて推論しても意味はないからね」
小野は歩きながらスマホのナビを操作していた。
「いえ、あながち本当かもしれないわ」
そう言いながらエリーは後ろをチラッとだけ見た。
「あのカーボーイ帽子をかぶってる白ひげの男いるでしょう?あの人、私たちのことをずっと見てないかしら?」
小野はチラッと後ろを見てみた。そこには赤いカーボーイ帽子をかぶった男がトラクターのボンネットの上に座っていた。ただ、新聞で顔を隠しているため、どういう顔かは判別出来ない。
「あの人が? よくわかったね」
「刑事で尾行とかやってると、そういった勘が冴えてくるのよ」
エリーは歩くスピードを少し速めた。すると、カーボーイ帽子の男はトラックから降りて、何気ない歩調でこちらの方向に向かって来る。その顔は先ほどエリーが言った通り、白ひげを生やしていた。
「どうするんだ? 僕、尾行されるの初めてなんだけど……」
「尾行は気づかれたら終わりよ。相手に気づいた素振りを見せたらすぐに距離を詰めてくるわ。駐車場まで人間を保って、車に乗った時に一気に引き離すわよ」
駐車場まで早歩きで行き、車に乗り込むとエリーはアクセルを目一杯踏んで車を発進させた。
「レンタカーを返したら真っ先にホテルに帰ってパナマを発つわよ。ぐずぐずしてたら出国出来なくなるかもしれないわ」
「わかった。ウィリアムに電話してすぐにチケットを手配してもらうようにする。場所はロンドンでいいね」
「ええ、構わないわ」
小野はウィリアムの電話をダイヤルしながら後ろを見てみた。車が数台後ろを走っているが、どれが自分たちを尾行している車なのか判別がつかなかった。
数回の呼び出し音の後、ウィリアムが慌てた様子で出る。
「ちょうどよかった。私も君たちに電話しようと思っていたところなんだ」
「すまない、ウィリアム。至急、ロンドン行きの飛行機のチケットを二つ取ってくれないか?」
「その様子だと、どうやら面倒ごとに巻き込まれたようだね」
「ええ、下手したら出国出来なくなるくらいの面倒ごとよ」
車のアクセルをさらに強く踏みながらエリーが言う。
「わかった。すぐに手配するよ。それより君たち、フェルトという人物には無事に会えたのかい?」
「ああ、もちろん会えたよ。興味深い話が聞けたから後で共有するよ」
「それ、本当に本人なのか確認したのか?」
「どういう意味だい?」
彼の言葉に嫌な感じがした小野は恐る恐る尋ねてみる。
「いや、実はベンの事件を調べようと地元紙を読んでいたら、現地時間で今朝の朝刊にフェルト・ジーニョという人物がパナマ市内で自殺しているのが発見されたらしいんだ」
「なんですって!?」
ウィリアムの言葉に二人は耳を疑った。
では先ほどまでフェルトと名乗っていた人物の正体は?
今すぐにでも引き返して問いただしたかった。しかし、尾行されている身でそれが危険であることは重々承知していた。ひとまず、パナマを出国してから彼のことは考えることにしよう。そう思った矢先、小野の脳裏にフェルトに会いに行く前の捜査会議の内容がよぎった。
「ねえ、エリー。何か気分が悪くなったりしてないか?」
「いいえ、特に、今のところ目立った異常は感じないわ」
「どうしたんだい、セイジくん」
小野の突然の質問に二人は戸惑った様子を見せた。
「さっきフェルトではない彼に会う前に僕らが話した内容を覚えているかい?『何者かが新種のウイルスを投与したことにより被害者たちは死亡した』って。もしその仮説が本当で、僕らがさっき出会った彼がフェルト・ジーニョではない犯人側の人間だとしたら……」
その言葉にエリーは鼓動が大きくなるのをはっきりと感じた。
「私たちは彼の出したコーヒーを飲んだわ。そこにウイルスが仕込まれていたとしたら……」
「僕らはすでに感染しているということになる」
エリーは思わずハンドル操作を誤りそうになった。彼女の頭の中は真っ白になり、目の前の視界もぼやけて無くなりそうだった。
「このウイルスの潜伏期間はどれくらいなのかしら」
彼女の声は少し涙じみていた。彼女の目は少し潤んでおり、いつもは強気な彼女がとてもか弱く見えた。その声を聞いて、ウィリアムは慰めるように言った。
「ウイルスの正体がわからない以上、はっきりとしたことは言えない。けど、一日は様子を見た方がいいと思う」
「あと気をつけるべきことは傷をつけないことだと思う。フランスでヘレナが死亡した時、ヘレナは唇を噛んだ瞬間に発症していた。もしかしたら出血することによって、ウイルスが活性化するのかもしれない」
「わかったわ。一日様子を見ることと、出血しないようにすることね」
エリーは自分に言い聞かせるようにそう言った。その時、彼女のスマホがバイブ音を上げた。
「はい、エリー・コネリーですが」
「もしもし、私、IHOのムト・ノーラというものですが、テレビ電話なので顔を見せてくれませんか?」
スピーカー設定の声を耳元で聞いたエリーは思わずスマホを耳から離した。わざわざ回線が重いテレビ電話を使用するというのは珍しいことだ。エリーはスマホをナビの横に置くと、テレビ電話の画面になり、アラブ系の女性が顔をのぞかせた。
「IHOの方が私に何か用かしら?」
「インターポリスからあなたが全身から出血死する事件を個人的に捜査していると聞いて連絡しました。いまお時間は大丈夫ですか?」
「手短なら大丈夫よ。長くなるなら後にしてほしいわ」
エリーは少し苛立ちを覚えながら答えた。
「では簡潔に用件を言います。南アフリカの病院でチャールズ・アダムという方が全身から出血して亡くなるというケースが報告されました。私はこれから現場検証のためにその病院へ向かいますが、あなたはどうしますか?」
ここにきて新たな症例が確認されたのか。
エリーは小野のことを見た。小野は頷いてそれに応える。
「わかったわ。私もそちらに向かうので、詳しい場所の情報をお願いします」
ムトは病院の住所を言うと、
「それじゃあ現地でお会いしましょう」
と言って電話を切った。
「ウィリアム、聞いていたかい。行き先を南アフリカに変更してくれ」
電話が切れたことを確認すると、小野はすかさずウィリアムに言った。
「ああ、もうすでにやっているよ。三時間後の便に空きがあるからそれでいいね?」
「ええ。時間は早い方がいいわ」
エリーがそう言い終わった頃には車はレンタカー屋にたどり着いた。
「なんとか尾行は巻けたみたいね」
バックミラーを確認しながらエリーは安堵の息をつく。
「とりあえず、情報の共有と詰めは一旦落ち着いてからについてからにしましょう」
「それは私も賛成だ。二人とも気をつけて」
「急ごう。飛行機に乗れさえすれば僕らの勝ちだ」
ウィリアムとの電話が切れた事を確認して小野は言った。二人は車を降りて太陽が照りつける下、早歩きで進み始めた。
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