第4話

 四


 パナマからケープタウンへの直通便はなく、ドイツのフランクフルト空港で乗り継ぎをしなければならなかった。その待ち時間の間、三人は情報の共有のために捜査会議を開くことにした。時刻は午前十時を回ったところで、フランクフルト空港は朝から飛行機を利用する客で賑わっていた。二人は空港に隣接するホテルの一室を借りてスピーカー通話で捜査会議を始めた。


「いやはや、まずは無事に出国出来てよかったよ。私の方も特に異常はない。今は朝食後のイングリッシュブレイクファストを飲んでいるところだ。君たちも何か食べたらどうだい?食べられる時に食べておいたほうがいいぞ」


 電話口からウィリアムの陽気な声が聞こえる。


「奇遇ね。私たちもルームサービスの朝食を食べているところよ。あれ以降、特に体も異常は感じないわ」


 エリーは皮肉を込めて答える。


「そうか、それは良かった。とりあえず君たちが会ったフェルトと名乗る人物が何者であるかは置いておいて、彼から聞いた話を教えてくれるか?」


 エリーは手帳を取り出した。

「ベンは事件が起きた日の夜、会食から帰ってきてからボディガード会社に警備の強化をお願いしているわ。これは警備対象本人、またはボディガードが警備対象に命の危険が迫ったと感じた時に求めるものらしいの」

「つまり、ベンは命の危険を感じていたということか?一体誰から……」


「おそらく会食した相手にその原因があると思うんだ。けど、会食の相手の名前は結局わからなかった」


 小野はルームサービスのフレンチトーストを食った。ドイツにいるのにフレンチなのか、と一瞬くだらない思考が彼の頭をかすめた。


「そう、それでここからが本題なんだけど……」


 エリーは前置きするとゾルダクスゼイアンにフェルトが監視されているかもしれないと怯えていたことを話した。


「なるほど、ゾルダクスゼイアンか……。どこかで聞いたことがあるような……。そういえば一度、その組織について調べたことがあったな。なんでも数千年も前からある組織らしくって、ガリレオやニュートン、さらに古い時代だとガウタマ・シッダールタや古代エジプトのファラオも何人か所属していたらしい。まあ、ここまでくると信憑性は皆無だけどね」

「そんな情報、ネットには一切のってなかったわ。ネットには人工知能が作った架空の秘密結社とか言う都市伝説として扱われてたけど……。一体どうやって調べたの?」


「ネットの情報なんてあてにならないよ。しかもこういう秘密結社関連の情報はね。私の場合、そういった研究をしている友人が何人かいて、彼らから情報を得ているんだよ」


 ウィリアムは得意げに言った。


「なるほど。……それでゾルダクスゼイアンの目的とかは知ってるかい?」

「いいや、それに関しては研究者もみんなお手上げなんだ。存在もわかっている、構成員も数名わかっている、規模も推測だけどわかっている。けど、肝心の目的がわかっていない。友人の何人かは規模から推測して世界を裏から操ることではないかと考えていたりしているよ」


「それならフェルトと名乗ってた男も同じようなことを言ってたわ。世界の大半の国を意のままに操ることが出来るって」


 エリーの言葉に小野がすかさず反応した。


「でもそれだと構成員は国家の重鎮や大企業のお偉いさんだけでいいはずだ。わざわざ情報漏洩のリスクまで犯して人種、国籍、年齢、性別問わず様々な人を構成員にする必要はないはずだ」

「あるいは言論、思想の統制かもしれないね。それなら構成員を大勢集めているのにも説明がつく。……そういえばセイジくん、私と君が初めて会った日に二人だけで話した内容を覚えているかい?夕の鳥を書いていて、殺害予告が送られてきたって話だ」


 小野は四日前にウィリアムと会った時の会話を思い出した。


「はい、覚えていますよ。たかが作品一つにそこまでするのかな、と疑問に思いました」

「あの話なんだが、陰謀論的には『夕の鳥』は世界の秘密を明かす暴露本だと言われているんだ。その本が完成すると、世界を揺るがすほどの衝撃を与えることになる。だから右塚治は夕の鳥の最終章を書く前に殺された、という話を聞いたことがある」


「えっ、でも彼はすい臓がんで亡くなっているはずです。殺されたという話は聞いたこともありません」

「ああ、私もにわかに信じていなかったが、このことがゾルダクスゼイアンによるものだとすれば全て説明出来ると思うんだ。何らかの方法で右塚治を殺して、日本のメディアに癌で死んだと流せば、国民はそれをそのまま信じると思うんだ」


 そんな上手い話があるのだろうか?そもそも「夕の鳥」が果たして世界を揺るがすほどの内容を秘めているのだろうか?


 小野はフォークを置き、腕を組んで俯いた。


「ねえ、その話って物証も何もないんでしょ。なら、いくら推論したところで無駄だと私は思うんだけど、違うかしら?」

「確かに彼女の言う通りだ。物証も何もない状況で推測なんていくらでも出来る。ウィリアムさんはそっちの方の専門家に一応聞いてみてくれませんか?」


「ああ、お安い御用だ。次の捜査会議はいつ頃がいいだろう?」

「飛行機の移動に十二時間かかるから、翌日でもいいかしら。それまでこちらが得られる情報はないと思うわ」


「わかった。じゃあ今から三十時間後に捜査会議を開くことにしよう」


 そう言ってウィリアムは電話を切った。そのタイミングでエリーはため息をついて小野を冷たい声色で問いただした。


「ウィリアムが殺害予告を受け取ってたって話、初耳だったんだけど、どう言うこと?」

「プライベートな話だったし、その、報告する必要がないと思ったんだ」


「捜査っていうのは情報共有が基本なの。私、その話全然知らなかったから、途中からついていけなくなってたわ」


 そう言いながら、彼女は赤みがかったブラウンヘアーを耳の後ろに向かって撫でた。確かに、彼女が割って入らなければ、小野とウィリアムは果てしなき推測の旅路を突き進むところだった。


「……すまなかった」


 小野はこうべを垂れた。


「次からは事件に関係しそうな情報はすぐに共有すること。いい!」


 突き放すように言うと、彼女は立ち上がりジャケットのボタンを外し始めた。


「ひと段落したから、私はこれからシャワーを浴びるわ。わかっていると思うけど、絶対に覗こうとしたり、聞き耳を立てないようにね」

「するわけないだろ。僕は陰気なニッポン男児だ。そんなことする度胸がない」


 たとえ自分が日本人でなかろうと、彼女に見つかった時のことを考えると絶対にやらないだろうな、と小野は背筋が凍る思いをした。


「なら安心だわ」


 エリーはジャケットをベッドの上に脱ぎ捨てた。途端に彼女の白い肌があらわになり、白無地のTシャツからは水色のレース付きのブラが透けて見えた。それが見えた瞬間、小野は胸がせり上がるような感覚がし、とっさに目をそらした。


「じゃあ、僕は一階の貸しシャワールームを使うよ」


 小野はそそくさと荷物をまとめて部屋を出た。


 何でこうなった?


 そう小野は自問しながらエレベーターに乗った。最初、別々に部屋を取るはずだった。しかし、この日は部屋がほとんど埋まっており、ダブルの部屋しか空いていなかったのだ。別々のホテルに泊まろうと小野は提案したのだが、待ち合わせなどが面倒になる、とエリーはダブルの部屋を取ったのだ。


 そもそも仕事関係の男女が同じ部屋に寝泊まりしてもいいのか?芸能人がそんなことしたら絶対に記事にされ、やれ不倫だの浮気だのと騒ぎ立てられるだろう。今からでも別々のホテルに泊まろうと提案してみようか、と小野は考えたが、今の小野にそこまで進言する勇気はなかった。


 小野はフロント横にある貸しシャワールームで汗を流し、再び部屋に戻ってきた。すでに部屋の明かりは消えており、ダブルベッドにはエリーがスヤスヤと寝息をたてながら眠っていた。


 彼女は襲われることを考えていないのだろうか?


 小野の頭にはふと思ってはいけないことがよぎる。いや、たとえ自分がエリーを襲おうとしても彼女なら余裕で制圧出来るだろう、と小野は即座に考え直した。それを加味してあえて一つの部屋を取ったのかもしれない。


 まあ、そんな愚行、するわけないけどね。


 小野はアイマスクをつけるとソファに横になり、毛布をかぶった。


 出発までおよそ七時間を切っていた。




 季節的に夏が過ぎたケープタウンは程よい暖かさで、カラッと晴れた青空は気持ちが良いくらいだった。


 ケープタウン市立総合病院に着くと、エリーは小野に


「あなたはここで待ってて」


 と言って一人で受付に向かっていった。小野は昨日のことをまだ根に持っているのか、と肩を落とした。


 受付に行ったエリーはピンクのナース服を着た看護婦に声をかけた。


「すみません。私、インターポリスのエリー・コネリーという者なのですが、IHOのムト・ノーラという女性がここにいると聞いて来ました。彼女に会うことは出来ますか?」

「しばらくお待ちください」


 看護婦は手元の端末を操作し始めた。


「ただいま呼び出しておりますので、しばらくお待ちください」


 そう言われると、エリーは暇を潰すためにここに来る途中でした小野との会話を思い出した。




「南アフリカには何かヒントになるようなことは書いてあったかしら?」


 ケープタウン市立総合病院に向けて車を走らせながらエリーは尋ねた。


「ああ、物語の第二章にモランと言う人物が恩師のチャーリーという人物を亡くしている」

「今回亡くなったチャールズという名前と似ているわね」


「二人が同一人物の可能性はかなり高いね。そしてキーとなるのはこの章の主人公のモランだ。チャールズの教え子で、アメリカに留学した後、起業している。しかも週に一回は欠かさず見舞いに行っているくらい情が深い人物だ」

「それくらいの情報があれば、すぐにしぼり出せそうね」


 彼女はそう言いながらハンドルを握る手を強める。二年前のヘレナの事件以降、エリーはハンドルを握るのが次第に怖くなって来ていたのだ。ここまでほとんど小野とウィリアムのおかげで事件の謎は紐解かれている。果たして自分はこの捜査に必要なのだろうか。そんな不安や焦燥感を人並み以上の速さで走る車を運転することによってさらに高まっていた。




「ミス・コネリー、お待たせしました」


 中低音の音域の声が聞こえてエリーはハッと我に返った。目の前には一昨日テレビ電話でみた中東系の女性が立っていた。


「改めて初めまして。私がIHOのアペプ対策委員会のムト・ノーラです」


 ムトは小麦色の手をエリーに差し出した。


「エリー・コネリーです。アペプ対策委員会とは聞いたこともない部署ですが、普段はどういった内容のお仕事を?」

「普段はアフリカ北部地域の疫病問題について活動しています。現在、私が所属している『アペプ対策委員会』は今回の病原菌、『アペプ』の感染ルートを調べるために結成された特別チームです」


 なるほど、IHOではこの病気を「アペプ」と名付けたのか。すぐに名前をつけたりするところが専門家の集まりっぽいわね。


「談話室にご案内します。お連れの方はよろしいですか?」


 ムトはロビーの椅子で暇を弄ぶ小野の方を見た。


「大丈夫です。彼は、ほんの付き添いなので」


 エリーは反射的にそう答えてしまった。彼の能力に対する嫉妬からなのか、それとも他の何かがそうさせたのか、その時の彼女にはわからなかった。


「では、こちらにどうぞ」


 ムトに連れられて病院内を百メートルほど行ったところに応接室と書かれた部屋があった。中にはホワイトボードとタッチスクリーン、そして白い長テーブルが一脚とオフィスチェアがそれぞれ二つずつ向き合うように置かれていた。


「飲み物はコーヒーでいいですか?」

「あっ……水でお願いします」


 フェルトの一件以来、彼女はコーヒーを遠ざけるようにしていた。そうしたところで何も解決するわけではないのだが、彼女はしばらくコーヒーを飲む気分にはなれそうになかった。しばらくすると、若い看護婦が水とコーヒーを持って現れた。エリーは水を受け取ると一口飲んで喉の潤いを補充した。


「では、まずそちらがこれまでの捜査で得た情報を教えてくれませんか?」


 ムトがタブレットを手に持ち訊いてきた。エリーは手帳を広げると今までの捜査の内容を伝えた。ウイルスが人為的に作られたこと、それを何者かが意図的に被害者に服用させたこと。神崎守の小説のこととゾルダクスゼイアンのことについては触れなかった。IHOは国際機関で、彼らが内部に潜んでいる確率は十分に高いからであった。


「私たちがこれまでの捜査で集めた情報は以上です」


 エリーは手帳のページを新しいものにした。


「次はそちらの見解を教えてください」


 ムトはタブレットに数単語書き加えると軽くタップした。


「わかりました。……私たちのチームでも死因がウイルスである場合、DNA操作により感染力が0になった致死性のウイルスを直接投与されたという見解が大勢を占めています。事実、今回の被害者のチャールズ・アダムの体からは人体では生成されるはずのないタンパク質、すなわち抗原がいくつか見つかっています」

「では、やはり死因は致死性の高いウイルスによるものなのでしょうか?」


 エリーはメモをとるペンを止めてムトのことを見た。


「それについてははっきりしたことは言えない、というのが現在の我々の結論です。そもそも発見されたタンパク質は今までの研究では考えられないようなアミノ酸配列によって構成されており、特定するにはそれなりの時間がかかります。そして肝心の病原体なのですが、これが発見にかなりの難色を示しています。そもそも増殖しない病原体なので、培養することは不可能ですし、ウイルスのように一粒一粒が極小のサイズだった場合、高度な電子顕微鏡を使っても探すのに労力を必要とします。ともかく、今回の病原体は常軌を逸したものであることは間違いありません」

「では、今現在この病原体を殺す薬やワクチンは開発出来ない、ということですか?」


 エリーはムトの情報をメモ帳に書きながら訊いた。


「ええ。感染したらおそらく百パーセント死に至るでしょう」


 彼女の言葉を聞いてエリーは目に見えない鎌の刃が自分の首に当てられているような気がして、思わずペンを落としてしまった。「大丈夫ですか?」というムトの言葉に笑顔で応えつつも、ペンを拾った彼女の手は小刻みに震えていた。


「私たちからは以上です。何かそちらで聞いておきたいことはありますか?」

「チャールズの見舞いに来ていた人のリストを見せてもらってもいいですか?彼について詳しく知りたいので」


「わかりました。一般の方に見せることは本来ダメだそうですが、ここは私の顔を立てて借りてきましょう」


 ムトは微笑むと、談話室を出て行った。ややあって白いリングファイルを持ってくるとエリーに渡した。


「彼が入院してから亡くなるまでの見舞客の名前が書かれています。情報は名前と年齢と電話番号しかないけど、あなたたちならそれだけでも見つけられますよね」

「ええ、十分よ」


 エリーは笑みを浮かべて返した。


 面会者名簿を見ていくと、ほぼ一週間間隔で見舞いに来ている若い男性がいた。名前をモラン・ゴディマ。神崎の小説に登場してきた人物と名前がほぼ同じだった。彼女は彼の電話番号をメモし、さらに複数回見舞いに来ていた人物の名前と電話番号を書き写すと、ムトに礼を言って名簿を返した。


「ありがとう、参考になったわ」

「こちらこそ、詳しい話を聞かせてくれてありがとうございます」


 ムトは少し間を置くと、意を決したかのように話し出した。


「ミス・コネリー。私たちは細菌やウイルスの専門家で、殺人事件の捜査が専門ではありません。だから、あなたたちでこのウイルスを作り出した人物を突き止めてほしいのです。私たちだけだときっと時間が足りないから」

「それはどういう意味?」


「おそらく、犯人は高度な遺伝子改造技術を持っています。もし、彼または彼女がウイルスの感染力を大幅にアップさせたなら、あっという間に世界中で恐怖のパンデミックが起きるでしょう。私たちは万が一の場合に備えてウイルスを治療することをメインに動くよう上司から言われているのです」

「つまり、現時点で犯人を探せるのは私たちしかいないってことね」


 エリーの張った声にムトも頷く。


「はい、そういうことです。私たちもパンデミックは決して起きて欲しくないと思っています。ミス・コネリー、これはもはやただの怪奇殺人事件ではなく、世界の命運を左右するほどの事態と言っても過言ではありません。私たちも何かわかり次第報告します。だから、あなたたちも何かわかったら教えてください」


 ムトはエリーに向かって手を差し出した。エリーはその手を何も言わずに強く握り返した。




 モラン・ゴディマには思ったより早く連絡が取れた。エリーがチャールズについて聞きたいことがある、と言ったら喜んで協力すると言い、すぐに時間と場所を指定してきた。


 沿岸部に位置しているケープタウンは夕方になると風が強くなり、少し肌寒くなってきた。建物はポツポツと明かりがつき始め、街中は帰宅する人や夕飯の買い出しに行く人で賑わっている。そんな中、小野とエリーはケープタウン内にあるシェアオフィスの談話スペースでセルフサービスの紅茶を飲みながらモランのことを待っていた。

 小野は先ほどの病院でなぜ自分だけ置いていかれたのかをずっと考えていた。捜査情報ひとつ言わなかっただけで彼女があそこまでするとは思えなかったのだ。何か他に理由があったのだろうか?当の本人に聞けばいいのだが、関係を悪化させたくない彼はそれが出来なかった。


 しばらくすると、スーツに身を包んだスラリとした高身長の黒人の男が現れた。男は受付嬢と一言二言話すと、こちらに近づいてきた。


「エリー・コネリーさんとセイジ・オノさんですね。遅くなりました。『ウォーリアー』CEOのモラン・ゴディマです」


 二人は立ち上がり、軽く自己紹介を済ませると、それぞれ彼と握手を交わした。


「それで、チャールズのことについて聞きたいとおっしゃっていましたが、彼の何について調べているのでしょうか?」


 モランはソファに腰掛けると、受付嬢が持ってきた紅茶を一口飲んだ。


「実は生前の彼の行動について調べていまして、彼とは生徒と先生の関係だったそうですね。しかし、見舞いの頻度は誰よりも高いです。何か彼とは他に特別な関係でもあったのですか?」


 エリーが手帳を開いて、まくしたてるような発音で尋ねた。


「チャールズは確かに小学校時代とてもお世話になりました。私をいじめから救ってくださり、快適な教育環境を整えてくれました。そのおかげで今の私がいると言っても過言ではありません。なので、小学校卒業後も何度か進路の相談にのってもらっていました」


 モランはとても丁寧に説明した。このことから小野とエリーはほぼ同時に目の前のモランが小説に登場したモランであると確信した。


「では、チャールズは亡くなる直前に親しい人たちに遺言書のようなものを渡した、と彼の医師から聞きましたが、あなたもそれはもらいましたか?」


 もちろん、二人はチャールズの担当医とは一度も会った事がないし、尋ねた事もない。全て神崎守の小説から出て来た情報で話しているのだ。


「はい、もちろん私ももらいました。それは今も大切に保管してあります」

「それを見せていただくことは出来ませんか?」


 エリーの言葉にモランは眉をひそめて見せた。


「申し訳ないのですが……、その……手紙の内容がいささかセンシティブなもので、他の人に見せるべきかどうか決めあぐねているところなのです」

「捜査のために必要なことなのです。見せてくれませんか? もちろん、手紙の内容は外部に公開することは一切しません」

 エリーは身振り手振りを踏まえてモランに迫った。モランはしばらく顔を歪ませると、腹を決めたのか、すぐに表情を元に戻すと立ち上がった。


「わかりました。今、持ってくるので、しばらく待っていてください」


 彼は立ち上がると、建物の奥へと消えていった。


「今のうちに神崎の小説を出しておいて。中身が一致しているかどうか確認するわ」

「そうだね。彼は手紙は誰にも見せていないって言っていたから、これが完全に一致していたら、犯人は超能力者という仮説が濃厚になってくるね」


 小野はカバンから神崎の小説を出した。


「超能力者なんて結末、私は絶対に認めないわ」

「それは僕も同感だ。ここまで来て超能力者でしたなんて、読者からクレームの嵐だよ」


「でもまだ可能性は残っているわ。チャールズ本人がこの手紙を漏洩させていたとしたら、話は変わってくるわよ」

「そうなってくると、やはり組織的な線が濃厚になってくるね。でも神崎守が僕の行動を予知したという謎については未だ何もわからない、というのが現状だ」


 小野は第二章のモランがチャールズの手紙を読んでいるシーンを開いた。


「お待たせしました。これがチャールズからもらった手紙です」


 ややあって、戻ってきたモランは白い封筒を二人に渡した。


「ありがとうございます。拝見させてもらいます」


 エリーは彼に礼を言うと、封筒を開け、小野と一緒に神崎の小説と手紙を交互に見た。


「モラン・ゴディマ君……」


 そう始まっていたチャールズの手紙は、神崎守の小説に出てくるチャーリーの書いた手紙の内容と全く一緒だった。英訳する際に多少の文法や単語のズレがありそうだと考えられるが、手紙はまるでその事が分かっていたかのように、一言一句英訳した神崎守の小説と一致していたのだ。


「案の定、全く同じものだったわね」


 手紙を全て確認したエリーはそう言った。


「全く同じもの? これは誰にも見せていません。一体どういうことですか?」


 モランは状況が理解出来ていないのか、表情を歪ませた。ここは彼に事情を説明するべきだろう、と小野は判断してエリーのことを見た。彼女は小野のことを見ると、「私がやる」と言わんばかりに首を横に振った。小野は胸が締め付けられる思いがした。


「これは、彼宛にある人物から一ヶ月ほど前に送られてきた文章です。ここには彼の行動はおろか、私の行動も事細かに物語調で記されていました。そしてモランさん、おそらくあなたもこの物語に登場しています」


 エリーはモランに英訳された神崎守の小説の第二章を渡した。モランは一通り読み終えると衝撃を堪えるためか、口元を手で覆った。


「まさか、これが一ヶ月前に送られてきたんですか?」

「はい。受け取ったのは僕でしたから間違いありません」


 小野はモランから原稿を受け取ると、カバンにしまった。


「失礼ですが、物語に書かれていた内容はいつ頃の出来事ですか?」


 エリーがすかさず尋ねる。


「つい一週間ほど前のことです。この小説には、私の手紙の内容はおろか、当時の私の心情、思考まで完璧に再現しています。怖いくらいです」


 モランの言葉に小野とエリーは顔を合わせた。今まで物語で未来の話をされたのは小野だけだった。ここでモランも未来の事象について書かれていた。つまり神崎守を騙ってこの小説を書いた人物は、モランの行動も予知していたことになる。


「この小説を書いた人物は一体誰なんですか?」


 モランは少しおびえた声色で尋ねる。


「それを私たちは捜査しているところで、あなたを尋ねた本当の目的です」


 エリーがそう言った時、小野は一人の男が建物に入ってくることに気がついた。その男はジーパンに迷彩柄のシャツというシェアオフィスにはふさわしくない服装をしていた。さらに、男はヨーロッパ系で、黒人が多数を占めるここ南アフリカでは周りから目立って見えた。


 あたりを見回した男は受付嬢と何やら話し始めた。しばらくして受付嬢がモランのことを指したのを見て小野は嫌な予感がした。


「エリー、あの男」


 小野はエリーに男の存在を教えた。男は真っ直ぐにモランの方に向かって来る。その目はすごく鋭く、獲物を狙う鷹のような目だった。ややあって、モランも男の存在に気がついたのか自ら立ち上がって男の方を向いた。小野とエリーも万が一のことがあってはならないと一緒に立ち上がり、エリーは胸元に仕込んでおいた警棒に手を伸ばした。


「私に何か用かな?」

「モラン・ゴディマさんですね? いきなりですが、俺と一緒に来ていただけませんか?」


 男は淡々とした口調でそう答えた。


「子供の頃にママから知らない人にはついて行くなと言われなかったかい? 私の答えはノーだよ」


 モランは毅然とした口調で反応する。


「俺の名前はジョー・モリス。フリーでカメラマンをやっている者だ。あなたに会わせたい人物がいる。出来れば強硬な手段はとりたくない」


 ジョーと名乗る男はそう言ってジーパンのポケットに右手を伸ばした。その瞬間、エリーの警察官の勘が警笛を鳴らした。とっさに胸元から小型の警棒を取り出し、一瞬で彼の手首まで警棒の切っ先を持っていった。


「そこから少しでも動いたら許さないわよ!」


 荒めの語気で言った彼女の声は談話スペースを騒然とさせた。ジョーは右手をポケットから離し、モランから一歩離れた。


「あんた、警察官か。ビジネスパートナーかと油断してたよ」

「それはどうも」


 エリーは彼の言葉に受け答えするも、切っ先は彼からそらさなかった。一方で、小野はあることに引っかかっていた。男はジョー・モリスと名乗っていた。これは第五章で登場した森須城と同じ名前だ。ただ、違うのは彼は日本人ではなくヨーロッパ系であるということ。


 その時、小野の頭に第五章のある言葉が浮かんだ。



『全てはモランでつながる』



 この言葉の意味が小野には今、はっきりと理解出来たのだ。


「ジョー、と言ったね」


 小野は彼の注意をこちらに向けた。


「君はいま、量り知れないくらい大きな物事に巻き込まれているんじゃないか?」

「お前たちには関係ないだろう」


「いや、あながち関係あるのかもしれないよ。僕らと君、そして彼女にも」


 その言葉にジョーは目を大きく見開いて反応した。


「どうして俺は会わせたい人がいると言っただけで、その人物が女だとわかったんだ」


 ジョーの言葉にエリーも小野の考えがわかったのか、「あー、なるほどね」と呟いた。モランだけが状況を理解出来ず、三人を代わる代わる見ていた。誰も動く者はおらず、誰も言葉を発しない時間が続いた。それは周囲も同様で、辺りはいつの間にか膠着状態になっていた。


「どうかしましたか? 何かトラブルでも?」


 そこに警備室から制服を着た男が走ってやって来た。ジョーは彼のことを見ると慌てて引き返そうとしたが、モランが素早く彼の腕を掴まえた。


「いえ、ただのビジネス的な意見のこじれが起きただけです。私たちで解決します」

「大丈夫ですか、ミスター。よかったら見張りをつけておきますが……」


 警備員がやや不安げな表情で言った。


「大丈夫です。あとは私のオフィスでやりますのでお気になさらず。皆さんもご迷惑をおかけしました」


 モランは警備員と周りの人たちに一礼した。


「君達も来てくれ。私はまだ全てを把握し切ってない。だから、そのことについて教えてもらいたい」


 小野とエリーにそう言うと、彼はエレベーターホールに向かった。


「警備員が来たからといって急に逃げてはダメだ。余計怪しまれて事態が悪化するだけだぞ」


 エレベーターを待っている間モランは小声でジョーに言った。


「どうして俺にそんなことを言うんだ」

「君は悪そうな人には見えなかったからね。それに、君が抱えている事情がそれなりに複雑で、切迫したものであると感じたからだ」


 モランの言葉にジョーも含め、後から追いついた小野とエリーも呆けた息を吐いた。


「かなりお人好しみたいね、彼」


 エリーが耳元で小野に囁いた。


「ああ、物語に出てくるまんまの人物だ。だからここまで来れたんだろう」


 一行がエレベーターに乗ると、エレベーターは上に向かっていった。ガラス張りのエレベーターから見えるケープタウンの夜景はとても綺麗で、エリーも思わず見とれてしまうほど美しかった。


 エレベーターを降りると、エリーはモランに話しかけた。


「あの警備員、随分あなたに対しては優しかったわね。それに、受付の人も含め、周りの人たちも」


「まあね。そもそもこのシェアオフィスは私と仲間が出資して立ち上げたんだ。会社間でやり取りをするのに、一々オフィスを挟んでいたら面倒だってことになってね。だから、私はこのシェアオフィスの中ではそれなりに顔が利くんだよ」


 彼は廊下の突き当たりにある木製のドアを開けると、ジョーと二人を入れた。ドアの奥は個別の談話室のようになっていて、ローテーブルにソファが二つ置かれていた。モランは一方のソファにジョーをすわらせ、もう一方に小野とエリーを座らせると、自分は二人の後ろに立った。


「じゃあ、再開しようか。まずは君の自己紹介からだ」


 ジョーは観念したかのように頭を振ると渋々と言葉を発した。


「俺はジョー・モリス。さっきも言った通り、フリーでカメラマンをやっている。今は訳があって、ある女性と二人で南アフリカに来ている。それより……」


 ジョーは小野とエリーのことを見た。


「そこの二人も自己紹介したらどうなんだ。俺はお前たちのことは全然知らないぞ」

「そうね、それが礼儀ってものよね」


 エリーは自分の名刺を取り出して、ローテーブルの上に置いた。

「私はエリー・コネリー。インターポリスの刑事よ。ある事件の捜査のためモランに話を聞いていたところなの」

「なるほど。インターポリスとは、随分優秀なんだな」


 ジョーはフッと微笑むと、小野のことを見た。


「それで、このヒョロ男は?」


 ヒョロ男? そんな風に言われたことないぞ!


 小野はムッとなった口調のまま言った。


「僕は小野政治。日本の出版社に勤務している。今は彼女に頼まれて、事件の捜査に協力しているんだ」


 ジョーは少し考え込むと、言葉を選ぶように言った。


「お前は、さっき俺らと自分らは関係があると言ったな。それは、お前たちが捜査している事件のことか?」

「ええ、そうよ」


 エリーは事件について話し始めた。世界中で全身から血を噴き出して死んでいる人が見つかっていること、原因はおそらく致死性のウイルスで、感染したら確実に死に至るものだということ、そして、神崎守という男が謎の小説を残して、そのウイルスで死んだことも話した。


「そのカンザキという男が書いた小説とはどんな話なんだ」


 ジョーはカンザキのことに興味をもち、尋ねてきた。


「私とセイジ、そして後ろにいるモランと、あともう一人の行動が一つの誤差もなく綿密に記されていたの」

「しかも、私とセイジに関しては未来の行動が記されていた。もちろん、と言っていいかわからないが、私たちはその通りに行動していた」


 モランが少し声を荒くしてエリーに続いた。


「おそらくあなたのことも書かれていると思うわ。確認してくれないかしら。ちなみに、これは一ヶ月ほど前にセイジの元に届いたものなの」


 エリーは小野から神崎の小説を受け取ると、第五章を開けてジョーに渡した。ジョーは黙ってそれを受け取ると、しばらくそれを読んだ。次第に怒り狂って原稿を破るんじゃないかと小野は心配したが、彼はすでに冷静さを取り戻しているらしく、読み終わると何も言わずに原稿をエリーに返した。


「驚いたな。俺たちの行動がまんま書かれてある。それ、本当に一ヶ月前に届いたやつなのか?俺がこれを経験したのはつい一週間前だぞ」


 開口一番に出た言葉がそれだった。小野とエリーは再び顔を見合わせた。これで、神崎が未来を予言したのは三つになった!


「ええ、そうよ」


 エリーは前を向くと、手を組んでそう言った。


「ということは、やはり地下遺跡の話は本当なのか?」


 小野は身を乗り出すようにして尋ねた。神崎守の小説の第五章は小野の中で最も関心の高いものだったからだ。この章を読んで、物語が緻密に設計されていることに気がついたからである。


「ああ、本当だ。なんなら撮ってきた写真も見せてやろうか?」


 ジョーはスマホを取り出したが、スマホの画面を見てすぐに表情を歪めた。


「すまない、ちょっと待ってもらっていいか?彼女から連絡がたくさん来てたから返さないと」


 ジョーは立ち上がって部屋を出ていこうとした。その後を追うようにすかさずエリーも立ち上がる。


「逃げないように私が見張っておくわ。二人はここで待ってて」


 そう言い残してエリーとジョーの二人は談話室から出て行った。彼らが出ていった瞬間、部屋全体を温かい沈黙が覆った。


「なあ、一つ聞いてもいいかな?」


 沈黙を破るかのようにモランが口を開いた。


「さっき言ってた地下遺跡とはなんのことだ?」

「ああ、そういえば読んでもらっていませんでしたね」


 小野はカバンの中から神崎の小説を取り出すと、第五章が書かれているページを探した。


「モランさんの話は第二章に書いてありましたが、この小説は最終章も含めて全部で七章あります。エリーのことが第一章に書かれていて、ジョー・モリスの話が第五章に書かれています」


 小野は第五章のページを見つけると、モランに渡した。


「第五章の中で、謎の地下遺跡が発見されるんです。そこには、世界中の宗教的な像が置かれていて、壁のいたるところには、あらゆる時代のあらゆる言語によって同じ言葉が記述されていたというんです。にわかに信じ難かったんですけど、本当にあったとは……」

「確かに普通は信じられないね、そんなこと」


 最後まで読んだのか、モランが小野の独り言に反応した。原稿を閉じて返そうとしたその時、「ん?」と言って彼の手が止まった。


「最後にある第六章はどういう意味なんだい?」


 モランが指摘したのは、第五章の後にある数行のポエムのことだった。


「こればかりは僕にも意味がわかりませんでした。どうやら、羅王という人物が人々を救うことに困難を感じている詩だと思うんですが、なぜ神崎守はこの詩を書いたのか、さっぱりわかりません」

「でも、この小説の構造から考えるとこの詩も未来、もしくは過去のことを書いているんじゃないか」


 確かにそうだ。けど、それならもっと緻密に書いているんじゃないだろうか?神崎守いや、この小説を書いた人物はそんな簡単に小説の構造を変えないはずだ。

 そう思った時、小野の頭に一つの仮説が浮かんだ。


「もしかしたら……」


 その時、談話室のドアが開いてジョーとエリーが戻ってきた。


「申し訳ないけど、場所を移動してもいいかしら?」

「どうかしたのかい?」

「ミランダが私たちに会ってくれるそうよ」


 彼女の言葉に小野はピクッと反応した。


「ジョーの電話を借りて交渉したら、滞在先のホテルのロビーなら会ってもいいってことになったわ」

「借りたんじゃなくて、無理矢理俺から奪い取ったんだけどな」


 ジョーが呆れた表情を浮かべる。軍隊出身のジョーを屈服させるとは、小野はエリーの断固たる姿勢に改めて感服した。


「モランさん、もしよかったらあなたも来ていただいてもいいですか?きっと、何か繋がりがあるはずなんです」


 エリーはモランの方を向いて尋ねる。


「ああ、構わないよ。ちょうど私もこの事件に興味を持ち始めていたところだ。秘書に頼んで退社時間を早めてもらったよ」


 モランはスマホを軽く操作した。


「では行きましょう」


 エリーの言葉に一行は談話室を出る。


「そういえば、さっき君が言いかけたことはなんだっただい?」


 モランは小野に興味を持った声で聞いてきた。


「後で話します。たぶん全員が揃ってからの方がいいと思うんです」


 小野は意味ありげに言うと、自分の仮説をどう話すか考え始めた。

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