第11話

十一


 !!!


 ここにきて小野はようやく何が起きているのかを把握した。どういう原理かはわからないが、自分の体が完全に乗っ取られてしまったのだ!小野は何とか自分の言葉で喋ろうとしたり、手足を動かそうとするのだが、喋ることも動かすことも出来なかった。


「あなたが私たちをここに集めた張本人だと言ったわね、セイジ」


 エリーが語気を強めて言った。今まで一番長くこの事件を捜査していた人物が犯人だったと知った彼女の目は悲しみと怒りで満ちていた。


「ああ、そうさ。全て私が企てたことだ」


 小野の身体は余裕を持て余した感じで両手を上げた。


「一体、どういうことなのか説明してもらえるかな?」


 ウィリアムが落ち着いた声で聞いてきた。一見落ち着いているように見えるが、内心は混乱と動揺で乱れていることが彼の握った右手から感じられた。


「そうだな、ここまでたどり着いた君たちには説明する義務がある。しかし、その前に邪魔者を排除しないと。なあ、ジョー・モリス」


 小野の身体はジョーのことを指差した。途端にジョーの眼光が変わり、ウエストポーチから素早くマグナム銃を取り出すと、ライアンとムトにそれぞれ一発ずつ撃ち放った。ライアンは眉間に、そしてムトは胸をそれぞれ撃たれ、そのまま流血させながらあっけなく倒れていった。


 目の前で仲間を殺したジョーを見ていたミランダは途端に息が荒くなってきた。彼女の脳裏をよぎったのは数年前に起きた事件のこと。任務中に敵の襲撃を受け、護衛対象と彼女以外のチームが全員死亡したあの事件のこと。


 一方、呼吸が激しくなったのがもう一人いた。小野である。途端に体が自由に動くようになった小野は激しくなる呼吸を急いで整えると叫んだ。


「気をつけろ!ジョーは何者かに操られている!僕もさっきまで操られていたんだ!」


 その声に真っ先に小野本人であると気づいたのはエリーだった。今まで行動を共にしていた彼女は彼の発音の仕方やしゃべり方を本能的に記憶していたのだ。


「ウィリアム、ネハ、彼から離れて。モランはミランダのことを保護して!」


 エリーは素早く指示を出すと、自身もジョーから数メートル距離を置いた。


「さすがだね、エリー・コネリー。その脅威的な記憶力と迅速な決断力は素晴らしいものに成長してくれたよ」


 ジョーはニヤリと先ほど小野が浮かべたのと同じ気味の悪い笑みを浮かべた。


「その言い方、あなたやはりジョーではないのね」


 エリーは今にも爆発しそうな怒りを抑えながら言った。


「ああ、そうだ。私はジョー・モリスではない。私は彼の身体を借りて話しているに過ぎないのだよ」

「じゃあ君はいったい何者なんだい?」


 ウィリアムが引きつった笑みを浮かべながら尋ねた。人の身体を乗っ取るなんて現代科学では不可能なこと。それが目の前で現実として起こっているのだ。彼は一人の知の探求者として興奮を感じていたが、同時にこれからどうなるのかわからない不安も抱いていた。


「私のことは『アダムズ』と呼んでくれて構わない。名前なんて何の意味も持たないのだからね。私は強いて言うなれば『この星の代表』、というべきか、ともかく、君たち人間とは全く別の生命体だ!」


 アダムズと名乗るジョーは自分のことを見つめる全員を見回した。


「アダムズと言ったな!」


 小野は若干の頭痛を我慢しながら叫んだ。


「全て計画した、と言っていたが本当に全てお前一人で考えたことなのか?アペプもゾルダクスゼイアンも神崎守の小説も」

「ああ、その通りだ」


 今度は別の方角からバリトンボイスが聞こえてきた。見ると、モランが先ほどのジョーと同じようにニヤリと不気味な笑みを浮かべてこちらを見ていた。小野は瞬時にアダムズがモランに乗り移ったと気づいた。


 一方、ジョーはアダムズの支配から解放されたことにより、手に持った拳銃を見つめていた。操られていたとはいえ、自分の手で二人の無実な人間を殺しってしまった。しかも、ミランダのことを守るどころか余計に衰弱させてしまった。その事実が彼の頭の中にこびりついて離れなかった。


「君たちがアペプと呼んでいるあれは正確にはウイルスではない。あれはナノメートルより小さい、ピコメートルサイズの機械だ。普段は血中を漂っているだけだが、ある特定の周波数を持つ電磁波を受信すると、体外に出ようと体組織を貫く。その結果、貫いた穴から血が溢れ出し、まるで全身から血が噴き出したかのような状態で死に至る。これがアペプの正体だ。ちなみに、人の免疫システムはピコメートルサイズのものであろうとも異物として認識し、処理しようとする。まあ、実際は認識するだけで何も出来ないんだがね。結果、免疫システムが空回りして、今まで生成されたことのないタンパク質が出来上がったわけなんだ。そのタンパク質が結果的に免疫細胞を破壊していたわけだ」


 自慢げに語るモランの身体を乗っとったアダムズの言葉を聞きながら、エリーはムトが死亡した人の体内から未発見のタンパク質の一種が見つかったと言っていたことと、アペプで死亡した人々の中に徐々に免疫力が下がっている人がいたことを思い出した。遺物として処理しようとしていた免疫細胞が作り出した未知のタンパク質が結果的に免疫力を低下させてしまっていたのだ。


「次にゾルダクスゼイアンについてだけれども、あれは中々おもしろいものだったよ」


 ???


 エリーはふと自分の口が己の意思とは裏腹に勝手に喋っていることに気がついた。手足を動かしてみようとするのだが、思うように動かない。これが小野が先ほど言ってた身体を乗っ取られるということなのだ、とエリーは理解した。つまり、アダムズはいまエリーの身体の中にいるのだ!


「そもそもゾルダクスゼイアンとは私が君たち人類を監視するために数万年前に作った組織だ。メンバーには名だたる著名人もいれば、名前すらない貧民もいた。これは様々な視点で人類を監視することで、より正確な情報を手に入れるためだ。最初の頃はまだ可愛いものだった。独裁者による理不尽な政治が行われたとか、どこぞの誰かが新しい宗教を興したとかそんなものだった。しかし、次第に国交が行われるようになり、国同士で争いが始まった時、私はある懸念に気がついた」


 エリーの身体を乗っとったアダムズはしばらく間をおくと続けた。


「このままではいずれ地球が滅びてしまう、と。私の懸念通り人類はやがて世界規模で戦争を始め、ついには星をも滅ぼす核兵器を開発した。そこで私は従来より存在していたゾルダクスゼイアンを用いて人類を正しい方向に導く計画を考えたんだ。世界各国に散らばったメンバーによる人間の意識改革と言論統制。人間同士で争うことは互いの不利益しか生まないとして、武力ではなく対話で物事を決めるようにさせた。代表的な例が今でも有名なキューバ危機だ。当時のソ連の首相、プルーフシチョフに譲歩するよう促し、ソ連軍を撤退させた。あれがなければ今ごろ第三次世界大戦が勃発していて地球は死の星と化していたかもしれない」

「では、どうして私らが誕生したんだい?私たちの能力が人工的に作られたものだ、ということは私の母からの証言で確認済みだよ」


 ウィリアムがそっとエリーに近づきながら尋ねた。


「ああ、君の母親はカーナ・リーだったな。ご老体ながら随分と頑張っているようじゃないか」


 エリーの身体を乗っとったアダムズはそう皮肉を言うと、ニコリと冷たい笑みを向けた。ウィリアムはそのことに怒りを覚えたが、爆発させずにゆっくりと胸の奥深くにしまった。


 アダムズは続けた。


「私の言論統制は二段階構成になっている。第一段階は同族同士の争いを止めること。そして第二段階では世界の言論、思想を統一し、人類の合理的な進化を促すことだ。私は『リモデリング・プラン』というプロジェクトを立ち上げ、人類をどのようにしたら常人とはかけ離れた能力を身につけられるようになるのか研究するよう指示した。君の父、アルバルト・リーはそこの4代目統括責任者だったんだよ」


 ウィリアムは自分の父親の名前を出されても決して動じなかった。ただ、黙ってアダムズが乗っとったエリーのことを見ていた。


「最初は成人を使っていたんだが、やがて研究チームは成人よりも幼児のほうが能力を発達させやすいことを突き止めた。だから、そこからは身寄りのない子供たちを研究材料として使うことにした」

「身寄りのない子供たちを使って人体実験だなんて……、ひどすぎる……」


 ネハが胸に手を当てて、押し殺したような声で言った。


「ひどいとは失礼だな。確かに、死んでいった子供たちも多かったが、人類の大いなる進歩のための礎となってもらったのだ。そのままにしていたら死んでいったような子たちだ。むしろ感謝してほしいくらいだね」


 アダムズは今度は先ほどまで茫然自失の状態だったジョーの身体を乗っ取り、そう言った。


 一方、アダムズの支配から解放されたエリーはまるで過呼吸を起こしたかのように激しく呼吸した。目の前がグルグルと回る感覚がし、若干の吐き気も覚えた。


「では、私たちはその実験から生まれた、いわば成功体というわけだね」


 先ほどまで身体を乗っ取られていたモランが息を整えながらそう言った。


「ああ、その通りだ。この『リモデリング・プラン』を通過した子供たちがいる。しかし、本来その子供たちは冷凍睡眠させて、のちに人類を牽引するリーダーとするための駒として取っておくはずだった」

「じゃあ……、どうして……」


 エリーは一生懸命に息を整えながら尋ねた。


「それは君の父親のせいだよ、ウィリアム・リー!」


 アダムズはウィリアムのことを指差すと大声で怒鳴った。過呼吸を起こしていたミランダは体をビクッと震わせてさらに縮こまった。


「アルバルト・リーは研究体が少なくなった時に自分の息子、つまり君を捧げたんだ。そして、成功体となった君を書類上は『死亡』とさせた上で研究所から連れ出した! 以来、彼は成功体が出るたびに研究所から連れ出していた。私が気づいた頃には君たち七人が連れ出されていたんだよ」


 自分の父親の思わぬ行動にウィリアムは多少なりともこたえた。


「しかし、興味深い事実が得られたのは確かだ。『リモデリング・プラン』の成功体は成人してもその能力を決して落とさない、ということがわかった。ウィリアム・リーの記憶定着力、モラン・ゴディマの視力、ジョー・モリスの聴力、ネハ・ラオの思考解析能力、ミランダ・カステヤノスの嗅覚、セイジ・オノの観察力と推察力、そしてエリー・コネリーの五感記憶能力」


 アダムズの最後の言葉にエリーは眉をひそめた。


「エリー・コネリー。君は自身の能力を映像記憶能力だと思っているようだが、正確には違う。君は視力、聴覚、嗅覚、触覚、味覚、それらを使用して得た情報を瞬時に記憶出来るようになっているんだ。事実、さっき君はセイジ・オノの声を発音やイントネーションを聴覚を通して記憶していたから本人だと判断出来たんだ」


 彼にそう指摘されてエリーは気がついた。確かに彼女は人の声を一回聞いただけで認識出来るようになっていたし、好きな料理店の味が少し変わっていたのに違和感を覚えていたりしていたのだ。


「なら、なぜこのタイミングで僕ら七人を集めたんだ?」


 小野はアダムズに尋ねた。尋ねつつも彼の脳裏ではこの事態をどうやって対処するかを考え続けていた。


「それは、君たちがアペプに対する免疫能力を獲得しているからだ。君たちが免疫を所持していることがわかったら人々はそこからワクチンを作り出すだろう。そうなってはパンデミックは成功しない。だから君たち七人を集め、捕縛することでそれを阻止するんだ」


 そしてしばらく間をおくと続けた。


「いや〜、なかなか疲れたよ、君たちをここに集めるのは。そもそも、まず君たちを探すところから始めなきゃいけないからね。ゾルダクスゼイアンの情報網をもってしても全員を見つけるのに十五年もかかってしまった」


 そう言うとアダムズは今度は小野に乗り移った。


「特にセイジ・オノやネハ・ラオに関しては苦労した。セイジ・オノはきっちりと戸籍が作られていた。親まで本物の人間を使っていたから、他の人と判別するのに苦労したよ。ネハ・ラオは逆に戸籍が全くなくて、これまた周りにも同じ状況の人々が多くいたから見つけるのが大変だった。全く、アルバルト・リーは君たちを隠すことにも抜かりなかったようだな」

「あなたはこれから私たちをどうするつもりなの?捕縛する、とか言ってたど……」


 ネハが弱々しい声で言った。


「まず、この世界をアペプにより一回リセットする。そして、君たちを筆頭とする『リモデリング・プラン』の成功体で新たに組織した『真・ゾルダクスゼイアン』によって奇跡的に生き残った残りの人類を正しい方向に導く。合理的に土地を活用し、資源を採掘し、そして生殖させる」

「それって、要は人類があなたの管理下になるのと同じじゃない!」


 エリーはたまらず叫んだ。


「ああ、その通りだ。しかしそれのどこが悪い?私の計算通りに活動していれば素晴らしい繁栄と栄光を手に入れられるのだよ」


 アダムズは小野の顔でニヤリと笑った。


「そんなの欲しくなんてないね」


 そう言ったのはウィリアムだった。


「たとえそれが正しいものであろうと、一人の考えに従って手に入れたものを私は素晴らしいとは決して思えない。様々な意見、見解があって、それらによる幾多もの衝突を経てから手に入れた未来こそ何ものにも変えられない、と私は思うよ。たとえそれが破滅だったとしても」


 アダムズは暗い笑みを作った。


「さすがだね、ウィリアム・リー。ノーベル文学賞を取った人物だけある」


 そして笑みを瞬時に引っ込めて真顔になると棒読みしているような感覚で喋った。


「しかし、君らがなんと言おうと関係ない。先ほどから見ている通り、私には君たちの身体を乗っ取る力がある。君たちはこれを催眠の類だと勘違いしているが、そんな生易しい次元のものではない。私のは相手の身体を完璧に自分のコントロール下に置くことが出来るのだ。これには君たちは何も為す術もないはずだ」


 アダムズは小野の左人差し指を反対方向に捻じ曲げた。


「やめて!」


 エリーが叫んだ時にはパキッという軽い音がして、小野の人差し指はあらぬ方向に曲がっていた。その時、小野本人の左手あたりから猛烈な痛みが襲ってきた。


 ぐああああああ!


 小野は声には出ずとも心の中で悲鳴を上げた。


「この通り、破壊することも可能だ。私自身は何も感じることはない。痛みだけが本人に届くようになっている。しかし、あそこにいる彼女のように呼吸器系などの発作を起こされると私は何も出来ない。だから彼女を乗っ取ることはしていないんだ」


 アダムズはミランダを指差した。ミランダはモランの介抱を受けて随分と楽になったみたいだが、まだ予断の許さない状況が続いていた。


「さて、大体の種明かしが済んだところで、そろそろ本題に入ろうか」


 アダムズは先ほどボウの死体から取り出した二つのスイッチのうち一つをウィリアムに向かって投げた。


「それは君たち以外の全人類用のアペプの起動スイッチだ。すでにゾルダクスゼイアンの手によって世界各地にアペプは撒かれている。ナガル・パルカルのパンデミックはその序章にすぎない。そのスイッチを押せば世界中のアペプが一斉に起動し、人類の九割以上が死滅する。一方、これは君たち用のアペプのスイッチだ。私がこのスイッチを押した瞬間に君たちの中にいるアペプが起動し、君たちは無残な死を迎えることになる」


 モランは彼の言ったことが信じられずに思わず反論した。


「私たちがアペプに感染している?どういうことだ!」


 アダムズは彼の方を向くと、ニヤリと笑った。


「簡単だよ。まず、エリー・コネリーとセイジ・オノには偽物のフェルト・ジーニョ、彼もゾルダクスゼイアンの一員なのだが、彼からもらったコーヒーに混入させたし、ウィリアム・リーはフラスクウォーク沿いにある行きつけのカフェのコーヒーに入れた。ジョー・モリスとミランダ・カステヤノスにはイグナシオ・サラゴサで買ったマンゴージュースに混入してある。モラン・ゴディマには君の経営するシェアオフィスの共同ドリンクバーに入れたし、ネハ・ラオにはここに来る途中に乗った飛行機の機内食に混入ずみだ」


 どこまで汚い手を使っているんだ!


 小野はそう思った。しかし、アダムズは自分たちとは違う生命体と言っていた。もしかしたら彼(もしくは彼女?)にとってそんなことは大したことではない、と思っているのかもしれない、と考えた。


「さて、私としては『リモデリング・プラン』の成功体となり、かつ成人している君たちをやすやすと死なせたくはない。しかし、君たちがそのスイッチを押さないとなると、私は未来の反社会的分子として君たちをこの場で処分しなければならない」


 そこまで言うと、アダムズはウィリアムに手を差し伸べた。


「ここまで言えばわかるだろう。そのスイッチを押すんだ。全ての始まりである君が」


 状況を全て察したエリーが叫んだ。


「ウィリアム、彼の言葉に操られちゃだめ!人類のほとんどを殺した大罪人になる気?」


 彼女の言葉にアダムズはハハハハハと不気味な笑い声をあげた。


「罪というのはその時の社会が決めるものだよ。私が理想とする人類が合理的に進化する社会では非合理的な人類を大量に殺すことは何の罪にもならない」


 一方、いまだにライアンとムトを射殺してしまった事実に混乱していたジョーは耳につけっぱなしのイヤホンからミランダの声が聞こえたことにより冷静を取り戻していた。


「ジョー……、この場を止められるのはあなただけよ。スイッチだけ狙って……撃ってちょうだい」


 ミランダはプライベート通信にしてジョーにそう語りかけた。


 ここで何も出来ずしてボウや他のみんなに顔を合わせられるか!


 ジョーは銃を構えた。しかし、アダムズに乗っ取られた小野は瞬時にスイッチを手で隠し、それを阻止した。


「言い忘れていたが、神崎守の小説を書いたのは私だ。私には過去や未来で君たちが何をした、もしくはしようとしているかを『視る』ことが出来る。つまり、私は君たちが私を止めるためにどう行動するかを予知し、それに対抗する手段を事前に準備しているということだ。無駄な抵抗はよしたまえ」


 なるほど。だから最初に僕を乗っ取ったのか。


 チームの頭脳的役割を担っている小野はこの状況に対しても有効な手段はすでに五つほど思いついていた。もし、彼が操られれていなければ、瞬時に指示を出して反撃しようとしていただろう。しかし、エリーたちがそれに気づくことは皆無だった。相手の頭脳を真っ先に潰すアダムズの行動はひどく合理的だった。


「さあ、おとなしくスイッチを押すんだ、ウィリアム・リー」


 ウィリアムは目を閉じて考えた。頭の中に広がる膨大な知識の書庫。それらのページを全てめくり、彼はある結論に至った。


「もし、ここで私がスイッチを押してしまったら、人類の九割以上が死滅することが確定する。しかし、もしも押さなかったら? たとえ私たちが死んだとしても、きっと誰かがワクチンの開発に成功する。そうなれば、もしかしたら人類は九割以上死ななくて済むかもしれない」


 彼はスイッチを地面に投げ捨てた。


「これは一種の賭けだ。ウイルスの感染力が上か、それとも人間の諦めない気持ちが上か。私はこのスイッチをチップとして人類が君の予想よりも死なないことにベットする」


 その言葉にアダムズの表情がみるみる変わっていくのが見て取れた。先ほどまでの余裕があった笑みとは打って変わって彼の顔はくしゃくしゃになり、狂ったピエロのような表情になっていた。


「さあ、今度は君の番だ。君は何をチップにベットする?」


 ウィリアムは止めを刺すように叫んだ。


「賭けなんて、非論理的なことを人類はすぐに信用する。いいだろう。私は君がそのスイッチを押すことに賭ける。チップなんてものは何もない。なぜなら、その賭けはすぐに私の手によって勝つことが決まっているからな」


 アダムズは小野の体から離れてウィリアムの方へ向かった。ウィリアムの体を乗っ取って、自らスイッチを押すつもりだということは誰もがわかっていた。


 自分の体が戻ってくる感触を感じながら小野は刹那の思考の中にいた。


 ウィリアムにボタンを押させないためにはどうすればいい?彼の動きを止める方法は?


 すぐに出たのは自分の手の中にある自分たち用に作られたアペプのスイッチだった。これを押せば全員死んでしまうが、ウィリアムの賭けは成立する。


 しかし、そんなことをして誰が喜ぶのだろう?それこそアダムズと同じ考えではないか!


 小野がそうこう考えているうちにアダムズはウィリアムの体を乗っ取ろうとしていた。完全に乗っ取るまであと0.0001秒のところで、ウィリアムの腕に注射器のようなものが刺さった。その瞬間、ウィリアムとアダムズの意識は朦朧とし、アダムズはウィリアムの体を乗っ取ることが出来なくなってしまった。


「身体制御装置を対象に初めて使用する際、システムが対象の精神構造を把握する必要があるため、二回目以降に比べて若干の遅れが出る。その隙に神経の興奮を抑えるベンゾジアゼピン系の物質を投与すれば、体を乗っ取ることを防ぐことはおろか、身体制御装置の使用者の精神も隔離することが出来る」


 エリーは声のする方向を見てみた。しかし、そこには誰も立ってはおらず、ジョーに撃たれたムトとライアンが倒れているだけだった。


「全く、何が『この星の代表』だ。何が『私には予知能力がある』だ。くだらん。くだらなすぎる。聴くに耐えない内容だったよ」


 すると、全員の目の前で本来は起きてはないらないことが起きていた。


「な……なぜ……お前が……」


 アダムズはかろうじて動く口でそう悶えた。なんと、先ほど致命傷を撃たれたはずのムトとライアンが起き上がったのだ!ライアンの眉間に撃たれたはずの銃槍は綺麗になくなっていた。


 ライアンは大きくため息をつくと言った。


「これで、始末書の量がさらに増えるよ」

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