第2話
二
エリーと出会ってから十日後、二人はロンドンにあるフラスクウォーク通り沿いにあるカフェに隣り合って座っていた。ロンドンの空は厚い雲に覆われていて、太陽の光は殆ど遮られていた。
小野は寝不足の頭を覚まそうと苦みの強いマンデリンを口にした。ここ数日、寝る間も惜しんであの膨大な資料を読み続けたせいで頭が麻痺していた。
店の扉が開く音がして白髪交じりの男が入ってきた。この店の店員と顔なじみらしく、軽く挨拶を交わした後、小野たちが座っている席にやってきた。
「待たせてしまって悪かったね」
そう言いながら彼は椅子に座り、水を運ん出来たボーイにブルーマウンテンを注文した。
「初めまして。私がウィリアム・リーです」
三十七歳とは思えないくらい老けた男は笑みを浮かべた。
「はじめまして。お電話を差し上げたインターポリス捜査官のエリー・コネリーです。彼は我々に協力していただいている日本人のセイジ・オノです」
「はじめまして。お会い出来て光栄です」
「それで、一年前の竹ノ塚氏の件だよね」
「はい、その件で追加でお聞きしたいことがあります」
話の進行は全てエリーが行った。出版社に勤めている小野としては彼と色々会話をしておきたいのだが、彼女の連れとして来てる以上、彼女に従うしかなかった。
「ウィリアムさんは日本のアマチュア作家の神崎守という人物をご存じですか?」
エリーの質問に対し、ウィリアムは一瞬目を細めてから言った。
「いや、記憶にないな」
「では、竹ノ塚氏が死んだことを知らされたときのことを誰かに話されましたか?」
この問に対してもウィリアムは一瞬目を細める動作を行った。小野はこの動作が彼にとって思い出すためのローテーションなのだと推測した。
「確か妻には事情聴取の際に話したが、それ以外には話していないと思う。もしかしたら酔った勢いで作家仲間に話しているかもしれないが……」
「そうですか。では、奥様は神崎守という人物と面識はありますでしょうか?」
「いや、彼女は専業主婦で、作家の知り合いと言ったら私の友人くらいだから知らないと思う。それより誰なんだい、その神崎守という人物は?」
彼は少し興味を持ったのかテーブルからやや身を乗り出して聞いてきた。エリーは小野のほうをむいて事情を説明するように合図した。小野は眠い頭を無理矢理たたき起こして話し出した。
「実は彼から僕に送られてきた原稿にあなたと思われる人物がこのカフェで竹ノ塚氏が死んだことを聞くという話があったんです。なので、神崎守がどのようにしてそのことを知ったのか調べているところなんです」
ウィリアムはそのことを聞くと腕を組んで背もたれに寄りかかった。
「なるほど。それで私に彼との接点がないか確認しに来たのか。残念ながら先ほども言った通り私は神崎守という人物を聞いたことも無いし、会ったことも無い。しかし、確かに私はちょうど一年前にこのカフェのこの席で竹ノ塚氏が亡くなったことを耳にしたよ。あれは私にとって数少ない衝撃的な出来事だったからよく覚えている。その時刑事と話した内容がたまたま店を訪れていた神崎守の耳に入ったのかもしれん」
ウィリアムはカップに入ったコーヒーを一口飲んだ。
「それで、その神崎氏がどうかしたのかい?」
「実は先日亡くなっているところを発見されたのです。しかも竹ノ塚氏と同じ死因で……」
エリーは今までに無いくらいきつい目でキッと小野のことを見た。小野は少し出過ぎた真似をしたかと身を小さくしようとしたが、その時に見たウィリアムの表情を見て唖然としてしまった。彼は人の訃報を聞いたはずなのに眉を上げ、目を見開き口元が緩みかけていたのだ。小野はウィリアムの表情を見た瞬間に、彼はこの事件に強烈な興味を抱いたな、と感じた。
「それは本当かい。竹ノ塚氏の事件についてはその後耳にしてなかったからどうなったのかと思っていたのだが、まだ続いていたのか。しかもこれで四人目か」
「よくご存知ですね」
目を細めるウィリアムに対してエリーは疑念を含んだ口調で言った。
「まあね。これでも一度身につけた知識は絶対に忘れない主義なんだ。様々な雑誌や新聞を資料集めのために読んでいるけれど、このカテゴリーの情報はソースがバラバラで珍しいケースだから印象が強いんだよ」
「カテゴリー?」
ウィリアムの言葉にエリーが眉をひそめて聞き返す。
「ああ。便宜上、私は大量の知識を保管するために知識それぞれをジャンルごとに分けているんだ。今回の場合は『全身から出血』、『原因不明』と言うタグをつけてね。それでいざという時にすぐに思い出せるようにしているんだよ」
ウィリアムは興奮が収まらぬ声で言うとニコリと笑った。エリーは彼のその異様な雰囲気を察したのだろう。手帳を閉じ、帰る支度をする素振りを見せながら言った。
「なかなか便利な記憶力なんですね」
「そうでも無いさ。他人と違うということはそれなりに苦労するものだよ。模範とすべき見本がいないんだからね」
突然、彼はテーブルから身を乗り出しエリーの顔をじっと見た。小野は嫌な予感がして自分でもわからず彼女を守るかのように身構えた。
「ところでさ、私から一つお願いがあるのだがいいかな?」
「……なんでしょう……」
エリーは少しのけぞりながら嫌な顔をした。彼女にとってウィリアムは今「嫌な男」と言うカテゴリーに分類されていた。
「私は先日『夕の鳥ー地上編』を発表してからひと段落ついて、そろそろ新しいネタを探しに行こうと考えていたんだ。そこに君たちが面白い事件を教えてくれた。この事件がどのような結末を迎えるのか、私自身すごく興味がある。だから『取材』と言う名目で私に事件の情報を逐一教えて欲しいんだ。もちろん報酬はそれなりに準備するつもりだ。どうだろう。悪い話ではないと思うのだが」
「お言葉ですがミスター・ウィリアム。私はインターポリスに所属していて、捜査の情報は原則非公開となっております。原則的に……」
エリーは小野のことを一瞥した。小野は謝罪の意を込めて肩を縮こませて見せた。
「非公開となっている情報を外部の一般人であるあなたに漏らすことは、インターポリスの職務規定に反しますので期待に添いかねます」
その時、彼女のスマホのバイブが鳴った。エリーは「失礼」と席を立ち、逃げるようにその場から立ち去った。
「それにしても、ウィリアム・リーさんに会うことが出来て本当に嬉しいです」
エリーから解放され自由の身になった小野は思う存分ノーベル賞作家と話そうと彼に話しかけた。
「君は彼女の捜査に協力していると言ってたが、普段は何をしているんだい?」
「普段は文芸書の編集者をしています。あなたの本はいくつか読みましたが、素晴らしいものばかりでした」
「そう言われると嬉しいよ。ノーベル文学賞を受賞したからと言って私の本を読む人は増えたけれど、扱ってるテーマが重いだけあって、やっぱりみんな『何を言ってるかわからない』と言って去っていってしまうんだ。だから嘘でもそう言ってくれると今後の執筆活動の励みになるんだ」
彼は朗らかに微笑むと、コーヒーを一杯飲んだ。
「確かにウィリアムさんが書いている小説は宗教をテーマにしたものが多く、新しさを求める今の若者には向いていないのかもしれません」
「確かにそうかもね。その代わり老人たちには大うけだけれど」
彼は世の中を揶揄するように鼻で笑った。
「中でも僕はあなたの仏教に関する解釈がすごく興味深かったです。確か家はクリスチャンで、仏教とは関係ないように思われるんですけど、何か仏教に興味をもつきっかけがあったんですか?」
「私の家がクリスチャンだってよく知ってるね。確かに私はクリスチャンだが、母親が中国系で、旅行で何度か中国を訪れたことがあったんだよ。その時に仏教の考えに触れる機会があって、そこで脳髄が揺さぶられるような経験をしたんだ。ほら、キリスト教だと人は死ぬと天国か地獄に送られるとされているが、仏教ではそもそも死後の世界という定義さえ存在しないんだ。仏教だと死んだ人間の魂は巡り巡って再びこの世の別の生物の体の中に入る輪廻転生を主軸に考えられている。宗教が違うだけで世界の定義まで変わってしまうことに私は興奮を覚えたんだよ。それで宗教を学ぼうと思ったんだ」
外ではエリーが身振り手振りを交えながら電話の相手と話していた。その内容が何か不穏なものなのだろうと小野は推測しつつも話を続けた。
「では今回『夕の鳥―地上編』を書いたのは、やはり夕の鳥が輪廻転生をうまく表しているからですか?」
「そうだね。夕の鳥は今まで読んできた仏教を題材にした書物で五本の指に入るくらい私の中では記憶に残る素晴らしい作品だった。それが未完で終わっているということに私としては納得がいかなかった。だから、どこかでこの物語の結末を書こうと心に決めていたんだよ。その際、結構な反発をくらったけどね。中には私宛に殺人予告まで送ってくる人まで現れたよ」
殺人予告?たかが夕の鳥にそこまでするのか?
小野はやや驚きを表しつつも話を続けた。
「殺人予告の話は初めて聞きました。大変でしたね。けど、日本では右塚治ファンを中心に盛り上がっていますよ。近々マンガ化やアニメ化の話も出ています」
「そうらしいね。みんな喜んでくれて、とても嬉しいよ」
ちょうどその時、エリーがそそくさと戻ってきた。
「セイジ、ちょっといいかしら」
その顔がすごく険しかったので、小野は自分の推測は当たったなと確信した。
「インターポリスが捜査本部の永久凍結を決めたらしいわ」
店を出てすぐにエリーは話を切り出した。
「理由は捜査を始めて一年近く経つのに人為的証拠が見られないことと、IHO(International Health Organization)が捜査を引き継ぐと提案してきたらしいの」
「IHOが? と、言うことはあれはやはり何かの病気なのか?」
「わからない。けれど人為的な証拠が見つからない以上、インターポリスとしてはこれ以上捜査を続けることが厳しい、と言うのが上層部の見解らしいわ」
エリーは悔しそうに顔をにじませた。
「君はこれからどうするんだい?」
小野は窓際の席で馴染みの店員と会話を楽しむウィリアムを視界の隅に置きながら尋ねた。
「私はユートのためにも絶対にこの事件を解決しなければならないわ。たとえそれが人為的なものであろうと自然発生的なものであろうとね。だから、捜査本部が無くなっても私は捜査を続ける、と上司に言ったら、彼が特別に休暇を用意してくれるそうなの。インターポリスの後ろ盾がなくなって捜査が難しくなるかもしれないけれど、この休暇を使って自分が納得するまで捜査して来いって言われたわ」
そんなことを上司に言ったのか。日本だったらすぐクビにされてるぞ。
小野は驚きととともに文化の違いと、彼女が優秀な捜査員だから実現したことなのだろうと感心した。
「それで、あなたはこれからどうしていきたい? インターポリスという後ろ盾がなくなって捜査は確実に難航するわ。あなたは本来の仕事のこともあるし、ここで帰ってもらっても構わないわ。けれど、あなたのその推理力は事件を解決する大きな鍵だと思うの。だから私としてはこれからもあなたに協力してほしいわ」
エリーは気恥ずかしそうに小野に尋ねた。小野はその問いに対してしばらく思考を巡らせた。
確かに、今抱えている仕事は全部竹ノ内に任せてしまっているので、なるべく早めに戻りたいという気持ちもある。それに自分は会社の中ではそれといって重宝はされていない。だからあまり休暇を取りすぎると、帰ってきた時に自分の席がなくなっている、なんて事態になりかねない。だけど……。
小野はエリーの方を向いて言った。
「神崎守は僕の未来の行動と思考を予測していた。そのトリックはまだ謎のままだ。僕としてはこのトリックを暴いて彼に一矢報いるつもりでいる。だからこれからも君に協力させてほしい」
それを聞くと、エリーはホッとした表情を見せ、赤みがかかったブラウンヘアーを耳の後ろに向けて撫でた。
「それで、これから僕らはどうするんだい? もうウィリアムから聞けるようなことはなさそうだし、別の人に話を聞きにいくべきだと思うんだけど……」
小野は視線をウィリアムがいる窓際の席にやった。しかし、ウィリアムはそこにはおらず、空になったコーヒーカップだけが置かれていた。
あれ、トイレにでも行ったのかな?
「そうね。けどこの事件を担当していたロンドン市警のコナン・アークライトは休暇を取っていて、今ドバイに行ってるそうなの。彼が戻ってくるのを待つのもいいけど、もう一人の被害者についても動き出した方がいいわね」
「弁護士のベン・ハドリーのことか?」
パナマの弁護士、ベン・ハドリーが全身から血を噴き出して倒れているのが発見されたのは今からちょうど二週間前だった。その死は大きくは報道されず、おおよその人が関心を持たなかったものである。小野は、このベン・ハドリーが神崎が書いた物語の第三章に出てくるベン・羽鳥のことなのではないかと推測していた。
「その事件の第一発見者がパナマで休職中らしいの。彼を当たってみるのが一番妥当だと思うわ」
「そうだね。けど交通費はどうするんだい? ここからパナマなんて行くだけでも千ドルは軽くかかってしまう。それに加えて滞在費なんかを考えると海外渡航はそう何度も使えるものではないぞ」
エリーは困ったように腕を組んで俯いた。
「確かにそうね。私の貯金を使っても二人分の旅費をまかない続けるのは難しいわ。どこかで資金調達しないと……」
その時、二人の背後から声が聞こえた。
「何かお困りのようだね!」
二人は驚いて後ろに振り向いた。そこにはウィリアムがにこりと笑みを浮かべて立っていた。
「あなた、いつから私たちの会話を聞いていたの?」
「パナマに行くとか、資金調達しなきゃとか、そこらへんからかな。その様子だとお金が足りないようだね」
「そうよ、それであなたは何か用?」
エリーは顔色一つ変えずに再び尋ねる。
「どうだろう。私が捜査に関わるお金を全て出してあげようじゃないか」
彼の言葉にエリーと小野は思わずお互いの顔を見合わせた。
「本当?」
「ああ、もちろんだとも。これでもお金には困らない生活をしているんだ。君たちの旅費を賄うくらい造作もないことだよ。ただし……」
そう言ってウィリアムは一歩前へ出た。それと同時にエリーは一歩後ろへ下がる。
「一つだけ条件がある。私もこの事件に協力させてほしい。さっきも言った通り、私はこの事件についてすごく興味があるんだ」
なるほど、資金提供をする代わりに先ほど断られた捜査に関する手伝いを申し出てきたのか。さっきはこちらが捜査の情報を教えるだけで、ウィリアムが有利でしかなかったが、今回は「協力する」という言葉を使ってこちらが乗ってきやすいようにしている。さすが言葉を扱う仕事をしているだけあるな。
小野は感心するとエリーの方を見た。彼女もこちらを向いていて「どうする」と目線で聞いてきていた。
「別にいいんじゃないかな。こちらとしても十分もとは取れるだろうし、彼のことだから、無闇やたらに捜査情報を外部に漏らすようなことはしないと思うけどね」
「わかったわ。あなたの捜査への協力を資金を提供するという条件のもと許可します。早速で悪いけど、急いでパナマ行きの飛行機とパナマ市内のホテルを三人分取ってくれないかしら?」
エリーは観念したように言った。しかし、ウィリアムはなぜかキョトンとした顔をしてみせた。
「三人? 君たち二人以外に誰かいるのかい?」
その言葉にエリーと小野は思わず眉を細めた。すかさずエリーが反応する。
「どう言う意味? 私は私とセイジとあなたの三人と言ったのよ」
「私がパナマへ行く? まさか、冗談をおっしゃい! 私はパナマなんて辺境の地に行かんぞ、めんどくさい。君たち二人で行って、その情報を私に報告すればいいじゃないか」
小野はウィリアムの大胆不敵な発言に思わず笑い出しそうになった。しかし、エリーの表情を見てその笑顔をすぐに引っ込めた。彼女の顔は怒りに満ち溢れ、今にも殴りかかろうとせんばかりの勢いだった。
「これは全員で行くことに意義があるの、わかる?」
「わからないね。そもそも全員で行くことに意義が感じられない。これは修学旅行か何かか? 違うだろ? これは仕事で、ビジネスだ。効率を優先すべきだと私は思うな」
「一番ビジネスから縁遠い人が!」
エリーが吐き捨てるように言う。
「別に拒否したっていいんだよ。ただし、その代わり私も君たちへの資金援助はやめる。それでもいいなら拒否したまえ」
ウィリアムの傲慢な態度にエリーはキーッと言わんばかりに歯を噛み締めた。
「一つ尋ねてもいいか?」
小野はエリーの頭を冷やす時間を稼ごうと手を挙げる。
「例え僕ら二人が行ったところで、捜査の報告はどうするんだい? その場にいた方が迅速に事が進むと思うんだけど……」
「電話をすればいいじゃないか。そのための文明の利器だろう」
「わかったわ。じゃあ、パナマ行きの飛行機とホテルを二人分、調達よろしくね」
彼女の表情からは疲れが伺えた。それもそのはずだろう。ノーベル文学賞を取れる人に協調性のある人なんていないのである。
「明日には出発したいわ。それまでには用意しておいてね」
エリーは荷物を取るために店の中に戻っていった。
「任せてくれ。期待には一〇〇パーセント答えよう」
ウィリアムは機嫌よく答えた。
雲が晴れ始め、切れ目からこぼれた太陽の光がフラスクウォークにポツポツと降り注いだ。果たしてその光は希望の光となるのか、はたまた届かぬ光となるのか。この場にいた三人にはまだ分からなかった。
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