第1話
一
新談館がある護国寺から池袋までは有楽町線で二駅、三分ほどで着くのだが、小野はその時間が三十分にも長く感じた。頭の中では次に起こる展開を次々と考え続けていた。しかし、同時に神崎守には全てこの考えもお見通しではないかという不安があった。
そして池袋駅に着くと真っ先に改札を飛び出してホテルに向かった。池袋プリンスホテルは地下鉄の駅と直通でつながっていたので、地下から入っていった。
エレベーターで三階まで行くと、小野は異様な雰囲気を感じた。エレベーターホールと廊下をたくさんのスーツ姿の男と青い服を着た鑑識がいたのだ。その光景を見た瞬間に小野は何が起きているのか大体を理解した。それを確かめたいのだが、エレベーターホールと廊下の間には黄色い規制線が張られていて進むことが出来なかった。
「どうかされましたか?」
次の行動を考えていた小野に、見張りをしていた制服警官が尋ねてきた。小野は自分が犯人として疑われるのではないかと危惧したが、ここは正直に話したほうが良さそうだと推測した。
「僕は新談館の小野という者です。こちらの301号室に神崎守先生がいらっしゃっると伺って来たのですが、何かあったのですか?」
それを聞いた警官は眉をひそめて困った表情をみせた。
「少々お待ちください」
彼は小野から少し離れると、無線機でなにやら話し始めた。小野はこれは自分の予想が合ったなと考えた。
ややあって、規制線の奥からよれよれのスーツを着た男が一人出てきた。四十代後半くらいの男は小野に近づくと警察手帳を見せた。
「警視庁捜査一課の田辺誠です。大変申し上げにくいのですが、神崎守さんは数時間前に遺体で発見されています」
小野はやっぱり、と思った。ここまでの芸当が出来る人物がのこのこと自分の場所を明かすはずはないと考えていた。
「失礼ですが、被害者とはどういった関係ですか?」
田辺と名乗る刑事は警察手帳を開いてペンを走らせる。
「彼から原稿が送られてきたのです。その原稿に滞在先がここのホテルだと書かれてあったので訪ねた次第です」
田辺の質問に小野は若干の嘘を混ぜて答えた。そうしたほうが説明の手間が省けるし、ことが上手く進むだろうと考えたからだ。
「そうですか……、詳しく事情を聞きたいので場所を変えてもよろしいですか? 二階に会議室があるのでお連れします」
田辺はエレベーターの下行きのボタンを押した。エレベーターを待っている間、彼は電話をかけ始めた。
「……はい、そうです。ガイ者と接点がある方です。おそらく彼女を呼んだほうが良いかもしれません。……はい……、はい。今から二階の会議室に向かいます」
会話の内容からして上司と話していると推測できた。程なくしてエレベーターが到着し、二人は中に入った。扉が閉まるなり田辺が口火を切る。
「小野さんは英語とかしゃべれますか?」
「……はい。いちおう、日常会話くらいならしゃべれますよ」
「そうですかぁ……わたしなんて高卒でして、今でも英語の文法すらちんぷんかんぷんなんですよ」
そこまで言ったところで扉が開いて、二人はエレベーターを降りた。
「いや、なぜいきなりこんな話をしたかと言いますとね、実は被害者の亡くなり方に近いことが世界的に起きているらしくって、その担当の人が今日本に来ているんですよ。若い美人さんで。けど、彼女英語しかしゃべれないもんだから、現場の人間はすっかり困ってしまいまして……」
言い終わらないうちに二人は会議室に着いた。田辺が扉を開き中に入るように促す。
「座って待っていてください。すぐに彼女が来ますから。あ、ちなみにさっきの話、公にされていない情報なんで絶対に言わないでくださいね。といってもあなた出版社の人間か、あははははは」
田辺は閉めかけた扉を開けて笑うと、再び閉めて立ち去っていった。
世界で共通して同じような事件が起きている、か。
小野は田辺の言葉に少し引っかかるところを感じていると、ノックもせずに扉が急に開いた。扉からはスーツ姿で長い赤みがかかったブラウンヘアーを一本に結った若い外国人の女性が入ってきた。
「こんにちは。英語で話しても大丈夫だと聞いたわ。その様子だと問題ないみたいね」
颯爽とした話し方で彼女は切り出した。
「インターポリスのエリー・コネリーよ。この事件の担当をしているわ。どうぞよろしく」
彼女は手帳から名刺を一枚取り出すと、小野に渡した。名刺には彼女の名前と所属、そしてフランスの出身であることが明記されていた。小野はまさか、と思い、同時に神崎が残した物語の構造を確実に理解した。
「まず、あなたの名前と勤務先を訊いても良いかしら」
エリーは小野の様子など気にも留めず質問を始めた。
「小野政治と言います。新談館で編集の仕事をしています。彼のほうから原稿が送られてきて、原稿の最後にこのホテルに滞在しているから是非来てほしいという旨のあとがきがあったので来てみたら……」
「なるほど……」
エリーはメモ帳に何かしらを書き留めた。
「では、あなたは生前の神崎さんに会っていないわけですね?」
「そうですね。原稿も彼のほうからいきなり送られてきたので、それまで彼とは全く面識がありませんでした」
「そう……」
エリーは少し残念そうな顔をした。
「これは事件の関係者全員に訊いていることなんだけど、あなたが昨日どこで何をしていたか教えてもらえる?」
「昨日は朝から会社で仕事をして、午後六時に会社を出たあとは行きつけのラーメン屋さんに寄って、あとは自宅で一人でいました」
小野が言ったことをエリーは素早く書き留めた。
「ありがとうございます。また何か思い出したことがあれば名刺にある番号までかけてください」
エリーは事務作業のように言うと、急いで立ち去ろうとした。
「あの、僕からもいいですか?」
小野の言葉に彼女は立ち止まり、彼のことをじっと見た。彼女の緑色の瞳が小野に対する不信感を物語っていた。
「あなたはフランスの出身だそうですね」
「ええ、パリで生まれ育ちましたが、それが何か?」
彼女は眉をひそめて答えた。小野は慎重に言葉を選んだ。間違えれば逆に彼女に怪しまれ、自分が犯人にされるかもしれないからだ。
「むかしパリの警察官としてパトロールとかしたことありますよね」
「むかし、といっても二年ほど前までだけど……何が言いたいの?」
エリーはさっきよりも眼力を強める。小野はここで本題に切り出すことにした。
「では、そのパリ市警で働いていたとき奇妙な事件に遭遇していますよね。今回と同じように全身から血が噴き出して人が死ぬような……」
そこまで言うと、彼女の目がキッと鋭くなった。
「どうして神崎守が全身から血を噴き出して死んでいることを知っているのかしら? このことは外部に漏らすのは厳禁になっているはずよ」
彼女の言葉が急に鋭く、かつ冷たくなった。
「あなた、ただの編集者ではないみたいね。何者なの?」
エリーはさながら犯人を問いただすかのように語気を強めた。
「僕もこの前までしがない編集でした。神崎守からこれが届くまではね」
小野は鞄から神崎が書いた原稿を取り出して見せた。
「この原稿には僕のここ一ヶ月間の行動の一部が事細かに記されていた。この原稿が送られてきたのは一ヶ月以上前なのに、だ。つまり、神崎守は僕のここ一ヶ月の行動を部分的ではあるが予測していたんだ!」
「それがあなたが神崎に会いに来た本当の理由?」
エリーは不気味な目つきで小野のことを見た。小野はかまわず続けた。
「そうだ。このことを言ったら変に怪しまれるかと思って嘘をついていた。そこは申し訳ないと思う。けど、あなたの名前を聞いたとき推測が確信に変わった」
小野は原稿の先頭のページをエリーに見せた。
「この物語の第一章に小練英理という人物がパリで全身から血を出す事件に遭遇している。名前が似ていることと、パリの警察に勤めていたことから考えておそらく過去のあなたのことが書かれているのだと思う。間違いありませんか?」
小野は強い視線で少し怯えた様子を見せる彼女のことを見た。
「……そこには当時の出来事が事細かに書かれているの?」
開かれた彼女の口から漏れてきたのは弱々しい声だった。
「……おそらく僕と同じと考えるとそうでしょう」
「なら、誰が死んだか知っているでしょう?」
エリーは小野の顔を見つめた。
「私の弟は真面目だった。世界中の貧しい子供たちを救いたいと医者になるための勉強をしていた。その矢先に彼女が目の前で死んだの! しかもあんな死に方で! あの子はあの事件の影響で重度のうつ病を患ったわ。おかげで勉強なんておろか、食べ物を口に運ぶだけでもやっとの精神状態なの!」
「だから彼のために犯人を逮捕したいと?」
「そうよ。一度はフランス警察によって隠蔽されたあの事件もイギリス警察の抗議によってインターポリス主導のもと捜査が再開された。けど、これらの事件には不明な点が多すぎる。それについてはあなたもそう思うでしょ?」
エリーの問いかけに小野はゆっくり頷いた。
「けど、いまこの原稿が僕たちの目の前にある。これは少なからず重要な捜査のヒントになるんじゃないか?」
エリーは小野の手にある原稿を一見した。小野の言っていることには信憑性が低かった。そもそも人の行動を予言するなんて明らかにオカルトの類いである。本来ならばくだらないと切って捨ててしまえばいいのだが、この事件は解決するにはあまりにも謎が多すぎるため捜査チームは眉唾物であろうと、喉から手が出るほど欲しい状況にいたのだ。
エリーは小野の目をまっすぐに見つめると言った。
「その物語は全部で何章あるの?」
「僕の含めて七章だ。一つだけ内容がわからない章があったが……」
「かまわないわ。ここに各章のあらすじを英語で書いてくれるかしら。あとで原稿全体を翻訳するけど、その前に内容を把握しておきたいの」
彼女は内ポケットから黒革の手帳と金色の装飾が施された黒いボールペンを取り出して、小野に渡した。
「私は本部にこのことを報告してくるわ。その間にそれを終わらせといて」
びしっと言い放つと、彼女は部屋から出て行った。小野はペンを握ると、原稿を軽く読み返しながら内容の要約に入った。
二十分ほどして彼女は戻ってきた。
「終わったかしら?」
彼女の挑発的な質問に対し、小野は無言で手帳を出すことで応えた。エリーは手帳
を受け取ると中身をさっと見てすぐに閉じた。
「詳しくまとめられているわね」
彼女の言葉に小野は疑問を持った。
「軽くしか見てないのにそんなことが言えるのか?」
「ええ。こう見えて映像記憶能力が著しく高いの。あなた、内容をまとめるだけでなく所々に自分の推理を入れてるわね。これで信用してくれる?」
エリーは得意げな顔で小野のことを見た。
「これは驚いた。映像記憶能力の人とは初めて会ったよ。……確かにその通りだ。少しでも捜査の協力が出来たらと思い、書いておいた。気に入らなければ無視してもらってもかまわないよ」
「そう。けど、あなたの推理はなかなか役に立ちそうよ。例えば第四章に出てくる李法案の正体がノーベル賞作家のウィリアム・リーだと推測したのはどうして?」
彼女は何も見ずにそのことを口にした。このことにより小野は本当に全て記憶しているのかと感服した。
「簡単な話だ。小野政治が小野世伊地に、エリー・コネリーが小練英理に変わっていたように、神崎守は実在する固有名詞を語呂や簡単な文字の入れ替えを使って言い換えている。第四章に出てくる李法案はノーベル賞作家で左塚治の『月の鳥』の大ファンである、というかなり多くの情報がある。左塚治とは左の反対である右から連想するに右塚治で、彼の輪廻転生の概念を取り入れた未完の名作と言えば有名な『夕の鳥』だ。このことから先日出版界を大きく騒がせたニュースが思い出される。夕の鳥の続編が書かれたことだ。こればかりは業界の人間でないと覚えていないかもしれない。続編を書いたのはノーベル文学賞を受賞したイギリス人作家ウィリアム・リー。ウィリアムの友人としての呼び方はビル(Bill)。これを中国語に置き換えてみると法案となり、見事同一人物であると一致する」
小野の推理をエリーはただただ聞いていることしか出来なかった。次に彼女の口から出たのは感嘆の声だった。
「凄いわね、あなた。普通の人でもここまでわからないわよ」
「昔から推理には自身があってね。本格ミステリーなら有名どころは初見で全て犯人を当てて見せたよ」
「信じられない、コナン・ドイルやエラリー・クイーンも全て初見で言い当てたって言うの?」
「アガサ・クリスティもエドガー・アラン・ポーもだ」
エリーは試すような目線で小野のことを見つめた。それは、まるでオークションに出された商品を値踏みしているかのような目だった。
「あなた、この捜査に協力するつもりはないかしら? もちろんそれ相応の報酬は出すつもりよ」
その言葉を聞いたとき、小野は嬉しくなった。自分の実力が認められたことはさることながら、同時に自分の思い通りにいったからである。小野はもともと自分から何かに取り組むということが少なかった。しかし今回、神崎に自分の思考や行動が全て予知されていたことに幾ばくかの悔しさと仕返しをしてやりたいという気持ちがあった。だから捜査機関の人と接触したときには自分の推理能力を披露して捜査に協力しようと思っていたのだった。
「もちろん、僕でよければ手伝うよ」
「あとで正式な依頼が来ると思うわ。ひとまずよろしく、と言っておこうかしら」
彼女はそう言うと、手を差し伸べてきた。小野は少しためらいながらも彼女の手を握った。
「とりあえず私はウィリアム・リーに会う約束を取り付けてくるわ。その間にあなたには今までの捜査資料全てに目を通してもらおうかしら」
後日、彼女に呼び出された会議室には二万ページもの捜査資料が待ち受けていた。
「僕は君みたいな映像記憶能力はないんだけど……」
苦笑いする小野に対してエリーは、
「何言ってるの? 捜査に協力するなら捜査資料全てに目を通すのは当たり前でしょ」
と、軽くあしらった。
「ウィリアム・リーに会えるのは一週間後よ。その時までにその捜査資料全てに目を通しておいてね」
彼女が会議室から出て行くと、小野は気合いを入れて捜査資料を読もうとした。しかし、それらが全て英語で書かれているのを見てすぐに両手を挙げた。
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