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から、ヒルズ内で宿泊です。翌朝は五時に起床し、ヒルズ内のジムで日課のマラソン。六時にレストランにて朝食をとる予定です」


 ランダはフェイドが言ったことを全てメモしてから腕時計に目をやった。


「もうすぐ六時ね。ぼちぼち移動を始めた方が良さそう」


「ええ、では自分はこれで。No pasa nada(何も起きませんように)」


 ランダに一礼すると、フェイドは帰路についた。彼が最後に言った「No pasa nada」はシークレットサービスの標語で、こうした現場交代の時に使われる一種のおまじないみたいなものだ。


 フェイドが見えなくなってから、ランダは誰にも見られないように鼻の奥に詰めておいた脱脂綿をそっと取り外した。脱脂綿を素早くポッケに入れると思いっきり鼻で呼吸する。妨げるものがなくなった鼻は存分に空気を吸い込み、空気は鼻腔を通って嗅細胞にたどり着いた。嗅細胞は様々な匂いを分析して脳に伝える。


 特技と呼ぶにはあまりに地味すぎるかもしれないが、ランダは子供の頃から匂いに凄く敏感だった。彼女は一人一人が持つ固有の匂いをかぎわけ、嗅いだ匂いの種類までも判別することが出来る。


 ランダは辺りに残った匂いをかぎ分けた。フェイドの匂い、ベンの匂いなど数多くの嗅ぎ知った匂いがある中で一つだけ、見知らぬ匂いが混じっていた。おそらくこれがフェイドが言っていた人物の匂いだろう。性別は男、加齢臭があまりしないから三十代、それほどがっちりした体格ではないけれど筋肉はしっかりついている。そして、血の匂いが若干する。


 もしかしたら暗殺者の類いかもしれないわ。


 オフィスの扉が開きベンが出てきた。彼は紺色のスーツに紅色のネクタイをきちんと締めている。彼の匂いを嗅いだ瞬間、ランダは思わず顔をしかめた。まもなく六十を迎えようとする男からは加齢臭に加え、何を迷ったのか男性用フェロモンの香水の匂いがしたのだ。


「おや、フェイドはもう帰ったのかい?」


 ベンは開口一番にそう訊ねた。


「はい、ここからは私、ランダが担当いたします」


 ランダはかしこまって頭を下げた。


「そうか、これから大事な約束があるからよろしく頼むよ」


 彼は左手をそっとランダの腰に回そうとした。彼女はさりげなくかわす。


 やっぱり……、この人……。

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