第48話「他人の幸福」
「二人とも、申し訳ない」
一階に降り、小森と浅堀に謝罪した。
朝の混み具合と打って変わって、一階のロビーはぽつぽつとしか人がおらず、
「えっ、何がですか?」
小森は、あっけらかんとした様子だ。
「いや、その……」
「仕方ないっすよ。初戦は
浅堀が、半笑いで的はずれな慰めのコメントをする。
「そうですよ。しかも悦弥さん、体調よくないし。まあ、僕も口内炎で不調なんですけど」
「だから口内炎は関係ないから。食事中ぐらいだろ、影響すんの」
「そんなー。ツラいんですよ? 口内炎」
「じゃあ俺もドライアイ気味で目疲れるから、体調不良だな」
「いやーそれは無理ありますって。目薬させばいいじゃないですかー」
「なんでだよ。口内炎よりはマシな理由っしょ」
朝も聞いた心地よい冗句が再度肉付けして展開され、私は予定外の半笑いを浮かべた。
「さっきは、大事な対局の前に変なことを言ってしまってごめん。忘れて下さい」
彼らの冗句が一段落したところで、閑話休題した。
「あぁ、小学生のころの話ですか」
「上村が話してましたね……」
浅堀と小森が、それぞれ真剣な表情を向ける。
「さっきの僕の反応が君らを動揺させて、盤面に影響してしまうんじゃないかと気になっていたんだ。浅堀さんは勝ったけど、小森くんはらしくない負け方だったからね。余計なことを言って気を散らしてしまい、申し訳ない」
我ながら、堅苦しい謝り方だと思う。それでも、こういう形しかとれないのだ。不器用で内向的で、学歴しか誇れるものがなくプライドの高い私には。
「小学生の時に何があったのか、僕らにはわかりませんが」
小森がいつもよりも大人びた声音で、ゆっくりと口を開く。
「たとえ過去がどうであろうと、僕は今の悦弥さんが好きですよ」
「俺も。私生活はそんな知らないけど、池原さんの囲碁に対する真摯な姿勢を、同じ碁打ちとして誇らしく思います」
彼らの返答はまるで予想と異なるものではなかったが、私は胸を打たれそうだった。言葉そのものよりも、それを発した彼らの心に偽りを感じなかったことが嬉しかった。
都合のいい思い込みかもしれない。気を遣ってくれているだけなのかもしれない。そうだとしても、いま大切なのは真実ではなく、真実だと信じることのできる心情だ。
過去がどうであれ、日ごろの行いがどうであれ、私は確かに、今日に限って言えば誠実に過ごしている。具体的に何かをしているわけではないが、チームメイトである小森と浅堀が実力を発揮し、精一杯対局を楽しんでくれるよう願っていた。朝起きてすぐにそうであったわけではないにしろ、彼らと対面してからは確かにそう願っていたと思う。
他人に対する興味関心が希薄で、自身の興味の範疇で生を満喫していた小学時代には、そういう願いを抱くことなど考えられなかった。
根本的な性格は、今でも変わってはいない。でも、自身の利得や幸福だけでなく、他者のそれらにも自然と価値や喜びを見い出せるようになったことは間違いないと断言できる。それを確かめるための大会だったとすれば、たとえ全敗でも清々しいものだ。
「ありがとうございます」
学歴以外に誇れるものが、他にもあるのかもしれないなと思った。
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