第32話「忘れがたき大学」

「あいつのチームも勝ったのか」

 対戦表を確認し、浅堀が呟く。

 視線を向けると、上村のチーム"バカルディ・ゴールドの夜明け"の名前が目に入り、一回戦の結果が記入されていた。

「なるほど」

 せっかくコーヒーを飲んで気分転換した後に上村のことなど思い出したくもなかったが、自分と同じく六段でかつ主将とあっては、まったく意識せずにいるのは難しい。

「まあ、上村……でしたっけ? あいつが勝ったかどうかはわかんないっすけどね」

「ですね」

 対戦表にはチーム全体での勝敗しか書かれておらず、それぞれの対局カードを見なければ詳細は確認できない。


「クラス別戦、Aのほう二回戦の組み合わせできました! チームの対局カードが置かれている席について、対局者が揃っているところから対局を始めてくださーい!」

 十一時四十八分。予定よりも少し遅れて、スタッフの男性が二回戦開始のアナウンスをする。

「おっ、準備できたみたいですね。行きましょう!」

 小森の声を受け、私たちは二回戦の席を探した。


 * *


「天真流露ですか、カッコいいチーム名ですね」

 相手チーム"東工大囲碁部OB"の主将の男性が愛想のよい笑顔を見せながら言い、ペンを動かす。

「あっ、どうも」

 マスク越しに、やや決まり悪そうに笑って答え、私も対局カードにチーム名を記入する。


 東工大学。その大学名は、私にとって忘れがたきものであった。

 東工大学とは、大学時代に関東リーグ(団体戦)で一度だけ対局した。二年次の春季大会だった。

 当時の私は、囲碁に対して今ほどの情熱を抱いていなかった。囲碁部に所属していたのも、あまり人の来ない地下二階の部室が休憩場所としてちょうど良かったことと、大学生でありながらサークルや部活と無縁の生活を送ることが大学生活において重大な誤謬ごびゅうであるかのように錯覚していたことが、主たる理由であった。

 団体戦に関しては三日間も拘束されることが煩わしく、一日か二日休みたいと思ったものの、部長として各種手続きをしたり部員を纏めたりする立場であったため――メンバー五人を集めるのに四苦八苦する小規模な部で纏めるもなにもないのだが――、そういうわけにはいかず全日参加した。部長になって初めての大会だった。

 そのような後ろ向きな気持ちで臨んで勝てるほど生ぬるい大会ではなく、初日に三戦三敗、二日目の初戦も敗北して四連敗を喫した。他の部員たちがそれなりに善戦している中で部長の自分が大幅に足を引っ張り、虚しさやもどかしさで打ちのめされそうになった。


 昼休憩の時間にWANDSの『時の扉』を歌いながらランニングを行い、気持ちを新たに臨んだ五戦目で当たった相手が東工大学である。

 白番で、私は空き隅二箇所を大高目おおたかもくに打った。ただでさえ珍しく、奇抜とさえ言えるその打ち方を試したことは過去に一度もなく、半ばやけくそに近い気持ちだった。

 やけくそではあるものの、本気で白星を掴むと決意した心に迷いや焦燥感はなく、それまで胸の内で音を立てずにくすぶっていた矜持や情熱を、気迫という形で目一杯に放出したのである。中盤で窮地に追い込まれながらも逆転勝利を果たしたその一局は、私にいくばくかの自信や誇りを与えたのみならず、囲碁の楽しさや勝負の厳しさ、またそれを乗り越えて勝ちを手にした時の言語に絶する喜びを教えてくれた一生ものの作品だ。


「えっと……こちらは六段、五段、五段ですね」

 主将の男性が、メンバーの棋力を発表する。私と同年代と思われる青年だが、あの時の対局相手ではない。九年前なので外見がそれなりに変化していてもおかしくはないが、一生ものの作品を創り上げた競作者の顔を、私は今でもはっきりと憶えていた。

「六段、六段、四段です」

「では、互先、定先じょうせん、定先ですね」

「はい」

 今回、ニギリを行うのは私だけ。小森は白番でコミなしのハンディを出し、浅堀は反対に同様のハンディをもらう。


「ハズレですね」

 ニギリの結果、私の白番となった。

「よろしくお願いします」

 六人一斉に挨拶し、"天真流露" 対 "東工大囲碁部OB" の二回戦が始まった。

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