第31話「一回戦終了」

 上階で小用を済ませて二階へ戻り、階段横の自動販売機で缶コーヒーを購入した。


 黒いパッケージのそれは、職場のとある利用者――久松芳夫ひさまつよしおという五十代の男性で、身体障害と精神障害を抱えている――が好んで飲んでいるものだ。

 ふと、久松の顔を思い出す。重度の知的障害者が多い施設なので普通に意思疎通を取れる人は少ないが、彼はその中で言葉によるコミュニケーションが問題なく可能な数少ない利用者だった。

 性格上、私は利用者と積極的に関わりを持つタイプではないが、入職当初から久松にはなぜか気に入られていた。週に二回の入浴介助の際、ほかの職員が担当することを知った際には「悦弥くんがいい」などと邪気なく言うものだから、その日の入浴担当の職員は苦い笑いを浮かべることも多かった。

 私の趣味が囲碁で高段の棋力である旨を話して以降、「悦弥くんは将来、囲碁のプロになるんだ!」というのが久松の口癖になった。たかだかネット碁六段程度の棋力しかない奴がプロになどなれるものかと無意味な憎まれ口を叩くほどには私の性格は歪曲しておらず、率直に誇らしい気分になった。

 

 ステイオンタブを引っ張った時のプシュッという音が、私は子どものころから好きだ。中身は色のついた液体にすぎないのに、なにか珍しい宝物でも入っているかのような浪漫的なその音は、今聞いても私の心をほんの少し躍動させる。甘みを伴わない二百ミリリットルほどのコーヒーをその場で一気飲みし、自動販売機の横のゴミ箱に空き缶を捨てた。


 初戦からひどい負け方をしたにも関わらず、私は落ち着いていた。

 終局直後こそすぐさま離席したいと感じたが、少し時間が経った今となっては、あれは仕方のない碁だったとある種の開き直りに近い感覚でいた。少年の言葉が正しいとすればそもそも序盤の時点で悪かったのだから、格上であったと言わざるを得ない。今大会は最高段位が六段までしかない以上、六段の中で多少の棋力差が生じる可能性は十分にある。あの少年は私がいつも利用しているネット碁サイトならば、少なくとも七段はあると推測できる力量だった。

 それに、大会はまだ始まったばかり。残り三試合、勝ち越しできる可能性も残っている。このように現状を肯定的に捉えられるようになった点は、大学時代と比べて大きな成長だろう。


 十一時十分。対局場に戻ると、ちょうど小森が終局して整地をしているところだった。浅堀はすでに局後の検討に移っている。


「ありがとうございました!」

 小森の爽やかな挨拶を受け、対局相手の子どもが丁重な礼を返した。二目半にもくはんという僅差で小森が勝利を収めた。


「序盤ひどすぎて投了したかったけど、ここでちょっと盛り返して勝負になってきましたかね」

「いやー、ここ全然見てなくて、打たれてやべっと思いました。ひどかったぁー」

「そこなかったら普通に負けてましたよね。あぶねー」

 整地した状態から石を崩さず、互いに指示語を器用に用いて簡易的な感想戦を行っている。私のように空気が云々などとあれこれ考えすぎずとも、小森のような器の大きな男であればこうも円滑に事が運ぶのかと、斜め後方で自身の面倒な性格と比較して感心しつつ半笑いを浮かべた。対局カードの副将の欄に○印を記入する。


「お疲れ様です。どうでした?」

「あっ、お疲れ様です。何とか勝ちました。中押しです」

 検討を終えた浅堀に声をかけると、彼は安堵を含んだ微笑をたたえて答えた。

「すごいですねぇ。六段相手に中押しとは。おめでとうございます」

 対局カードの三将の欄、およびチームの勝敗欄にも○を記入した。

「いえいえ、置き碁なので。池原さんは残念でしたね」

「すいません、負けてしまって。ちょっと勝ち目ない感じでしたね」

 感想戦が終わったらしく、小森たちが碁石をじゃらじゃらと片付けている。


「お疲れ様です!」

「JKお疲れ。二勝一敗か、上出来じゃん」

「悦弥さんと打ってた男の子、なんかすごいオヤジ臭い喋り方でしたよね。横で聞いてて笑いそうになりましたよ」

「そうだね。強かったことよりそっちのほうが驚いた」

 そういえば上村はどうだったのだろうと、不本意ながらも彼の結果が気になってしまう。

「あの人のチームは勝ったんでしょうかね。なんだか自信ありげな感じでしたけど」

 私の心を見透かしたかのように、小森が上村のことを取り上げた。

「あぁ、池原さんの知り合いか。向こうのチームも勝ってたら、次当たる可能性もあるよな」

「どうですかねぇ。まあ、気にしても仕方ないか。とりあえずこれ出してきますね」

 相手チームと自身のチームの対局カードを持ち、私は結果報告をするために受付に行った。

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