第2話「ルノアール 三鷹北口駅前店」

「いらっしゃいませ」

 扉を開くと、左斜め前のレジカウンターにいた若い男性店員が挨拶してきた。

 

 私は人差し指で正面の階段を示し、店員の「はい、どうぞ」という返答と同時に階段をのぼる。この店舗は一階にも多少席はあるが、メインは二階席。マナーとして適切かどうかはさておき、そのいかにも常連然とした振る舞いはなかなかにいきだと我ながら思う。

 以前、新宿の喫茶店――ルノアールではなく、一店舗のみの老舗店――で光蟲が同様のゼスチュアをしていた。私の場合と異なるのは、その店のメインは地下フロアだったので、人差し指の示す方向が上ではなく下だったことと、彼にとってその喫茶店は行きつけどころか、それまでただの一度も訪れていなかったということだ。「初めてなのにさも常連のごとく入るというね」と、地下に続く階段を降りながら光蟲は自らの振る舞いに噴き出していた。


「いらっしゃいませ」

 二階に上がると、私と同い年か少し上ぐらいの――つまり三十前後――女性店員の挨拶を受ける。

「禁煙で」

「はい。お好きな席へどうぞ。奥のほうもございます」

 女性店員が形式的に微笑をつくり、厨房に引き返した。私の嗜好としてはやや痩せすぎているものの、それなりに均整のとれた容姿の女性と朝から言葉を交わせたことで、起床後の苛つきがほんの少しばかり軽減された。


「お決まりになりましたらお呼びください」

 奥の禁煙席につくと、ほどなくして中年の男性店員がお冷やと熱いおしぼりを運んできた。

 軽く一揖いちゆうし、厚手のおしぼりを広げて顔をうずめる。眠気やら苛々やら虚しさやらでふわついた脳が、おしぼりのざらついた感触と温かさにより包み込まれているようだ。久しぶりの感覚。ほかでは味わえない高尚で深甚しんじんなその感覚に、大学時代から幾度いくども救われてきた。ルノアールのおしぼりは別格で、他店の追随を許さない。


 スマートフォンをいじって少し時間を潰すと、時刻は七時五十分。ちょうど良い頃合いだろう。注文は決まっているが、その前に済ませておくべきことがある。職場への電話連絡だ。席を立ち、奥のトイレへと向かった。

 

 仮病の際に必ずこの店を訪れる理由は、このトイレにある。

 ルノアールはどの店舗でも比較的トイレ内は静かだが、特にこの三鷹店の静けさはたいしたものである。客席や厨房から距離があり、また分厚い壁を隔てているので周囲の雑音が電話越しに入りづらい利点がある。大きなヴォリウムで音楽などが流れていないのも良い。

 仮病の連絡で重要なポイントはいくつかあるが、何より大切なのは静かで落ち着いた環境を確保すること。誰もいない自宅が望ましいが、それが難しい時は外で見つけるよりない。同じトイレでも、駅やコンビニエンスストアなどでは駄目だ。人通りが多く、また予期せぬ騒音が発生する可能性にびくつきながらでは冷静に喋れない。


 トイレで電話をする際はいつもそうしているように、私は便器の横にうずくまった。

 体調不良を偽った連絡は慣れたものだが、しかし何度経験しても電話をかけるまでの緊張感は変わらない。いぶかしげな反応をされた際、果たして自分は普段の冷静さを保てるかということにまで読みを働かせると決して油断はできない。その場で真っ赤な嘘だと気づかれてしまう可能性——たとえそれが低い確率だとしても——と隣り合わせにあって、少しも動揺しないほうがどうかしている。


 スマートフォンを持つ手が汗ばみ、鼓動は速さを増してゆく。発信ボタンを押そうとしては逡巡しゅんじゅんし、いったんハンケチで汗を拭った。


 八時ちょうどになったことを確かめ、スマートフォンの発信ボタンに手をかけた。

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