第3話「冷めた心」
「はい、御茶ノ水障害者福祉センターハピネス、
電話をかけると、二度目のコールで聞き慣れた低い声がした。勤務開始は八時半だが、彼女はいつも一時間前には出勤している。
主任という立場上、仕事は山ほどあるのかもしれないが、給料の発生しない勤務時間前に働くなど私には到底理解できないことだ。そのくせ終業ベルが鳴った後も、だらだらと喋りながらパソコンに向かっていることがほとんどで、まさに愚の骨頂と言うべきだろう。
「おはようございます。職員の
「おはようございます」
「私、今日は日勤なのですが、熱発してしまいまして、申し訳ありませんがお休みさせて頂きたいのですが」
便器の横で猫のように
仮病の連絡時は元気であることを悟られないように適度な演技が必要とされるが、私の場合、職場では普段から
「あぁ、はい。分かりました」
岩田が、いつものように細かく事情を尋ねもせずに了承する。
「申し訳ありません。熱が下がれば明日は出勤しますので」
「あぁ、そうですか」
「では、失礼します」
「はーい」
僅か二十秒ほどの通話を終えると、私は右手でガッツポーズをとった。それまでの緊張感は一瞬にして消え去り、私の脳内には休日を獲得した喜びが充満している。
仕事をすっぽかして職場の人間に負担をかけることへの罪悪感や後ろめたさなどは皆無だった。そうした感情を抱くほど、自分は情に厚いわけでもなければ繊細な心の持ち主でもない。プライヴェートで自発的に付き合いをもっている知人や友人との約束などであれば別だが、
小松未歩の『sickness』――なんて現状にぴったりの曲だろうか!――のイントロを口ずさみながら意気揚々と小用を足し、トイレを後にした。
「すいませーん、注文いいですか」
席に戻る途中にある厨房の出入り口から、ちょうど先ほどの女性店員が出てきたので尋ねる。私が座る奥の席は厨房から死角になっているので、こうして自ら向かわねばしばらく来ない場合もある。
「はい、すぐに伺いますのでお席でお待ちください」
女性店員が先ほどと同種の微笑をつくり、喫煙部屋の客の注文をとりに行った。
「お待たせいたしました。ご注文お伺いします」
一分ほどで、彼女が注文をとりにきた。
"ご注文お伺いします"という敬語表現は文法的には間違いではないのかもしれないが、客に対して下手に出すぎているようで自分が店員だとしたら好んで使いたくはないなどと瑣末なことを一瞬考えつつも、ともあれ最初におしぼりを持ってきた中年男でなくて良かったと思う。
「ブレンドとBモーニングでお願いします」
「はい、かしこまりました。少々お待ちください」
柔らかく微笑み、女性店員は厨房へと戻っていった。
その微笑みには、偉人のイラスト入りの紙ペラを得るためのプロセスという意味しか付随しないにせよ、晴れわたる朝に似合いの爽やかな笑顔のように今の私には思えた。
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