第8話「一年ぶりの努力」

 席に戻って少し経つと、先ほどまでとは別の女性店員――先ほどの女性店員よりやや見劣りする外見だが、清潔感はあり悪くない――が新たにお茶を運んできた。


「すいませんが、おしぼり交換してもらえますか?」

 先ほどトイレの手洗い場で顔を洗ってはきたが、せっかく店員が来てくれたので依頼する。

「はい、かしこまりました。少々お待ちください」

 女性店員がにこりと接客用の笑みをこぼし、厨房へと戻っていった。


 小森とは出会って三年以上経つが、これまでに二度しか対局していない。

 最初は、互いに主将で出場した団体戦。二度目が、その数ヶ月後にラフォーレで再会した時。今日打てば通算三度目となるが、およそ三年もの間隔が空いていたことを改めて確かめても、私は特に驚かなかった。


 ラフォーレでの再戦時は、私が勝った。

 ニギリで、前回同様に白を引いた。序盤早々に失敗し、戦いが一段落するころには投了寸前にまで追い込まれた。負けるにしても負け方があるだろうと中盤以降で勝負手を連発したところ、かけ離れていた形勢は徐々に接近し、奇跡的に逆転した一局だ。勝ちはしたものの序盤があまりにひどい打ちようだったこともあり、気持ち良くリベンジを果たしたという感触はなかった。


 それ以降、幾度か打つタイミングはあったはずだが、私たちは打たなかった。おそらくどちらかが切り出せば、もっと早くに三戦目は実現していたのだろう。なんとなく、互いに打つことを避けていたのではないかと思う。

 実力が拮抗きっこうしているとなれば、普通ならば恰好かっこうの練習相手だ。私も彼も、しかし人一倍の負けず嫌いで、かつプライドが高い。碁打ちなら負けず嫌いなのは当然とも言えるが、その中でも度合いの高いほうだろう。小森には直接聞いたわけではないが、間違いないと考えている。


 地道なアプローチの積み重ねにより、当時恋人のいた浅井を奪取したこと一つ取っても、絶対に成し遂げんという強靭きょうじん硬骨こうこつな意思を感じざるを得ない。私のことは電話ではあのように持ち上げており、おそらくそれは本心であるとしても、そう思うからこそ雌雄しゆうを決することに対して無意識のうちに尻込みしていたのかもしれない。


 私の場合は彼のような強靭さを持ち合わせてはおらず、そもそも負けそうな勝負には――盤上・盤外を問わず――乗らないことが多い。プライドの高さは負けず嫌いの裏返しであり、小森のように積極的に行動を起こせる人間にはプラスになり得るが、諦めが早かったり保身ばかり気にしたりするようではマイナスに働く。


「お待たせしました」

 女性店員が、新しいおしぼりを持ってきた。私は、朝と同じように顔を埋める。


 温かいおしぼりの感触を味わいながら、小森と対局したいと強く感じた。

 口に出してしまったからではない。ここ最近、刺激の少ないふわついた日々ばかりを送っていたが、この大勝負を期に何かが変わるかもしれないと思ったからだ。大げさかもしれないがそう感じた。

 

 久しぶりに、努力してみたいとも思った。

 私にとって、盤外ではハードルの高いもの。実現するかどうか五分、あるいはそれ以下と思われる可能性のものを獲得するための死に物狂いの努力。この一年ほとんど囲碁を打たなかったのも、そうした努力からの逃避だったのかもしれない。仕事に関しては骨を惜しんだが、その代わりにこちらは正々堂々と受けて立ちたい。


 気持ちを上げるために、WALKMANで浜田省吾の『勝利への道』を再生した。

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