第9話「癒やしの場所」

 十二時四十三分。店に来てから、丸五時間が経過した。


「出るか」

 小声で呟き、イヤフォンを外して荷物をまとめ、伝票を持って離席する。ゆっくり心身を休めたり考え事にふけったりするには、ルノアールはやはりこれ以上ないほどに適した場所だ。


 もともとは光蟲に連れられて入ったルノアールへ、初めて一人で訪れたのは大学二年の秋だった。

 その日は囲碁部の団体戦(最終日)だった。前日の対局で時間切れ負けを喫し、好調な打ち回しで優勢を築いていた一局が水泡に帰したことを引きずって気持ちの切り替えができず、最終日、体調不良を偽って欠席した。

 向かう先を失った私は、新宿をぶらつき地下街の適当なチェーンカフェに入ったが、しばらくして、ふとルノアールへ行くことを思い立った。ブレンドとバタートーストのモーニングを堪能し、あれこれと物思いに耽ったのちにGARNET CROWを聴きながら眠りについた。あの時の憔悴しょうすいした心は、ルノアールによって癒やされたのだった。


 瑣末でとるに足らないことを理由に落ち込み、仮病を使って大事な予定をすっぽかしてルノアールに逃げる自分。九年経ってもあの頃から何ひとつ成長していないことに気付き、階段を降りながら思わず半笑いになる。しばらく訪れていなかったことを反省し、これからはまた仮病の時以外にもたまに訪れるようにしようと思った。


 店を出ると、来た時よりもいっそう澄んだ青空に迎えられた。小森との約束まで、まだ六時間以上ある。

 昼飯時ではあるものの、座っていただけなので食欲はない。どこで時間を潰すかは未定としてもひとまず街を変えようと思い、駅の階段を上った。


 * *


 ラフォーレは、新橋駅烏森口または日比谷口から徒歩六、七分。新店舗と言えどもほとんど同じような場所なので、所要時間は変わらない。

 十八時四十分。まだ余裕があるので、日比谷口を出て左手のニュー新橋ビルで排泄を済ませてから店に向かう。小森より、ベローチェの向かいという簡にして要を得た説明があったため、ホームページに載っていた地図を参照するまでもなく到着した。


 以前のようにあからさまに薄汚くかつ薄暗い雑居ビルではなく、ほどよい照明が設置され、またそれなりに周辺の掃除も行き届いているようであった。中はまだ未知だが、入口に関しては前よりずいぶんと入りやすくなったものだと感心する。

 一階にはなにもなく、二階がラフォーレ、三階がダーツバー、四階と五階には、それこそあちらを慰めてくれる可能性のありそうな胡散うさん臭いマッサージ店が入っており、蓋を開ければやはり新橋らしいなと半笑いを浮かべた。

 

 十八時五十七分。ひとつ深呼吸をしてから、エレベーターで二階へと上がった。

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