第10話「邁進の光明」

 二階に上がると、私はすぐさま喫驚きっきょうした。

 入り口の透明な扉には"Cafe & Bar Lounge La Forêt"という文字と営業時間がプリントされており、扉越しに中の様子が飛び込んできた。

 天井に設置されたいくつもの丸い照明が白の光を放ち、部屋全体を絶妙な明るさで覆っている。


 いや、明るいのは照明のせいだけではなかった。

 部屋そのものが期待、快楽、前進、希望、笑顔など、この世のあらゆるポジティヴな概念の欠片を備え、それらが結合して高次元の光をまとっているように思えた。扉越しですでにこれでは中に入ればどうなってしまうのだろうと、陶然として数秒立ち止まる。


「おっ池原さん、いらっしゃ~い!」


 意を決して中に入ると、キッチンに立っていた店長の中川なかがわさんが迎えてくれた。

 彼は私より三歳上というだけの若さながら、逃げてばかりの私と異なり大変に驥足きそくばしていた。言語を絶するほどの行動力や対人能力の高さを武器に、こうして自身で店舗経営を始めて今年で八年目になる。聞き慣れた声と見慣れた笑顔が、一年ぶりに脳を揺らした。


「こんばんは。お久しぶりです」

 頬を緩めて答え、その後、カウンターに座っていた小森にも笑みを向けた。


「お久しぶりです、悦弥さん!」

「お久しぶり。待たせて申し訳ない」

「いえいえ全然! まだ七時前ですし」


 このふたりの明るさと快活さが揃うと場はこうも眩しくなるのかと、先ほど感じた異様なほどの明るさに納得した。小森に中川店長、それぞれの明るさは多少異なるものではあるにせよ、自分には到底所持できない類いのそれを有している彼らを、私は心底から美しいと感じている。羨望せんぼう妬心としんが入り込む隙はごうもなかった。


「すごいなぁ、これは」

 小森の横に立ったまま、思わず感嘆の声をもらす。

 店長のグレイの制服、背もたれのある小ぶりのスツール、グラスラックに逆さにして吊られた数多あまたのワイングラス。どれも、以前は考えられなかった要素だった。

 ラフォーレは、もとより中川店長の人柄の良さと彼の作る料理――店長の料理の腕前は一流シェフも顔負けしそうなほどで、どんなものでも抜群に美味しく作ってしまう――に惹かれて通うようになったので、外観や内観が多少薄汚れていようが気に留めなかったが、店内のあまりの変貌を目の当たりにして、彼が未だ現状に満足することなくさらなる成長をげんとして邁進まいしんしているのだと肌で感じた。


「変わったでしょ? 前は“囲碁将棋喫茶”って名前だけで、全然喫茶らしさなかったからね」

 店長が、自分で言っておいて爆笑する。そういえば私は、この人の笑い方が好きだった。こんなふうに裏も表もなさそうな無雑むざつな笑い方が私にもできたら、もっと違う人生を歩めていたのかもしれない。


「ここなら、仕事帰りに飲みに来たくなっちゃいますね」

 私の職場は御茶ノ水なので、新橋はすぐ近くだ。

「あざっす! 今日はなににしましょか?」

「ん……今はいいかな。一局終わったら注文します」

 ネット碁はごくたまに暇つぶしで打っていたが、対面での対局は一年以上ご無沙汰しているので、酒を入れずに打ちたいと思った。


「あぁ、そっか! 久々にJKジェーケーと打つんすよね! じゃあお茶のほうがいいですねっと。おっちゃっちゃ~♪」

 特に意味のないフレイズを口ずさみながら、店長がお茶の用意を始める。


 小森準之助は、氏名のイニシャルを取ってJKというあだ名で浸透しており、囲碁関連の仲間はたいてい彼のことをそう呼んでいる。私は、でも小森さんもしくは小森くんと苗字でしか呼んだことがない。


「いやぁ、打ちたくねぇ」

 小森がスツールから立ち上がり、苦い笑いを浮かべて言った。

 半分は嘘で、半分は本当だろう。店長が、湯飲みにほうじ茶を入れながら肩を揺らして笑っている。

「およそ三年ぶりか」

「ですねぇ。まさか、今日打つことになるとは思いませんでした」


 通路をはさんでカウンター席の後方にあるテーブル席に移動し、私が奥に、小森が通路側に座った。目の前には厚みのある碁盤と、その上に碁笥ごけが用意されている。どちらも真新しく、おそらく移転に伴い買い替えたのだろう。


「まっ、頑張って。お二人さん。JKはカフェラテでも飲むかい?」

 ほうじ茶を持ってきてくれた店長に、その場で一揖いちゆうする。

「カフェラテいいですねぇ。お願いします」

「ホットでいいかい?」

「はい、ホットで」

 店には私たち以外に客はおらず、静かな時間が流れている。


「じゃあ、ニギってください」

 小森に促され、私は碁笥ごけに右手を入れて白石を適当な個数つかむ。同じタイミングで、彼も碁笥から黒石をつかみ、私に見えないように手の中に隠して盤に置いた。

 

 つかんだ白石を盤上に置き、そのすぐ後に小森も手を離して黒石を見せる。黒を持った人が出してよいのは一個ないし二個と決まっており、彼がつかんだのは一個だった。

 白を持った人は、人差し指と中指で二つずつ右に寄せながらカウントしていく。二、四、六……十二と残り一つで、計十三個。


「当たりですね」

 私がニギった白石の個数を奇数だと予想し、奇数個(一個)をニギった小森が先番(黒番)となった。


「お願いします」

「お願いします」


 互いに頭を下げて挨拶し、小森が初手を打ちおろした。

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