第20話「厄介な概念」

 休日の市ヶ谷はいている。

 千代田区は基本的に住む場所ではなく通う場所であるということを、子どもの時から肌で感じていた。たまに用事で平日に訪れた時と比べて、土日は街を歩く人の数をまるでことにしている。おそらく、ここのエクセルシオールカフェも平日なら今の時間帯は満席に近いのだろうが、席取りをしておく必要などまるでないほどに店内は空席が多かった。


「ご注文お伺いします」

 レジカウンターに行くと、私よりいくつか年下と思しきアルバイトの男性店員が、機械的な口調で対応する。違和感に満ちた定型文は、どこのカフェでも同じらしい。

「こちらのモーニングで、ドリンクはアイスコーヒーのMサイズで」

 メニュウを指しながら、同じく機械的な口調で注文をする。

「はい。四百七十七円です」

 マスクをしていたので、声がこもって聞き取ってもらえないのではないかと懸念していたが、無事に通じたことに安堵する。長財布から野口英世を取り出し、黒のキャッシュトレイにそっと置いた。

「五百二十三円のお返しです。右側で少々お待ち下さい」

 機械的なやり取りとはいえ、せっかくなので女性店員と言葉を交わしたかったなどと瑣末なことを考えながら、受け取った釣り銭を財布にしまった。


 奥のソファータイプの椅子席を選択し、向かいの椅子に鞄を置いて腰かける。相変わらず微熱と全身の倦怠感は持続しており、気を紛らすためにイヤフォンを付けた。WALKMANのおまかせチャンネルから"朝のおすすめ"を選ぶとT-BOLANの『傷だらけを抱きしめて』のサビが流れてきたので、左矢印を一度押して頭から再生させる。この機種のおまかせチャンネルは、なぜか途中から曲が流れる仕様になっている。

 マスクを外し、軽快なドラムとギターサウンドで耳を喜ばせながら、私は朝食を開始した。アイスコーヒーをブラックのままで数口飲み、クロックムッシュにかじりつく。

 クロックムッシュと呼ぶには厚みに欠ける頼りない見た目ではあるが、口に含むとそれは確かにクロックムッシュだった。サクサクとした食感の耳と、ハムとチーズが融合した中心部との華麗なコラボレーションは熟練のわざで、間然かんぜんするところが見当たらない。ヴォリウムはいささか物足りないものの、値段を考えれば妥当だろう。


 食べ終え、鞄から体温計を取り出して脇にはさむ。思いのほか愉快な朝食を味わえて気分は悪くなかったが、熱が上がってやしないかそわそわしていた。

 数値というものは無機質かつ酷烈こくれつで、ひとたび目にしてはそこから先も精神に付きまとう厄介な概念だ。それが大衆に受容されうるロジックかどうかは判然としないが、私の場合はそうである。私は、だから小学時代からテストの点数や順位に執着し、その良し悪しで他人の価値を判断する傾向にあった。そういう考え方をすれば、おそらく世間一般の多くの民は性悪しょうわるな奴だとみなすだろう。点数とや偏差値といった数値を獲得していなくても立派な人間はたくさんいるとのたまうかもしれない。


 囲碁は、しかし数値が真理だ。

 十の三百六十乗という膨大な対局パターン(局面の総数)を有するロマン溢れるゲームではあるものの、最終的には地合い、すなわち目数の多寡たかですべてが決まる。いくら気持ち良く打てたとしても、最後に数値が僅かでも少なければそれまでのプロセスは無に帰する。手元に残るのは敗北という二文字だけだ。健闘したね、などという言葉はただの慰めとしての意味しか持たず、自分は囲碁という範疇において向かい合った相手よりも劣った存在であるという半ば大げさとも言える自暴自棄的な現実に直面し、私の中の矜持がむしばまれていく濁った音に虚しく耳を傾けるしかない。それはなにも囲碁に限らず、大学受験でも資格試験でもテニスの試合でも同じだが、改めて考えると残酷なことである。


 イヤフォンをしていて体温計が鳴る音が聞こえないため、たっぷり時間を置いて実測まで終わったと思われる時間まで待ち、脇から体温計を抜いた。

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