第40話「デリケートな任務」

 ようやく上村との無駄話を終え、四階のトイレに向かった。

 日本棋院の大会ではいつも二階か三階が会場となるが、私は必ず四階(場合によってはそれよりも上階)まで足を運んで用を足す。


 小便器に向かって数人で並んで排尿するということが、幼いころから嫌いだった。排尿というのはデリケートなもので、精神を集中させなければたとえそれなりに催していたとしても満足に放出できないものだ。そんなことはないと半笑いを浮かべる者もいようが、私の場合はそうなのだ。

 隣に別の人間の存在を確認すれば、どうしても気が散ってしまう。集中力を乱されて立ち去るよりなくなり、別のトイレを探すかもしくは個室に逃げ込まねばならないケースがしばしばある。後方に待ち人がいた時などは最悪で、もはや目も当てられない惨事だ。後ろから一杯に視線を感じるのみならず、もし不意に襲われたとしても防御できない無防備きわまりない立ち姿で、なぜに安心して用を足せようか。これまでの二十八年の人生を振り返っても、そうした状況で任務を遂行できた記憶はほとんどない。私は、だから排尿のみの場合でも可能な限り個室を利用している。


 四階は事務所となっており、日本棋院の職員以外はほとんど立ち入ることのないフロアだ。二階で大会が開催される場合、二階のトイレが混雑するからと三階に上がる選手はいれども、その上まで足を運ぶ人はそうそういない。事務所の職員も日曜日にはほとんどいないため、安心して小便器で用を足した。


 十三時五十八分。あと二分で三回戦開始時刻だが、先ほどスタッフたちの様子を窺ったところでは準備に時間が掛かっている模様で、恐らく若干の遅れが生じるだろう。十四時を少し過ぎたところで問題はない。

 この静寂に包まれた四階で気分転換をはかろうと思い、鞄からWALKMANを取り出す。ZYYGの『So What?』は、今の気分にぴったりの楽曲だ。二十年近くも前の話を今さら縷々るるとして語る上村には、まさしく“So What?”と投げ掛けたくなる。イヤフォンをつけ、壁にもたれて目を閉じる。

 

 確かに私と上村は敵対的な関係にあったが、そもそもクラスの中に味方など存在しなかった当時、私は彼のことなど歯牙にもかけていなかった。ただ単に鬱陶しい奴としか感じていなかったが、一方で彼の阿附迎合あふげいごう著しく、それでいて生き馬の目を抜くようなクラスでの立ち回りには感心したものだった。学力も運動能力もごく平凡で、他人に追従ついしょうすることでしか自身の価値を発揮できないと理解した上での彼の立ち振る舞いは哀れに違いないが、身の丈をわきまえたものであったのかもしれないとふと思った。

 高山征輝たかやませいきの太く激越げきえつな歌声に刺激され、後半戦こそ白星を獲得しようという気概が湧いてきた。ロキソニンが効いているらしく、頭痛も身体の怠さも落ち着いている。


 一曲聴き終え、目を開き、WALKMANを鞄に戻す。

 十四時三分。私は足早に階段を降りた。

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