第41話「嘘にはできない過去」

 二階に戻ると、選手たちはまだ待機していた。スーツ姿のスタッフたちが慌ただしく連絡を取り合いながら、組み合わせの確認や対局時計の調整などを行っている。


「もうすぐ始まるみたいですよ!」

 組み合わせ表の前で、小森と浅堀が待機していた。

「そうだね。ところで、さっきは見苦しいところを見せてしまって申し訳ない」

 上村の代わりに、先ほどの無益なやり取りによりせっかくの休憩時間を不快なものとしたことを詫びた。

「いやいや、池原さんのせいじゃないっすよ。あいつが勝手に喋って、勝手に熱くなってただけだし」

 浅堀が、いつもの落ち着いた調子で私をかばう。

「そうですよ、悦弥さん悪くないですから。なんでこんなところまで来て、小学生の時の話なんてするんですかねー」

「どうせ、あいつの出任せだろ。もしくはだいぶ誇張して言ってるか。逆恨みしてんだよ、きっと」

「ですよねー。悦弥さん頭良いから、嫉妬してたんですよ。そうですよね?」

 小森が、そう信じて疑わないという目をこちらに向ける。彼は、どうしてこんなにも濁りのない反応ができるのだろう。

 どう答えて良いものか、私は返答に窮してしまった。予定時刻より十分ほど遅れて、スタッフが声を張り上げて準備完了のアナウンスをしている。


「悦弥さん……?」

「上村の話は本当だよ。あいつは、嘘は言ってない」

「えっ?」

「僕は、そういう人間なんだ。それは、たぶん今でも変わらない」

「いや、そんな……」

 普段は冷静な浅堀も、さすがに困惑した様子である。

「そろそろか。ごめん、行こう」


 話をそらすように、彼らより一歩先に対局場へ向かった。


 * *


「六、六、五」

 相手チーム"三菱商事囲碁研究会"の主将の六十代と思われる男が、ぶっきらぼうな口調で言った。

「六段、六段、四段です」

 男の口調に若干の苛立ちを覚えつつも、普段と同じ調子で返答する。


 三菱商事囲碁研究会。ろくに就職活動をしなかったがゆえに企業名に疎い私でも知っている一流商社だ。とりあえず、IQの高さではチーム全体で中押し負けである。

 小森は法政大学の文学部卒、浅堀は確か成城大学の経済学部卒と言っていた。どちらもそれなりのレベルの大学ではあるものの、三菱商事の内定を獲得するには早慶上智程度のブランドが最低用件であろう。


 いつものように、机の端のスペースで対局カードの記入しながらふと前方を見ると、男は碁盤に対局カードを置いて記入していた。その上、あろうことか碁盤の中心部で、堂々とペンを動かしている。

 無意識的についやってしまった、というわけではなく、常日頃から当然のごとく行っているに違いないと推測するよりない光景だった。注意すべきかどうか数秒逡巡している間に男の作業が終わり、私も急いで記入する。ただでさえ全体の進行が遅れているので、対局終了後にさりげなく指摘するほうがよいだろうと考えて保留した。


 小森と浅堀のほうを見ると、二回戦までと比べて心なしか表情が硬いように感じられた。

 相手チームの名前に怖気おじけ付いたわけではなく、先ほどの会話での私の反応と返答が、彼らの胸中にえも言われぬわだかまりを残したに違いない。大事な対局前に、仲間の不安を煽るような言動をとるなど主将失格だ。上村が言っていたことは過度な脚色がなされたでたらめだと、いつもの半笑いで答えていれば無難だった。

 それでも、私は嘘をつけなかった。


 上村の発言の数々は、多少の誇張や隠蔽いんぺいがあるものの確かに事実であり、それを否定することは、すなわち過去の自分自身をも否定することになるからだ。

 こんなことを言えば、普通の感性を持った人ならわらうだろう。しかし、私はあの一年間、生半可な気持ちでクラスから排斥されていたわけではなかった。耐えて耐えて耐え忍んで、自分なりの正義を掲げて闘っていた。その果てにあったものが人生への絶望や生きる活力の減退であったとしても、たとえキチガイと言われようとも、あの凄絶な辛苦しんくの日々をなかったことにすることだけはどうしてもできない。今の私を形成するのは過去の私に他ならず、恥ずべき怠惰も誇るべき情熱も、すべて引っくるめてかけがえのない私の一部だ。


 ニギリの結果、私は白番、小森は黒番となった。

 いつものように対局時計を碁盤の右側に配置し、GARNET CROWの扇子を左手に握る。


「よろしくお願いします」

「よろしく」

 男の挨拶は大方の予想どおりぶっきらぼうなものだったが、挨拶があっただけましと思い、私は対局時計をそっと押した。


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