第45話「あのころとは違う」

 結局、中盤で予想外の攻めを喰らって以降、形勢が好転することはなかった。

 それなりに粘ってみるも、失敗。時計を叩く荒々しさとは対照的に、男の着手は終始冷静だった。絵に描いたような完敗だ。


「つまらない碁だったな」

「えっ?」

 投了後、どう反応してよいか迷っていると、男のほうが先に口を開いた。

 その台詞は全くもって予想の埒外らちがいで、思わず聞き返す。


「自分の実力に自信のない人ほど、奇をてらったことをするんだよな。キミのように」

 嘆息まじりに、男は面倒くさそうな顔をして言った。

「別に、自信がないわけではないんですが」

 更なる罵倒を受けるとわかっていたが、黙りこくっているのも居心地が悪く、反論する。

「そんなことはどうでもいいんだよ。優勝のかかった最終局の前に熱くなれる碁を打ちたかったのに、興醒めもいいとこだ。大方、こっちがミスするのを期待してああいう布石を打っているんだろうが、考え方が虚しいというか卑しいというか」

 

 卑しいのはどちらだ。毎度毎度、必要以上に対局時計をぶっ叩くほうが、よほど品のない振る舞いではないだろうか。浅堀の対局相手にも抱いた感情を、私は再度呼び起こした。

 しかし、男の言うこともあながち的外れとは言えなかった。自分の実力に自信がないからあの打ち方をしているというのは的外れだが、ミスを期待しているという点は正しかった。

 私の碁のスタンスは、基本的には “相手の悪手を待つ” ことだ。いや、“相手のミスを期待して打つ” というほうが正確かもしれない。

 何千局、何万局と変則碁を打ってきたが、どれだけ数を重ねても難しいのだ。一目いちもくにもならない可能性のある中央を連打して打って勝つというのは、やはり容易なことではない。未知の世界を目の当たりにして相手が悪手を打ってくれることを大きく期待しているというのは、まさしくその通りだった。


 私は、でもそれが卑しいなどとは思わない。

 囲碁というゲームには、後から悪手を打ったほうがより罪が重くなるという性質がある。それは、普通の布石だろうと変則碁だろうとなんら変わらない。

 自分から好手を放つより、相手からの悪手を待つほうが往々にして簡単だ。特にアマチュアの場合は、自分でも気付かないような細かなミスを量産している可能性が高く、それはこの男とて例外ではなかろう。ミスを待つのもミスを誘うのも、囲碁の性質に則った合理的な考え方だと私は信じている。

 小森や、元院生の関口にさえも認められた私の変則布石を、いや、私の碁の背景にある信念をも否定された気がして、瞋恚しんいのこもった眼差しを男に向けた。


 小学時代に戻ってやろうと思った。

 私だけが味方だったあのころに、捉えどころのない正義を守るために必死だったあのころに。周囲のことなど顧みず、感情をぶちまけてやろうと思った。

 強く握りしめた右手の拳を目前の男の顔面に叩きつけ、その薄汚い口をきけないようにしてやろう。上村と違って細身だが、肉体労働で鍛えた腕力をもってすればその程度のことは容易い。





「そんな言い方ひどいですよ! どんな打ち方しようが、その人の自由じゃないですか!」





 爆発寸前の私を引きとどめたのは、小森だった。

 男は、意表を突かれた様子で彼のほうを見る。


「悦弥さんはこの布石に、誰にも負けない情熱を注いでいるんです。虚しくもなければ卑しくもない。何があってもオンリーワンを貫き通す強い心を持った彼を、僕は尊敬しています。今日はちょっと体調を崩しているので力を発揮できなかった部分があったのかもしれませんが、あなたにとやかく言われる筋合いはありません!」


 小森の雄弁をきいて、私はすっかり毒気どっきを抜かれてしまった。

 あのころと異なり、私には仲間がいる。こうして自分をかばってくれる、自分の正義を認めてくれる仲間が。


 この大会が終われば、また数ヶ月、数年と顔を合わせなくなるかもしれない。こうして共に大会に出場することもないかもしれない。

 それでも、たとえ今日限りのつながりであったとしても、今この瞬間、私に私以外の味方が存在することは紛れもない事実だった。孤独に耐え忍ぶしかなかった小学時代とは違う。それだけで充分ではないか。


「くっ……綺麗事を並べても、結局彼はここまで全敗じゃないか。情熱だかなんだか知らないが、勝たなきゃ意味ないだろ」

 男が、苦い顔をして返答する。

 その言葉はまるで引かれ者の小唄こうたのようで、とても対局に勝利した人間の発言には思えない。


「そうですね。私の力不足でつまらない碁にしてしまい、失礼しました。大変勉強になりました」

 たとえ碁が強かろうと、こんな人間の屑のような男に礼を言う必要などないと思いつつ、形式的な謝罪と感謝の言葉を述べる。

「負けた分際で言うなとお思いになるかと存じますが、何点か気になった点があります」

 そう言うと、男は再度意外そうな顔を見せた。


「まず、碁盤の上でペンを動かすのはマナー違反です。紙ペラの下で、碁盤が痛い痛いと泣いています。次に、対局時計はぶっ叩くものではなく、適度な力で押すものです。時計もまた、痛い痛いと泣いています。最後に、三将の方のように負けて悔しいからといって局後の挨拶もせずにわめき散らしたり、副将の方のように勝ったからといって彼(小森)を往生際の悪い男であるかのように恣意的に見なしたり、また、あなたのように私のことをろくに知りもしないのに棋風や性格を決めつけて罵倒したりするのは、いずれも人としていかがなものかと思います」


 小森のおかげで冷静さを取り戻し、順序立てて忠告をする。


「ぐっ……弱っちいガキが偉そうに……」

 主将の男が呟き、副将と三将の男も言葉にならない声をもらす。


 数秒後、左方向から拍手の音がきこえた。二回戦で対局した東工大OBの主将の青年が、温和な笑みを浮かべながら手を叩いている。

 彼に続いて、ほかの観戦者たちも拍手をし出した。一回戦で対局した年寄り臭い喋り方の少年や、二回戦で上村に敗れて好き放題言われていた男性も、その中にはいた。上村は、いつの間にかいなくなっている。


「ありがとうございました。対局後の排泄がありますので、これで失礼します」

 拍手の波を享受しながら、私は盤上の白石を片付けた。


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