第14話「和敬清寂」

「ありがとうございました!」

 地の計算を終えて勝敗が確定すると、小森が丁寧に頭を下げて挨拶した。


「ありがとうございました」

 私も、同じようにして挨拶を返す。


 礼に始まり礼に終わる。これは囲碁だけに限ったことではないが、対面で行う囲碁や将棋においては特に大切なことだ。勝った時は気持ちのよい態度をするも、敗北すれば悔しさのあまり挨拶が雑になったり、あるいは言い訳じみた検討に走って挨拶をうやむやにするような打ち手も時にはいる。

 そんな中、負けを喫してもこうして堂々たる姿勢を貫ける小森はさすがだと感じる。囲碁インストラクターという立場で数多くの幼い子どもを指導しているのだから当然と言えるが、もし私が今の彼の立場だとしたら、同じように頭を下げられるだろうか。悔しさが先行して取り乱しはしないだろうか。


 いや、できるはずだ。

 これまでの自身の囲碁人生を回顧すると、たとえ誰にどんな負け方をしようとも、挨拶をいとうことはなかった。後輩の井俣に何度やられても、あるいは団体戦で時間切れ負けをした時も、その点が揺らぐことはなかった。後々になって現実逃避に走ることは多々あったが、それはまた別の問題である。


 私は茶道の経験者だ。

 大学時代は囲碁部と掛け持ちで茶道部に所属し、亭主や半東はんとうとして様々な茶席に入ってきた。

 大学を卒業してからは離れているが、礼節の塊のごとき文化を通じて培った"和敬清寂わけいせいじゃく"の精神は、今でもびついてはいないと信じている。


「くぅ~、勝てなかった。やっぱ強いわぁ」

「いやいや、途中白ひどかったね」

「中盤、良い勝負になったと思ったんですが、いかんせん序盤がダメでしたねぇ」

 すっかり冷めてしまったであろうカフェオレの入ったカップを持ちながら、小森がコメントする。

 彼相手に、初めて白星らしい白星をつかんだ。その喜びを垂れ流し過ぎぬよう、私は適度に頬を緩めた。


「おっ、終わった?」

 キッチンのほうを向くと、店長がハイボールのジョッキを手にしてにこやかに笑っている。そういえばこの人は前の店舗でも、こうして平然と酒を飲みながら仕事をしていた。


「負けました! 十七目半差で、完敗です」

「おぉ、さすが池原さん! JK相手に大差じゃないすか」

 ジョッキを手にしたまま、店長が私たちのいる場所までやってきた。


「いえいえ。危なかったです」

「なんか途中、すっげえコウやってたよね」

「あぁ、黒を攻めるつもりで争ってたんですが勘違いで、ただ苦しいだけのコウでしたね」

「なんかよくわかんないけど、とりあえずめちゃめちゃ難しいってことだけはわかった!」

 店長のひと言に、私たちはいっせいに声を出して笑った。


「ちょっと、初手から良いですか?」

 飲み干したカップを置き、小森が言う。


 対局後の感想戦は勝ち負けに関わらず、その一戦から何かを吸収するために非常に重要な行為だ。大会の最中など時間がないときは仕方ないが、できる時には積極的に行うことが上達の近道と言える。

 とはいえ、勝った時にはそれを易々と口に出して良いものか迷うことがある。こちらとしては純粋に対局を振り返って勉強することが目的であったとしても、相手は負けた悔しさから二度と並べ直したくなどなかったり、あるいはこちらが勝利の優越感に浸ろうとしているように感じて嫌な顔をすることもあろう。検討の誘いは、だから勝った時には慎重を期すべきであると私は思う。

 今回もこちらから口を開くつもりはなかったが、小森のほうから提案してくれたのでほっと胸をなで下ろした。


「OK、やりますか」

 応じて、盤上の碁石をいったん碁笥ごけに戻す。

 小森には内緒だが、勝利の記念に後ほど棋譜を記録しておきたいと思っていたため、この場で並べ直せるのはありがたいことだった。幼いころから暗記力だけで学校の勉強を乗り切ってきたと言えるほどに記憶力には一定の自信を有していたが、“アラサー”になってから少しばかり焼きが回ってきたと感じる時もないわけではない。


「あっ店長、ジントニックお願いします」

 対局が終わったので、待望のアルコールタイムの開催を宣言する。

「じゃあ、僕はカルピスソーダで」

 私に続いて、小森も碁石を戻しながらオーダーする。


「ジントニさんとカルピっちゃんね! はいジントニィ~ジントニィ~」


 店長が謎の擬人化でもって軽快に答え、鼻歌を歌いながらキッチンへと戻っていった。

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