第35話「紫電一閃」
自殺手。
ダメ詰めの途中で、私は自らの首を絞める手を打った。
ダメ詰め自体は、互いに損得の発生しない順不同のプロセスだが、留意せねばならない点がひとつだけある。"手入れ"だ。
それまで手のなかった箇所に、将来的にダメが詰まることによって手が発生するというケースが、囲碁では往々にしてある。そのような場合、該当するダメを詰める前にあらかじめ手を入れる(これは終局確認をした後で構わない)か、相手がダメを詰めてリーチがかかった時点で手入れするかのどちらかが必須だ。今回、私は手入れをせずにダメを詰めたため、自ら手のある形を作り出してしまった。
青年は申し訳なさそうな表情で、白の地中にキリを打とうかと逡巡している。
そこに切られると、ダメヅマリのために白の
「負けました」
そう言って、軽く頭を下げた。
「あっ、いや、なんというか……もう終局確認して時計も止めた後なので、手入れて頂いてもと思ったんですが……これじゃあまりに」
私の投了宣言を受け、青年は困惑した様子で話す。
こういうケースはそうしばしば出くわすものではないが、初めてではなかった。
大学三年の団体戦の際、私は逆の立場になった経験がある。秋季関東リーグ初戦、青山学院大学が相手だった。
今回と同様、手入れすべき箇所を忘れて無関係なダメを詰めた際、相手は詰めた瞬間すぐに気付き、見逃してもらえないかと尋ねられた。
「いえ、ダメ詰めの段階だろうと、打ち直しなどあるまじき行為です。私の
私は、再度頭を下げた。
打ち直し、いわゆる"ハガシ"をしないということは、囲碁を打つ際のマナーの中で特に優先して守らねばならないものだ。盤上に置かれ、一度指が離れた石を移動するのは明確なルール違反である。
石を置くというのはそれだけ責任の伴う行為であり、その責任を放棄するというのならば囲碁を打つ資格はない。碁会所の薄汚い年寄り連中や、あるいは大会参加者の中にも時折そういう"ハガシ"をやってのける
「わかりました、ありがとうございました」
青年が、了承して一礼した。私は、対局カードの主将の欄に✕を、副将の欄に○を記入する。
「ひとつだけお願いなのですが」
「はい」
「手を入れていたとして結果がどうだったか、確認させて頂いてもよいでしょうか?」
十中八九勝っているとは思うものの、できることならこの目でしっかりと確かめたい。勝敗はすでについているので、言わば感想戦。そのくらいの要望は許されるところだろう。
「もちろんです、数えましょう! 私も気になりますので」
「ありがとうございます」
白が自殺手を打たなかったと仮定して、私たちは再度ダメ詰め作業をする。全て詰め終え、盤上の死に石を回収し、いよいよ整地。小森たち観戦者も、仮定の結果を確かめんと盤面を注視している。
「五十三ですね」
黒地を数え終えて、目数を声に出して確認する。整地作業は、自分の地ではなく相手の地を整えてカウントするのがルールだ。
「白は、三十、四十……五十四、コミを入れて六十目半です」
「七目半ですか」
「やっぱり、黒負けてましたね。盤面でも足りない」
結果を確認し、青年が苦い笑いを浮かべる。
「最後まで気を抜いてはダメですね。完全に勝ったつもりでいましたが、詰めが甘かったです」
「いえいえとんでもない。布石がものすごくて、うろたえている間にどんどん先行されて完敗でした」
「右下の折衝で、少し白打ちやすくなったような気がしました。自然と地模様ができましたので」
「そうですよねぇ。そこはホント、失敗したなと感じてました。」
「ただこのへん、白ぬるかったですよね。ツケが厳しい踏み込みで、だいぶ追い上げられてしまったように感じてました」
「そのへんはもう必死でした。普通にヨセていては大差で負けなので。ただこれでも七目半なので、力の差がありましたね。参りました」
「いえいえ」
整地した状態のまま、私たちは指さしで盤面の該当箇所を示しながら口頭で感想を述べ合う。
私の物言いは偉そうではないだろうか、相手の気持ちを害しはしないだろうかと少しばかり思いめぐらせながらも、昨日今日碁を始めたわけではあるまいし、上村のような傲慢な態度を取ろうとしても取れるはずはないと早々に結論づけた。
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