半笑いの信念
サンダルウッド
第1話「仮病」
この前の仮病が余計だった。
いくら休みやすく生ぬるい職場とはいえ、さすがに二ヶ月続けて体調不良を理由に欠勤するわけにはいかない。せめて一ヶ月おきだ。三十八度程度の熱であれば、明後日(月曜日)はロキソニンで茶を濁して出勤するよりないだろう。
明日は大事な大会だというのに、私は寝つけずにいた。
勝負事の前日は無意識的に気持ちが
久しぶりの団体戦――しかも、ハンディ戦の中では最もレベルの高いAクラスに主将として出場する――を前にして緊張していたというのは確かにその通りだが、それに加えて一昨日から生じている風邪症状が主たる原因である。
喉の違和感は、
* *
五連勤や六連勤などという、過酷なシフトのただ中だったわけでもなかった。
朝起きて、洗面所で父の整容グッズをぶちまけてしまった。家族三人でそれぞれ物を置くスペイスを定めているのに、彼はしばしばそのルールを無視する。
それ自体は今さら腹を立てるようなことではないものの、およそ五、六センチほどの幅しかないドライパレットに、うがい用のコップ——歯ブラシと歯みがき粉をさしている——とケースに入った固形石鹸なぞ置いたままにしておくものだから、まことに邪魔で仕方ない。
手首が歯ブラシに引っかかったことに気づいたときにはすでに遅く、父のグッズは洗面台に落下した。ステンレスのコップが放つ、がっしゃんという耳障りな音。卵型でプラスティックのケースから中身が飛び出た固形石鹸。それを
それはむろん初めてではないにしろ、しかし久々の災難だった。災難というのは大げさだが、出勤意欲を華麗に
何食わぬ顔をして、行ってきますと母に告げていつもの時間に出発し、いつもどおりに中央線に乗った。着替えの交換日でなかったことが幸いだった。だいたい週に一度か二度、仕事用のポロシャツやズボンを持ち帰って洗濯して代わりに新しいものを持参するルーティーンがあるのだが、今日は該当日ではなかった。
職場の最寄り駅よりもはるか手前の
地上からは、これから学校や仕事へ向かうのであろう男や女たちが、表情乏しくばらばらの歩調でこちらに向かっている。休日を獲得することに決めた私の心は、彼らとは対照的に躍動していた。仕事に行く前であれば嫌みかと思うほどの晴れ模様も、今の私には背中を押してくれているように感じる。
仮病の際に必ず訪れるのが、北口から徒歩一分のところにある“喫茶室ルノアール”だ。
ルノアールは、友人の影響で大学時代から通いつめていたが、ここ最近は年に三、四回ほどの仮病の際や、その友人――
実家暮らしで生活費の不安がないとはいえ、福祉現場職の薄給とあっては節約できるところは節約しなければ、日々の自堕落で気楽な生活が
スマートフォンを開くと、午前七時四十分と表示されている。
いつものように、今日もここで昼ごろまでだらけることになりそうだなと思いながら半笑いを浮かべ、入り口の扉を開いた。
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