第43話「かつての私なら」
「いやぁ、ここひどかったですね。生きてると勘違いしてました」
対局を終えた小森が、いつもと変わらない口調で振り返っている。この男は勝っても負けても爽やかさを絶やさない。私に劣らずの負けず嫌いな性格からすると、こんな負け方はさぞ悔しかろう。悔しさを隠して明るく振る舞う彼の行為を、私は痛々しいとは思わず清々しいと思う。
「そうだね、高段にもなってこんな死活を間違えるようではねぇ。この時点でもう終わりだから、潔く投了して欲しかったな」
対局相手の男の口から出た言葉に、私は耳を疑った。
そんな言い草があるだろうか。確かに絶望的な形勢ではあったようだが、まだ百手もいかないぐらいであろう段階で、最後の望みを賭けて中央の白への攻めを続けた小森の態度は、決してみっともないものではない。第一、こうして潔く負けを認めているではないか。
今すぐ席を立ち、ふざけるなと一喝してやりたかった。
小森はそんな人間ではない。貴様が思うような往生際の悪い男でなければ、文句を垂れられるような行動もとっていないと、
あのころの私は今よりも馬鹿正直で、正義の味方にしかなれなかった。
ここで立ち上がり騒ぎを起こせば、我々のみならず周囲にまで累を及ぼす。何だどうしたと打つ手は止まり、一斉にこちらに注目するだろう。一秒が命運を分けると言っても過言ではない大会において、そのように盛大に水をさすのはこの男以上のマナー違反だ。扇子を持つ左手の握力が強くなる。
「そうですよね、失礼しました。出直してきます」
嗚呼、どこまで礼儀正しいのだろう。適当に聞き流してさっさと石を片付けても良いところを、これではされるがままではないか。抵抗のしようもない状況ではあるが、無駄なことは聞き流すというスキルを小森は持っておくべきだ。そのほうがきっと、浅井との未来もよりいっそう明るいものとなろう。
たっぷり五分ほど時間を費やして放たれた一手は、私の予想外のものであった。打たれてみると、なるほど読みの入った好手のようだ。
今度は、こちらが長考に沈む番だった。辛抱の手を打ち、のちの反撃を期待する。しかし、この辺りでポイントを上げて軌道に乗る算段であった私としては、この我慢は大きな誤算だった。両手に
いったん扇子を置き、ズボンのポケットからハンケチを取り出して手を拭いた。
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