第29話「早打ちの重圧」

 黒の初手、右上隅みぎうわすみ星。


 囲碁は、基本的に盤上のどこに打つことも許される大変に自由度の高いゲームだ。

 しかしプロ棋士の対局を見ていると、初手は星か小目こもくがほとんどで、統計的に言えば九割以上だろう。生活がかかっているプロと比べるとアマチュアは気楽な立場ゆえ、それ以外の着点を選ぶ打ち手も中にはいるが――例えば、五の五を愛用している小森など――、こうした大会で突飛な着手に出る打ち手はそう多くない。この少年は恐らくプロ志望なので、オーソドックスな打ち方で来るだろうという予想はできていた。


 二手目。私は例によって、名前のない奇妙な地点に打った。

 対局相手の子どもが、思わず半笑いを浮かべる。しかしながら動揺することなく、さっさと真面目な顔に戻して三手目で右下隅の星に打ってきた。

 八手目まで、互いに四手ずつ打ち合い、黒が四隅を占め、白は中央に謎の平行四辺形を描く進行になった。

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 先日の対小森戦の布石とはずいぶん異なるが、これも私の得意とする布陣のひとつだ。隣に座る小森がちらりとこちらの盤面に顔を向け、すぐに自身の対局に意識を戻す。私も視線のみを隣に移すと、彼は普段どおりに五の五からの中央志向を採用していた。


 小学生の子どもと大会で当たることは初めてではなく、これまで片手で数えられるほどにはあった。

 一番古い記憶を辿れば、大学二年の三月に出場した朝日アマチュア名人戦の東京予選か。一年ほど前まで二段から三段程度だった棋力は五段程度にまで飛躍しそれなりの自信をつけていたが、小学校低学年と思われる幼い見た目をした少年に、私は赤子の手をひねるかのようにして負かされた。今大会と同じく持ち時間四十分の対局で、彼が消費した時間は僅か六分ほどであった。

 最近は、しかし小学生の打ち手からもそれなりに白星を奪取できるようになっていた。二年、あるいは三年ほど前に名古屋や大阪に遠征して大会に出場した際にも落ち着き払った可愛げのない子どもと対局したが、ともに互先の白番で勝利を収めた。相手はどちらも六段の実力者だったので、伸び盛りの彼らに大人の意地を見せられたことは喜ばしく、自らの自信の創出にもつながった。


 子どもというのはほとんど例外なく着手が早いものだなと、改めて瞠目どうもくする。目の前に座る小学四年生ぐらいの少年も、ここまでほとんどノータイムで着手している。

 そのつもりがなくとも、このように早打ちをされるとどうしてもつられてしまい、十分に考えがまとまらないまま打ち進めてしまいがちである。秒読みがあれば話は別だが、時間切れ負けの対局では持ち時間に大きく差がついてはそれだけでプレッシャーを感じてしまうものだ(そうでもない打ち手もいるかもしれないが、少なくとも私は感じる)。


 本局、序盤で黒の一団を攻める展開となり悪くないと考えていた。

 しかし、隅の攻防の最中、私は軽率な一手を放った。

 少し読んだ上で手になっていると判断したが、程なくして黒の冷静な応手を受け、その判断が誤りであると気付いた。

 よくある"勝手読み"で、もう少し落ち着いて読めば成立しない手であることはわかったはずだ。冷静を保っているつもりでも、少年の着手の早さと、彼から漂う揺るぎない自信のごときオーラに私の心はかき乱されていたらしい。


 その一手は、相手の石を強化し、反対に自分の石を弱体化させる大悪手で、それなりの攻めを見込めた局面は一挙に暗礁あんしょうに乗り上げた。まだ五十手ほどしか進んでいないにも関わらず、すでに持ち時間には十分以上の差が開いている。マスク越しに半笑いを浮かべる余裕もなく、ここからどう立て直すべきか思案しながら盤面を見渡す。

 まだ完全に治まっていない黒の大石たいせきにらみながら、各所でややこしい手を放って攪乱かくらん作戦に出るも、少年の表情は変わらない。形勢は好転するどころか、打てば打つほど絶望的な様相へと変化した。


「負けました」

 アゲハマの黒石をひとつ盤上に置きながら、敗北宣言をした。

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