第23話「期間限定の空気」

 扉の先には、すでに何十人という選手が待機していた。


 囲碁という言葉を聞くと、馴染みのない人は、定年退職して暇をもて余したみすぼらしい老人が、薄汚れた碁会所でタバコの煙を下品に漂わせながら無意味な長考を繰り返している様をイメージするのが一般的であろう。各種大会においても、みすぼらしさやタバコ臭さの有無はさておき、年老いた男をよく目にする。

 しかし、こうした団体戦やあるいは全国大会の出場者を決めるようなハイレベルな個人戦においては、老人よりもむしろ若者のほうが多いのではないかと感じることもあった。


 囲碁はいくつになってからでも始められる娯楽であるとはよく言ったものだが、それでも頭の回転の早い若者のほうが強い傾向にあることは確かだ。それに、そういうハイレベルな大会に出場する若者は高校・大学などで囲碁部に所属して腕を磨いた人が多く――私も一応それに当たるのだが――、また院生(囲碁のプロ養成機関)出身で、プロになるまでには至らなかったいわゆる"元院もといん"も珍しくはない。年寄りが一様に劣るとは言わないにせよ、碁会所で気ままに知り合いとばかり対局している老人たちの黒星が大会で量産されてしまう場合がしばしばあることも頷けよう。

 

 一階を見渡すと、予想どおり若者の姿が多く見られた。

 私と同じく二十代か、または三、四十代ぐらいの人――案の定、九割方は男だ――が中心で、チームメイトらしき人物と会話するか、一人寡黙にうつむいてスマートフォンをいじるかのどちらかに分類できた。


 男臭い、どこか懐かしい空気。大学時代の囲碁部の大会は当然ながら若者だけであったが、その時感じた空気とはまた異なる趣がある。

 社会人になり、学生風の外見をした打ち手に対する若さへの妬心としんと、年老いた打ち手に対する無関心と、老いた男たちから漂う加齢臭とがないまぜになった空気は、而立じりつまであと一年ほどとなった今だからこそ感じる期間限定のものかもしれないとふと思った。


 若者とあたると、年寄りよりも白星を持っていかれる確率が高いことは私とて例外ではなく、だからなるべく当たりたくないと願うのであるが、大会が始まる前のこういう適度な生気を帯びた空気感を私は好ましいと思っていた。

 これから厳しい戦いが始まるのだという確信が、微熱や鼻汁びじゅうにより倦怠感を覚えた身体に活を入れる。ポケットティッシュで鼻をかみながら、ふと男臭い中に同年代の女性を数名発見したものの、残念ながら私好みの器量ではなかった。


 九時三十二分。チームメイトの小森と浅堀を探す。それなりに混雑しているとはいえ、一階のロビイはさして広くないのですぐに見つかるはずだ。

 エレベーターの近くまで行くと、左横のトイレからちょうど浅堀が出てきた。しかし他に人がいたこともあり、彼は私に気付かずに通り過ぎた。

 浅堀は、先ほどセブンイレブンで見かけた関口よりも交流のある囲碁仲間だが小森ほど親しくはなく、できれば彼のほうから気付いて声をかけてほしいと思った。小森を見つけられれば先に合流し、浅堀への声かけは彼に任せられるのだが、そう都合よくはいかないらしい。


 視線の先に目的の相手をとらえていながら手をこまねいているのもばかばかしく、私はひとつ深呼吸をしたのち、浅堀に声をかけることにした。

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