それぞれ

西木皐月

 皐月サツキがドアを叩いてから開けると、そこに居るはずの青年はいなかった。


「…」

「おー、久しぶり? クラならちょっと呼ばれてるけど、すぐ戻るやろ」


 素早く一回転して背を向けようとした皐月を止めるように、そんな声がかけられる。飛鳥アスカは、優等生じみた顔に苦笑を浮かべ、手にしていたノートを閉じた。


「クラとは仲良くできてるみたいやな」

「な…っ」

「俺この頃、クラからさっちゃんがどうしたさっちゃんが、って、聞かされる話の大半がのろけなんやんなあ」


 にやりと、人の悪い笑みを浮かべる。皐月は、顔が赤くなるのを自覚してとっさに伏せた。

 蔵之輔が、受けれてくれることが嬉しい。そのこともあって皐月は、ただ蔵之輔ゾウノスケに甘えている。

 その自覚がある分、もしも飛鳥が言うことが本当であれば――嬉しい、とも思ってしまう。かなり重症だ。


「ま、二人ともが幸せならいいことや」


 からかうような口調で、そんな言葉が落とされる。つい言い返しそうになって顔を上げた皐月は、ふと違和感を覚えた。

 何か――


「眼鏡」

「ん?」

「いや…いい」


 笑顔のまま首を傾げた飛鳥の顔には、細いフレームの眼鏡がかけられている。

 それはいつものことのはずで、だが皐月が違和感を覚えたのは、思い返せば、何かと話をしては蔵之輔と話せとやって来ていたときの飛鳥は、眼鏡を外していたからだった。

 だからどうしたと言われれば困る程度の違和感だ。

 視線を泳がせた皐月は、早く蔵之輔が戻ってくれないかと思いかけ、はたと、居ては訊きづらい質問があることを思い出した。


「引越し、本当にするん?」

「嘘ついてどうする?」

「だって…」


 飛鳥は、あと二月ほど、遭遇が起こって丁度一年がつあたりに、五十崎イカザキ岩代イワシロと一緒にこの建物を出て行く。数人、他に連れて行くと言っていたのにたったの三人で、だ。

 皐月としては、蔵之輔が残ることになって嬉しいとは思う。

 だが、その分、蔵之輔の淋しげな表情を目にするのも多くなったように思う。やはり、分所の形で行き来があるにしても、距離はある。

 何故行かないのかと、皐月には訊けない。

 そんな話を持ち出して蔵之輔の気が変わってしまえば、皐月はまた、置いて行かれてしまう。そのことを止める権利などあるはずもなく、だからできることといえば、そうならないように願い、黙り込むしかない。

 卑怯だと思いながらも、それ以外のすべを思いつかない。

 蔵之輔のそばにいられるだけで嬉しいが、それを決めるのは自分ではないのだと、そう思いだすたびに心もとなくなる。

 だが、だからといって以前やってしまったような、半ば力づくの引き止めができるはずもない。

 切り札と呼べるかもしれない皐月の能力も、濫用のせいか、蔵之輔には利かないと考えた方がいいだろう。

 その前に、そんな方法をとってしまえば、みじめになるだけだ。


「心配せんでも、クラは残るやろ。そのためにわざわざ、臨時に弟子入りしてるんやで、俺」

「…いつの間に」


 このところ、手が空けば蔵之輔のところに入りびたっているという。それなのに皐月はあまり顔を合わせなかった。

 びっくりして目を丸くする皐月に、飛鳥は変わらず笑いかける。


「だって俺、皐月のさっちゃんけとったし」


 言葉を失う皐月を真顔で見つめたかと思うと、にやりと、再び笑った。


「俺彼女おらんのに、見せつけられても悔しいからな」

「何っ、阿呆ッ!」

「あははははは!」


 大笑いする飛鳥を蹴りつけるが、あっさりとかわされてしまう。この男にも、止まれと言ってもあまりかないのだから腹立たしい。

 なおも足を上げたところで、蔵之輔が戻ってきた。慌てて足を下ろす。


「…二人で何してるんや?」

「皐月のさっちゃんに好きって言って怒られた」

「何ッ?!」

「ち、違っ!」


 慌てて否定しようとする皐月の肩が、力任せに引き寄せられる。気付けば、蔵之輔の腕の中にいた。頭に血が上り、言葉を見失う。

 飛鳥は、眼鏡の向こうでにんまりと笑って見せた。


「よーく覚えといてくれよ、俺は、クラもさっちゃんも大好きなんやって。じゃあな」


 ひらりと、手を振って飛鳥が姿を消す。

 残された皐月は、戸惑って蔵之輔を見た。こちらも、困ったように飛鳥の消えた扉を見つめていた。

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