「二度と会えんでもいいんか?!」
夏の大三角をぼんやりと見上げながら、
生活を変えるのはわくわくする反面、
それらをひっくるめて感傷と呼ぶのだろうか。
「…いいんかな」
迷いを言葉に出したら、余計に不安になっただけだった。
大丈夫、と肯定してくれる人もいないのに、うっかり呟くものじゃないとしみじみと実感する。それでなくても、夜の一人歩きというのは妙に心細い。
蔵之輔が引き止めたわけでも、二人がたのんだわけでもない。ただ三人とも、疲れていた。
飛鳥が携帯電話で行く予定だった寺に連絡を入れ、そういえばまだ使えるのかと、そもそも持っていなかった蔵之輔は思ったりもした。
携帯電話は、蔵之輔には必要がなかった。
祖母に不測の事態が起こったときのことを考えて固定電話から切り替えようかとも思ったが、そうすると、電話が鳴ると祖母の身に何かが起こっているような気がして、思い切れずにいるうちに今になった。
決断するのが下手なのだと、今になって気付く。だから実のところ、この決心もいいのかと、未だ迷っている。
飛鳥らと一緒に生きていこうとしてもいいのか。そこまで思い定めてからまた、いつものように弾かれたらつらい。
「よ」
「…よお」
気付かないうちに、目的地についていたらしい。
遭遇前は夜でも
タシロに通うようになってからというもの、蔵之輔は、毎夜この公園に足を運んでいた。そして、少年もそこにいた。公園での雑談は、なんとなく日課に落ち着いていた。
だがそれも――今日で終わりにする。
「俺、明日からは
だからといって、少年に宣言する必要もないのだろうとは思うのだが、約束していたわけではないにしても毎日顔を会わせていたのだから、そのくらいの義理はある気もする。
欠けた月に照らされた少年は、頭からパーカーのフードを被っている。ミリタリージャケットじみたそれはどう見ても冬物で、きっちりと前が閉じられている。
暑くはないのかと思うが、少年はいつも涼しげにしている。酒の匂いを漂わせていたのは初日だけで、それ以降はそんなこともない。
ただ、どこで会った誰だったのかがとんと思い出せない。
相手は蔵之輔の名前も顔も知っていたのだから、知り合いではあるのだろう。今更訊けなくて、実は呼び名に困っている。
「何、それ?」
少年は、夜でただでさえ見分けにくい上にフードの陰になっているが、どうやら笑ったようだった。皮肉気に。
「どっか行くつもり?」
「ああ…家、出るんや。だから、もう…」
「行くって、あの研究所? 近いやん」
あはははと空々しく笑って、少年は蔵之輔の肩を叩いた。
癖なのか、少年はよく体に触れる。だが、それほど馴れ馴れしい感じもなくすぐに離れるから、特に気にしていなかった。
ところが今日はそのまま、痛いくらいに肩を掴む。思わず振り払おうとすると、眼を覗き込まれた。それが驚くほどに近くて、思わず動きが止まる。
「クラは、一匹狼やと思ってた。だから声、かけたのに。クラも、オレを置いて行くん?」
置いていくも何も、少年とはふらりと、どうでもいいような話をするだけで。約束一つしていない。ただ、蔵之輔が夜になんとなく足を運ぶと、少年もいるというだけのことだったはずなのに。
少年には違ったのかと、身を硬くする。瞬きすらしないかのような瞳に、恐怖を感じていた。
「ああ、友達がおるんやった? その妹の、かわいい女の子とか。それなら――行かせるんじゃなかったな」
「何、を」
「クラは、クラとやったら、一人ずつで一緒にやっていけるかと思ったんやけどなあ」
眼を
不意に、顔が近付く。短く、わずかに触れるように唇が重なった。
「はじめっから、こうしとけば良かった? 色仕掛けで、一緒におってって
「何、おま…っ」
呆然と立ち尽くす蔵之輔の前で、少年は、フードを取り、ジャケットを開け放って前をはだけた。
フードから長い髪がこぼれ落ち、薄いタンクトップ一枚の体は、見間違えることもなく、胸が膨らんでいる。
少年――少女は、胸を押し付けるように、蔵之輔に抱きついた。
「なあ、クラ、うんって言って? そうじゃないと――使ってしまう」
「え? は? いや、なっ、何、がっ、えっ?」
自慢ではないが、親しいと言えるほどの友人すらいなかった身だ。彼女がいたはずもない。気が動転して、頭の中は真っ白だ。
ただ、やはりその声は、泣いているように聞こえた。
「クラ」
名を呼ばれ、しがみ付かれ、ふらりとよろめいたときに、蔵之輔の手がズボンのポケットに触れた。
不自然に膨らんでいるのは、恭二に貰った飴と、飛鳥に渡されたバンドが入っているせいだ。
「あの、さ」
おそるおそる下ろした手が触れた肩は、思っていた以上に華奢だった。分厚いジャケット越しでさえ、わかる。
夏にジャケットを着込んでいたのは、それを隠すためだろうか。やはり以前よりも治安は悪くなっていて、だから、押し隠そうとしたのか。
無性に、少女を抱きしめたい衝動に駆られた。
蔵之輔が安穏としていたときに、少女はたった一人だった。蔵之輔は、それに気付こうともしなかった。
そのことが腹立たしく、そして思いがけず、少女がいとおしかった。
「一緒に、来るか? きっとあいつらも受け入れてくれるし、俺も説得するし、な?」
その瞬間の少女の顔を、蔵之輔は表現する言葉を持たない。ただ、近いとすれば――絶望と、恐怖と、諦めと、開き直り。
唐突に、少女は蔵之輔を突き放した。距離を取って、フードを被る。ジャケットも再び、きっちりと閉じられた。
そして、フードの陰になってわかりにくいが、たしかに笑った。
「ありがとう、ばいばい」
くるりと背を向け、駆け出してしまう。深緑のジャケットは、簡単に公園の闇に溶け込む。
「阿呆、追いかけろ!」
「えっ?」
「行けって! 二度と会えんでもいいんか?!」
どこから現れたのか、真っ赤なアロハシャツが叫ぶ。肩を押されて、蔵之輔は一歩よろめいた。
よろめいて、気付くと、走っていた。
名前を訊いておけばよかった、と思う。どれだけ気まずくなろうと、追いかけているのに名前すら呼べないなんて、どんな間抜けだ。
自分の馬鹿さ加減にほとほと嫌気が差したが、落ち込むのは後だ。
小さな児童公園で、昼間なら一目で見渡せる。それなのに今は、闇に
「頼む――待ってくれ! 何やねん、勝手なこと言って勝手にっ、キスして! それで逃げるって何や! なあ!?」
公園の出口で、それ以上どこに向かったかもわからず、叫んだ。
「なんでっ、俺の気持ちは無視かよっ?! 俺だって――」
俺だって。
ほんのついさっきまで男か女かもわからなかったのに、名前すらまだ知らないのに、何が言えるだろう。そう思う。
だが逆に、何も知らないから、どこにも行かないでほしいとも思う。それは、欲張りだろうか。それとも、
それでも、飛鳥に背を押されてではあっても、追いかけたのは蔵之輔だ。
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