「はい、おあがりなさい」

ハルちゃーん、ガーゼーっ」

「はいっ」


 春の「職場」は、二階を使っている診察所に決まった。ただし、治癒力は使わずほぼ使い走りだ。

 免許を持った医者は岩代イワシロと遭遇のときに研修の真っ最中だったという花岡ハナオカだけで手が足りず、軽症はほぼ全て、手伝いの人間に回って来る。

 つまり、春にも。

 その合間に岩代や花岡の必要とする道具を出したり補充をしたりもする。

 くるくると動き回るのにも、この半月ほどでようやく慣れた。忙しい方が気がまぎれる、というのは以前から知っている事実だ。 

 半月近く、二週間ほど、十数日。ここにやって来てまだそう日数がっていないことに、たまにびっくりする。


「おーい、春」

「はーい、って、飛鳥アスカ君? どうかしたん? ケガ?」


 それらしき様子のない飛鳥が戸口に立っているのを見て、春は、不思議に思って首をかしげた。

 飛鳥は特に決まった「職場」があるわけではないようだが、その分、あちこちに出没している、らしい。

 春はこの診察所に慣れるのに手一杯でそれどころではなかったが、そういえば、ここでも見かけた気がする。 

 そこまで考えて、ああ、と声を上げた。


「手伝い?」

「いや、ミヤコの代理」

「京ちゃん?」


 苦笑しながら飛鳥の妹の名前が挙げられ、いよいよ首をかしげる。

 春よりも年下ながらしっかりとしていて頼りきりの美人さんがどうかしたのかと、妹と似ていないようで似ているような飛鳥の顔を見つめると、破顔した。


「ご飯、言わんかったら忘れてるって本当やな」

「あ」


 指し示された先の掛け時計は、正午などとっくに過ぎている。言われてみれば、お腹が空いている…気がする。


「正確には、京の代理で美登利ミドリさんのお使い。俺もまだやから、一緒に」


 実は度が入っていないという眼鏡のレンズの向こうで、眼が優しく笑う。

 飛鳥は春よりは二つほど年下だが、たまに年上だという錯覚に襲われる。それだけ、しっかりとしているのか春が頼りないのか。

 頷きかけた春は、はっと気付き、部屋の中を振り返った。岩代も花岡も、相変わらず忙しそうにしている。


「先に、岩代さんたち…」

「あそこらへんは、合間や交代でもう食べてる。春が一番最後」

「え」


 いつの間に。相変わらず、知らない間に終わっている。


「で、でもじゃあ、うちも何かつまめるもので…」

「センセー、春、休憩入りまーす」

「おー行って来ーい」


 口を挟む間もなく、そんなやりとりが終わってしまう。

 飛鳥は、慌てて撤回しようとした春の肩をつかみ、戸口に向かって押していった。


「え? え、え?」

「手当てする側が倒れるとか、笑えんからなー。手の抜きどころを知らんなら知らんで、休憩くらいしっかり取らんとやってけんぞ」 


 反論しようとしたが言っていることはもっともで、その上、小さいがはっきりと、春の腹が鳴った。こうなると、黙るしかない。

 そのあたりを見極めたのか、飛鳥の手が離れる。ごく自然に、並んで歩く。


「いつも通り京が来るはずやったんやけど、ちょっと計算の合わんところが出たとかでてこずってるらしくって。俺でごめんなー」

「そんなっ、ありがとう」


 考えてみれば、診察所に移ってからというもの、タイミングよく京が昼食に誘いに来てくれていた。偶然だと思っていたが、どうやらわざわざ寄ってくれていたらしい。

 気付くの遅すぎ、と、春は自分で自分に突っ込む。

 飛鳥は明るく笑った。伊達眼鏡だてめがねは少しでも威厳を出そうとして、ということだが、笑うとかわいいのだから効果は薄い気もする。


「ごめん、迷惑ばっかりかけて」


 きょとんと、飛鳥が目を丸くする。


「センセー、かわいい助手が来たって大絶賛やけど?」

「それ、お世辞やから普通に考えて」

「いやいや。京も、春が来てくれてから大分余裕でてきたし。本当、助かってる。ありがとうな」

「京ちゃんに助けてもらってるのはうちの方やし。えっとでも…少しでも役に立ててるんやったら、嬉しいけど…」


 話をしながら、階段を下りて地下の食堂に向かう。

 元々社内食堂だったという場所を、今は美登利が仕切っている。食事は輪番制にしていたらしいのだが、仕事を求めた美登利に対して、住み込みの面々どころか通いの人たちまで、諸手もろてを上げて歓迎した。

 美登利の回復は春よりも早かったほどで、いまだに信じられずにいるが、それを本当に春がやったとすれば、この力を与えてくれた何かにどれだけ感謝をしてもし切れない。

 春の力に関しては、いくつか検査を受けたが、それは健康診断のようなものだということだった。まだいくつか外に検査を受けに行く必要のあるものがあるらしいが、力に関しては、もう少ししたら飛鳥から話すと言っていた。

 それが今日なのか単に言った通りに京の代理なのか、少しそわそわとしてしまう。

 しかしそれも、食堂に入るまでだった。中では、店から持ち出した割烹着を身に着けた美登利が、二人分の食事を用意して待ち構えていた。


「遅い!」

「わー、粗煮あらに! キンピラもあるっ」


 叱るような口調だったが、匂いにつられてそれどころではない。春は思わず、小走りに美登利と料理の元に駆け寄った。

 全く化粧っ気のない美登利は、はっきりとは教えてもらっていないが五十手前といったところだろう。

 張りのある言動はまだまだ若く、ゆるく癖のある髪をひとまとめにして微笑ほほえんでいると、十も二十も若く見える。


「全くもう。ほらほら、落ち着いて。今お茶入れるから。飛鳥君も座り。ほら、一葉カズハ君もこっち来て」

「え」


 入り口近くの端の方に座っていたらしい一葉が、しぶしぶといった感じで立ち上がり、こちらに向かってくる。

 春は、全く気付いていなかった。美登利とご飯しか目に入ってなかったと言ってもいいが、そもそも、入り口からは死角になりやすい場所にいた。

 どうしてそんなところに、と思ったが、どうにも嫌われているらしい春は、あまり気安く声をかけられずにいる。


「なんやイチ、そんな離れたとこで」

「…遅い。早よ食え」

「何か約束、してたん? お茶飲みーって言っても来てくれへんし、飛鳥君待ってるだけ言ってだんまりやから、わたしが何かしたんかと思ったあ」


 一葉の無愛想をものともせず、美登利はほがらかに笑う。

 見習いたいものだと春は思うが、道のりは険しそうだ。今も、にらまれた気がして言葉を飲み込んでしまう。


「先、行っといたらよかったのに」

「……行っとく」

「いや今更…おーいっ」


 呼び止める飛鳥に構わず、すたすたと立ち去ってしまう。

 驚いた春は、美登利から箸を受け取りながら、おろおろと視線を彷徨さまよわせる。嫌われてはいるが、嫌いにはなれないのだから厄介だ。気になってしまう。

 だが飛鳥は、えーと、と短く呟いた後、箸を手に合掌がっしょうした。


「いただきます」

「え。あ。い、いただきます」

「はい、おあがりなさい」


 にこにことした美登利に見守られ、戸惑いながらも飛鳥に続くが、春が一口分のご飯を口に運んでいる間にも、飛鳥の皿は凄い速さで空に近付いていく。

 呆気に取られて春の箸が止まっているうちに、ものの数分で、見事に完食してしまった。

 もう一度、手が合わされる。


「ごちそうさまでした」


 言い終わるなり、手際よく食器を流しに運んでいく。そうして、戸口まで駆けて行く。


「んじゃ俺、行きます。ごちそうさま、おいしかったです」

「ありがとう。…男の子はせわしないなあ。ん? 春ちゃん、お箸、止まってるけど?」   

「え。あ。はい」

「ゆっくり食べ。わたしも、春ちゃんとこうやって話すの久し振りやし」

「そう言えば、そう、かな?」


 運びこまれた日は、お互い疲れているからと、再会してもすぐに別れた。それからは、美登利はもう二、三日休んでいたようだが食堂で働き始め、春は診察所に回った。

 それに加えて検査も立ち込め、美登利はどうかわからないが、春は、疲れて何も考える間もなく眠りについて朝を迎えていた。

 じわりと、今までは違うところに来たのだという実感がく。

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