「もうがっちり王子様ちゃう?」

ハルー、美登利ミドリさーんっ」


 声に驚いて慌てて目元をぬぐい、入り口を見ると、飛鳥アスカが立っていた。


「すみません今日、叔父さ――五十崎イカザキさんが車出すんで、検査受けてきてもらえますか? 一時間もしたらここに降りてくると思います。言うの遅れてすみません」

「あ、そうなん? じゃあ、夕飯の仕込み片付けて行かなあかんな。長くかかる?」

「二、三時間くらい、往復込みでかかると思います。夕飯、九時くらい? 張り紙しときましょうか? 俺らが下手に作ったら、美登利さんのご飯絶賛してる奴らに絞められそうなんで」

「うーん、すぐできるのを仕込んで行くから、八時か…帰り次第すぐでも大丈夫なようにしとくわ」  

「ありがとうございます」


 にっと笑う顔は無邪気そうで、見ていてなごむ。

 春は、二人の会話に口を挟めずご飯に箸をつけた。一口食べると、お腹が空いていたことに気付かされる。


「春、センセーたちには言っとくから、このままここで待っといて」

「――え? い、いいって、悪いし」


 慌てて口の中のものを飲み込んで言うが、飛鳥は、きっぱりと首を振った。


「働きすぎて倒れられた方が困る。何かしたいって言うなら、美登利さん手伝うとかしといて」


 春が言葉に詰まっているうちに、美登利が口を開く。


「飛鳥君。車やったら、場所さえ教えてくれたらわたしが運転して行こか?」

「ああ。ありがたいですけど、ちょっと向こうで話して来なあかんこともあるらしいんです。本当はセンセーが行くとこやけど、代理で五十崎さんが。あ、だから逆に、帰り待たされるかもしれないです」

「そっか…。うん、わかった」

「すみません、二人ともよろしくお願いします」


 ぺこりと頭を下げて、軽い足音で駆けて行く。

 春はそれをぼうっと見送っていたが、美登利に箸、と言われて食事を再開する。食べ始めればやはりおいしくて、夢中になっていると思いがけない方向から攻撃が来た。


「春ちゃん、飛鳥君は苦労しそうやけど、いいんちゃう? 見る眼あるなぁ」

「っ…?!」


 せた。

 無理矢理お茶で飲み込むと、早速下ごしらえを始めている美登利を睨むように見る。


「み、美登利さん!」

「うん? だって、危ないところ助けてくれて見てくれもそこそこで性格いいし、もうがっちり王子様ちゃう?」

「王子様とか、ないって。ないない。白馬に乗った王子様は最近じゃあ博物館の中にしかおらへんやん」


 慌てて、微妙にわけのわからないことを口走る。ああきっと顔は赤い、と、春は目をらした。粗煮の身をほぐしすぎて、かさが増えたようになる。

 美登利は、それを面白そうに眺めていた。口元が、にやにやと笑っている。


「地味でいい人で終わりそうやけど、大切にしてくれるのは確実やんな。ちょっと、ミヤコちゃんとか一葉カズハ君とか恭二キョウジ君とか、うちとどっちが大切?とかなりそうな感じはあるけど」


 戸惑って何も言えずにいると、美登利は春を真っ直ぐに見て、にっこりと笑った。


「なんて言っても、飛鳥君のことよく知らんけど。それにまあ、今は色々大変やし、それどころちゃうかも知れんけど、結局は春ちゃん次第やな。頑張るなら、応援するで」

「だ。だからっ、そういうのは…違う、と、思う…」


 自信無げに、声がしぼんでしまう。

 春自身、助けてもらったときはともかくその後で、まるで少女漫画みたいだったと回想しないではなかった。

 二つ年下とはいえしっかりしているし、頼りにもなる。だが、飛鳥は春をそういった目で見てはいない、とも思う。

 それは、美登利の言うようにそれどころではない状況だからかもしれないが、単に、好みではないからではないか。

 黙り込んだ春を、美登利は優しく見守る。それは今までも幾度もあった光景で、むずがゆさはあるものの、決して居心地は悪くない。


 黙々と食事を終えて、春は美登利を手伝った。

 まるで、半月前までの日常が戻ったようで、安心している自分に気付く。

 そういえば変化は苦手だったと、春はぼんやりと思った。入学式やクラス替えも、新しい環境や出会いにわくわくしないではなかったが、不安の方が大きくて、いっそ学校を休みたい、とまで思ったものだ。

 今は否応いやおうなく変わってしまったが、事前に知らされていればやはり、怖くて立ちすくんだことだろう。


「すみません、お待たせしました」


 どこかのんびりと五十崎が入って来たのは、粗方あらかた仕込が終わった頃だった。お茶にするか食堂の大掃除に着手するかと、美登利が悩みかけた丁度そのときに、見計みはからったかのようにやってきた。

 五十崎は、飛鳥の叔父というだけあって、どこか似た雰囲気を持っていた。ただ、飛鳥よりもかたくなさがあり――それが、春には大人びて見えた。

 春よりも先に美登利が立ち上がり、割烹着かっぽうぎたたむ。


「車は、地下?」

「いえ、一階の駐車場に。検査ばっかりでうんざりするでしょう。移動だけでも減らしたいんですけど、機器を全てここに持って来るのも難しくて。ご迷惑をおかけします」

「一郎君のせいちゃうんやろ? それなら、謝る必要ないわ」


 大人二人の後にひっそりとついて行きながら、春は、溜息を押し潰した。

 一人、場違いな気がして仕方がない。年齢のせいではない。春は、京にも飛鳥にも、一葉や蔵之輔ゾウノスケ、恭二にも及ばない。

 そんなことを考えていたからか、駐車場の近くで飛鳥と一葉を見たときには何故か後ろめたくなった。


「ん、もぐらやめたんか?」

「風あるとこで試してみようってなって。ってもぐらって何やねん」

「地下にばっかこもっとるから」


 話しているのはもっぱら飛鳥と五十崎で、一葉は少し距離を置いて所在無げに立っている。きっと、春もはたから見ればそんな感じだろう、と思う。


「おーいザキーっ」


 頭上からの声に一同が振り仰ぐと、岩代が窓から身を乗り出して手を振っていた。大きな封筒を持っている。


「忘れ物ーっ!」

「あ、まずい、資料。ちょっとすみません、待っといてください」


 慌てて美登利や春に軽く頭を下げて、五十崎は建物に駆け戻って行った。飛鳥が、苦笑して見送る。


「あ。わたしもちょっと戻って来るわ」

「えっ、じゃあうちも」

「いい、火の確認だけ! すぐ戻るから!」


 こちらも慌しく、しかし走るのではなく早足で建物に入る。

 取り残された春がおろおろとしていると、飛鳥と眼が合った。 


「ごめん、邪魔した?」

「いいや。風とか音とか、そういうのに揺らがんようにする練習やったし。イチ、少し休むか?」


 ただ立っているようにしか見えなかった一葉が何かしていたのかと飛鳥の視線を追ってそちらを見ると、気付かなかったがその頭上に、不自然に木の葉が一枚、浮いていた。見間違いかと思ってよく見るが、やはり不自然だ。

 出会いを、思い出す。


「おーい、イチ?」

「っ!」


 よほど集中しているのか、返事がなかったために歩み寄った飛鳥が肩を叩くと、一葉は過剰に反応した。びくりと身を強張こわばらせ、おびえたように目を見開く。ふわりと、頭上に静止していた葉が降って来る。

 ややあって体の強張りの解けた一葉は、顔を蒼褪あおざめさせた。


「ごめっ…!」

「イチ!」


 ぱっと、身をひるがえす。咄嗟とっさに伸ばされた飛鳥の手は、途中で躊躇うように引っ込められた。一葉は、門の外に走り出してしまう。

 立ち尽くす飛鳥と去った一葉を見比べ、春は、思わず飛鳥の肩をつかんだ。


「追いかけな!」


 飛鳥がはっと、夢からめたようなかおで春を見る。頷いて走り出すまで、ほとんど間がなかった。

 何が起きたのか到底理解できていなかったが、一葉を放っておいてはいけないというのだけは確信できた。このまま見過ごせば、二度と会えないような気さえした。

 春も、急いで後を追った。

 ――門を出たところで一度、春の意識は途切れた。

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