「あきらめるつもり全然ないからな?」

 深い海の中から浮上するように、幾重いくえにもつつまれた衣をいでいくように、意識がめていく。

 そのたゆたいが、ハルは好きだった。そのせいで、休みの日にはついつい寝坊ねぼうをしてしまう。

 だが、目覚めた春がいるのは温かな布団の中ではなかった。


「……?」


 肩が痛い。腕が動かせない。床に触れている半身が冷たい。それどころか、ろくに体が動かせない。

 目覚めたばかりでわずかにかすんだ視界に映るのは、ほこりまった床だった。


「なに…? どこ…?」

「おーっと、もう一人のお姫様のお目覚めだー」

「え……?」


 聞き覚えのない男の声が頭の上から降って来た。それと前後して、ざわめきに気付く。人が、たくさんいる。

 何事かとせめて頭を起こそうとしたら、春が動くよりも早く、力任せに体が引き起こされた。つかまれた腕が痛い。

 そうして、春は愕然とした。

 十数人はいる。どれも、春と似たり寄ったりの歳だろう。男ばかりで、どこか崩れた雰囲気を漂わせている。

 春に向く視線はどれも無遠慮で、それだけで舐められたような不快感に陥る。春を取り囲む数人と、少し離れたところにも、何かを囲むように男たちがいた。

 その中心に――飛鳥アスカがいた。縛られて、殴られて、血が出ている。


「飛鳥君っ」


 叫んだ声に、男たちが笑う。

 悪意ばかりがこもったかのようなそれに、心をやすりにかけられた気がした。何一つ理解できないうちに、視界がぼやける。


「君はこっち。俺らと遊ぼうねー?」

「っや、離して!」

「はなしてー、だって」


 げらげらと笑い声に囲まれる。もがくが、つかまれた腕すら振りほどけない。


「…せ、そいつらに、なんかしたら、ぜってぇ、ゆるさねぇ」


 途切れがちな飛鳥の声が聞こえたが、すぐに、男たちのあざけりにき消される。

 声だけでなく、くぐもった音がして、押し殺した唸り声も聞こえる。殴られていると、わかった。

 一人を多数で。それも、ろくに抵抗もできない状態にして。殴る方は、醜く笑っている。


「うっわ、うける。何言ってんのこいつー?」

「何ができるって? てめーはそこで死んで終わるんだよ」

「よーく見ときなよ、お姫様たち。王子様は来ないんだ、って。素直にかわいくしてれば、俺らが王子様になってやってもいいけど?」


 お姫様「たち」。

 ここでようやく、春はかたわらに人が倒れ伏しているのに気付いた。後ろ手に縛られ、体が細かく痙攣けいれんしている。


一葉カズハ君…?!」


 悪夢なら、早くめればいいと思った。

 汚れた床に横向きに倒れている一葉は、服が乱れた様子もなく殴られたようには見えないが、顔色を失って痙攣している。

 一葉にも飛鳥にも、せめて駆け寄りたいと思うのに、捕らえた手が外れない。

 それでも、春はもがくことをやめなかった。次第しだいに、背後に立つ男が苛立いらだっていくのがわかる。

 怖くてたまらないが、抵抗をやめるほうが怖かった。


「っの」


 一瞬、何が起こったのかわからなかった。

 数瞬置いてようやく、殴り飛ばされたのだとわかる。それでも、飛鳥が受けているものとは比べ物にもならないだろうのに、一方的に振るわれた力に、怯えが根付く。


「そー、大人しくしてりゃいんだよ」


 男たちが、笑う。

 一人が、倒れている一葉の髪をつかんで無理矢理顔を上げさせた。紙の様になった顔色に、眼だけが強い意志を失わない。

 それが、男のかんさわったようだった。暴力を振るったようには見えなかったが、一葉の顔がひどゆがむ。


「おーいやめろよ、死んじまうぜー?」

「ま、それもいんじゃね?」

「でも、もう少し遊んでからだろ」


 死体じゃなーと、声がする。下卑げびた笑いが続く。


「あす…か…」


 消え入りそうな声で、男たちには届かなかったかも知れない一葉の声を、春は聞いた。助けを求めたのか、すがろうとしたのか。

 春は、咄嗟に身をよじった。動けなかった体の、呪縛が解ける。痛みなら――怪我や病なら――春には、力があると言った。

 わずかに、腕が触れただけだった。それでも、十分だったのだとわかった。

 男たちの姿が消えた。強く殴られたかのように遠く吹き飛ばされたと、気付いたのは一拍置いてからだった。うめき声に、呆然と視線を向ける。

 残った男たちも似たような状態らしく、しかし春よりも色濃く恐怖を映した眼で、こちらを見る。急に、静寂が訪れた。

 それを打ち破って、聞き慣れない音がした。近くで聞こえる音に怯え、春が周囲をさぐると、拘束していたロープが切れていた。


「…ありがと…ちょっと待って、治すから…っ」


 一葉がどんな力を持っていようと、助けてくれたことは確かだ。

 今も、出会ったときも、飛鳥のついでだったかもしれないが、それだけは間違いがない。春は、怯んだ自分を殴り飛ばしたくなった。

 一葉から返事はなく、代わりかのように、男たちの体が宙に浮いた。いで、どこかへと打ちつけられる、鈍い音がした。


「かっ、一葉君?!」

「…いい、から…あすか…」


 拘束を解き放たれた両腕で頭を抱えながらも、声を絞り出す。

 投げ飛ばされた男たちは呻き声すらたてられない者も多いようだった。これなら、春も自由に動ける。そのためにやったのだと、わかった。

 それでも、もっと自分を大切にするべきだと、もっと穏便なやり方もあったのではないかと、責めそうになるところをこらえる。

 春は、自分がきっと甘いということは知っている。


「わかった。飛鳥君治したら、すぐ、戻るから。待っとって!」


 治すと言っても、何をどうすればいいのかはよくわからない。それでも、一葉に対して少しは助けになったようだったし、美登利ミドリも助けられた。

 きっと大丈夫だと、震えかけた足を、強い足踏みで押し消して飛鳥の元に進む。男たちはほとんどが壁際に倒れているから、障害にはならない。


「飛鳥君!」

「春…ぶじ、か? イチ、は?」


 一葉のおかげでロープこそ取れているが、激しく殴られて血も出ているというのに、立ち上がれもせずにいるというのに、春を見て一番に出てきた言葉がこれだ。

 春は、飛鳥に抱きつくように触れて、肩越しに涙を堪えた。堪えきれずに、幾筋か伝い落ちてしまう。


「…ありがとう、春。もう大丈夫。ありがとうな」


 どのくらいったのか、穏やかな声が聞こえたときには、春はぼんやりとしていた。頭が、優しくでられてる。

 寝起きのように、ぼうっとする。


「春、大丈夫やから。もういい、春が倒れてまう」

「…飛鳥、くん…?」 

「うん。ありがとう、助かった。後は俺がやるから、休み。――春!」


 強く呼ばれ、びくりと体が硬直する。顔を上げると、すぐ間近に飛鳥の顔があった。あざはうっすらと残るにとどまり、れも引いている。頭のもやが晴れる。


「立てるか?」

「え? う、うん、はい、飛鳥君こそ…」

「大丈夫、春のおかげで。――イチ! ありがとう、ごめん! そっち行く!」


 飛鳥に手を引かれ、立ち上がる。戸惑ったまま、横たわったままの一葉のところへと向かう。

 つないでいる手が力強く、もう大丈夫だと、根拠もなく思った。年下の男の子に手を引かれているという、ただそれだけのことだというのに。

 手は、一葉の元へたどり着くと離された。

 片膝をつく飛鳥と並んで一葉を覗き込むと、いくらかは回復したのか、死人のようだった顔色が、少しはましになっている。咄嗟に飛ばした手が、飛鳥につかまれる。


「これでも食べて、ちょっと休んどき」 


 手を開くと、銀色の包装紙のキャラメルが一粒。ぽかんとしていると、包装をいた別の一粒を、一葉の口先にも出現させていた。


「口開けろー。と、触って大丈夫か?」

「…ごめん…」

「何を謝る必要がある。俺こそごめんな、こんな目にわせて」


 がしがしと、飛鳥が一葉の頭を撫でる。キャラメルをほおばった一葉はすがままで、まるで赤ん坊のように見えた。

 どうしよう、と、唐突に春は思った。

 どうしよう、と。

 美登利の冷やかしが大袈裟ではなくなってしまった。そして、少なくとも今は、全くそうは見られていないというのも確実だ。

 ――どうしよう。どうして今ここで、飛鳥が好きだと気付くのか。


「春」

「は、はいぃっ?!」

「…どうかしたか?」

「ううん、なんでも! 何?!」


 飛鳥に驚いたかおをされ、一葉すらも、いつものとがった感じもなく怪訝けげんそうだ。

 春は、眼が回るほどに首を振った。今はそれどころではないし、今でなくても、うかうかと知られたくはないことを、それでどうにか誤魔化そうとする。


「とりあえず…ついて来て」

「はい!」


 軽々と一葉を横抱きに抱え上げた飛鳥について、男たちの倒れている空間から離れる。先回りして扉を開けると、何部屋かに分かれた倉庫の一室とわかった。飛鳥は、そのうちの一室を開けると中に入った。

 がらんとしていて、何もない。ただ、埃だけが積もっている。

 床に一葉をそっと下ろすと、飛鳥は、ジャケットのポケットを探り、キャラメルや飴を取り出し、白いエナメル材のバンドらしい玩具おもちゃの時計もつかみ出した。


「はいこれ、適当に食べて。こっちは、渡すの遅くなったけど発信機付き無線付き時計付き…戦隊のあかし?」

「え?」

「それで、迎えに来てーって言っといて。発信機で場所はわかるはずやから。で、内鍵かけて、俺か基地…えーっと、おじさんとか美登利さんとか、クラやミヤコかも知らんけど、来るまで出んように」

「う、うん、え…飛鳥君は?」

「俺はちょっと、後片付け」


 止めようとしたのだが、絶妙の間合いで、これイチに譲ったってなーと、言葉を挟まれて呑み込んでしまう。

 飛鳥は、脱いだジャケットを床に敷いて一葉の身体をそこに移動させると、春を手招いて部屋を出てしまった。


「鍵かけて」

「あ、はい。…気をつけて」

「うん、ありがとう」 


 足音が遠ざかる。自分で鍵をかけておきながら、追いかけたくなった。ひとつ深呼吸をして、踵を返す。

 部屋の中ほどで、一葉は変わらず横になっていた。


「一葉君、調子どう? しんどいなら、もしかしたら少しでもましになるかも…」

「触んな」


 伸ばした手が、空中で強張る。春は、泣きそうになるのを唇を引き結んで堪えた。

 一葉の敵意の理由はわからなくて戸惑うしわずかに腹立ちも感じるが、ここで泣き出すのは、違う気がした。何故と訊かれても、理由は答えられそうにもないのだが。

 一葉は、春をちらりとも見ないままうずくまっている。その姿はやはり、幼い子どもに見えた。

 一度目を閉じて、深く息をする。思い描くのは、そうなりたい人。美登利の優しい強さが、欲しい。


「一葉君、アメちゃん食べる? 飛鳥君がくれたやつ。それと…ごめん、この時計の使い方って、知らんかな?」


 返事はない。予想はしていたものの落胆もしたが、手渡された白い時計に意識を向ける。

 子どもがつけそうな、玩具の時計に見える。おそるおそるいじると、文字盤がふたのように開いた。

 驚いて見ると、その下に何かわからないが切り替えスイッチがある。これを押せばいいのだろうか、と思いつつ一葉を見るが、かたくなな背が向けられるだけだ。

 そこで不意に、思い出した。


「一葉君。遅くなったけど、ありがとう。二回も助けてもらったのに、ちゃんとお礼言ってなかった」

「…あんたのためちゃう」   

「うん。ついででもおまけでも、一葉君が助けてくれんかったら、ひどいことになってたのはわかるもん。ありがとう。うちにできることがあったら言ってな、ちょっとくらい恩返ししたいから」

「なら、消えて」


 とくん、と、心臓の鳴る音が聞こえた気がした。


「――ごめん。それは、いや


 一葉の無言が重かった。

 皆と仲良くなれるなんて考えるな、と言ったのは誰だっただろう。全ての人間に好かれることなどないと。

 春もそのことはわかっているつもりだったが、悪意も否定も、怖い。それだけは、どうしようもなかった。

 おまけに春は、一葉と仲良くなりたいと思っている自分に気付いていた。好きだと思う人に嫌われるのは、こたえる。

 時計に視線を戻し、スイッチを動かせばいいのかと迷う。そうすれば、本当に、誰かに連絡が取れるのだろうか。 

     

「あんた、飛鳥のこと好きやろ」

「――っ」


 咄嗟に握り締めてしまった時計を、壊したかと慌てて手を開く。無事に見える。

 春は、跳ね上がる胸を押さえて、ぎこちなく一葉を見た。一葉も、春を見ている。睨みつける眼は、何故か、泣き出しそうにも見えた。

 誤魔化せないと、思った。


「…なんで、わかったん…?」


 春自身、自覚したのはつい今しがただというのに。それとも、春が気付くよりもずっとわかりやすく、態度に出ていたのか。

 一葉は、溜息に似た息を吐いた。


「わかった」

「な、何が?!」

「連絡する」


 白い時計を渡すまでもなく、一葉は腕にめた青い同じ型の時計の文字盤の下のスイッチを躊躇なく動かし、短くやり取りをして戻した。


「えっ…と…?」

「俺、人に触られるの嫌いやから、あんま近付かんといて。あんたは嫌いやけど、幸せに育って、幸せそうで、飛鳥のこと好きになって、嫌いやけど、いい奴やろうってのもわかる。傷付きたくないなら、俺には構うな。今日助けられて、借りなんてないし」


 淡々とした声。その内容を完全に理解するのは難しかった。

 それでも、わかることはあった。不思議なくらいにすんなりと、そのことは理解できた。


「一葉君も飛鳥君のこと、好きなんやな」


 するりとこぼれた言葉に、返事はなかった。ただ、一葉が身体を強張らせたのはわかった。「好き」というのはきっと、春と同じ意味で。

 気付けば、春は微笑していた。


「それに、優しい」

「違う」

「ううん、ありがとう。それなら、大丈夫。へこむけど、うん、大丈夫」

「違う! そんな…っ!」

「うち、飛鳥君も、一葉君と仲良くなるのも、あきらめるつもり全然ないからな?」


 かなり場違いだろう状況で、春は、晴れやかな気分になった。ようやく、落ち着ける場所を見つけられたような、温かな気持ちになる。

 そんな状況ではないはずなのに、妙に、嬉しくなってしまった。

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