「それとこれは別やろ!」

 山積みのカロリーメイトの箱を前にして、あるとこにはあるもんやな、と、一葉カズハは不満げに嘆息した。


「よぉ、終わったかー。今日のは、えらいしつこい客やったなー」


 ガレキの山で囲った向こうから、傷んだ長髪を不器用にひとまとめにしたミネ慶介ケイスケが顔を覗かせる。

 ホスト顔なのは、実際、「未知との遭遇」が起こるまでホスト業をしていたせいかもしれない。年齢は、嘘をついていなければ二十三。一葉よりも九つも年上だが、偉ぶらないところが気に入ってつるんでいる。

 気の回る男でもあって、ぬれタオルを寄越してくれた。


「さんきゅ」

「おお。しっかし、何回入れたん、あいつ?」

「数えてないし、どうせ聞いとったんやろ」

「聞いたわけやない、聞こえたんや」


 悪びれた様子もなく、肩をすくめる。

 実際、「遭遇」前から取り壊しの決まっていたこの廃工場は、だだっ広い空間に仕切りがあるわけでもなく、何もかも丸聞こえだ。

 一葉は、全身をぬれタオルでぬぐうと、ようやく服を着た。


「このマットも替え時やな。色んな液でぐちょぐちょ」

「アホ」


 一葉と慶介が、混乱の「遭遇」後の世界を生き抜くすべにしているのは、文字通りに体ひとつだ。

 一言でいえば売春で、ただ、慶介は女限定、一葉は男女どちらでも。現在では金をもらうならともかく払ってまで抱かれたがることはあまりなく、ほとんどが一葉のかせぎといえる。

 「遭遇」の起こった夏に出会って以来、見張りと紹介と実行の不動の比率の分け前を受け取った慶介は、情けないかおで一葉を見た。


「なー、カズー」

「取り分増やせってのは聞かんからな。イヤなら、お前も鞍替えしたらいいやろ。今時、売る女はおっても、買わせてくれ言うのはまずないんやから」

「でーもーなー。何つーか、ほら、な?」


 じろりと、一葉は冷たい視線を向けた。

 慶介がこだわるのが男のプライドか威厳か知らないが、今よりもずっと子どもだった頃から同じようなことをしていた一葉にとっては、こだわる必要がわからない。

 生きていきたいなら、そんなものにしがみつくべきではないだろうに。

 慶介は、しゅんとなってうなだれた。その仕草が叱られた子犬を思わせて、なるほどこうやって女をたぶらかしてきたのかと、一葉は学習した。

 人を観察して色々なものを身に着けるのは今や染みついた習慣で、そこには同情や哀れみはない。

 一葉がそっと手を伸ばすして慶介の頬に触れると、何かを期待した眼が見上げてきた。


「何なら、俺が最初の手ほどきしたろか?」

「わーっ、カンベン!」


 器用に後ろ向きで跳びすさった慶介は、囲い代わりに積み上げたガレキに後頭部を打ち付けて、言葉もなくうずくまった。

 そんな相棒の様子に、一葉は口の端を持ち上げた。だが、全体の表情はさめている。そのせいで、嘲笑にも見えた。

 しかしそれは、笑いに似た、精一杯の一葉の感情の表れだった。

 客引きの愛想笑いやこび、やっている最中の演技は不自由なくできるのだが、普段の一葉はほぼ無表情だった。

 それでもまだ、三ヶ月ほど前、あの夏に母を喪うまでは、いくらか感情めいたものがあったような気がする。


「うー、いってー」

「そこまで俺が嫌いか?」

「それとこれは別やろ!」


 からかい半分の言葉に、こちらも半ば必死で答えた慶介は、ふと、視線をマットの脇にとめた。みつかったか、と、一葉はため息をついた。


「お前、また」


 慶介が拾い上げたのはありふれたコンドームで、未開封だった。しかめっ面に、今度は一葉が肩をすくめる。


「その方が、払いがいい」

「アホ! この状況でエイズにでもなったらしゃれにならんで?!」

「別に、いい。死ぬ理由が見つからんから生きてるだけやし」


 殺気立っているのに何故か泣きそうな目つきで、慶介は睨みつけてくる。一葉は相変わらずの無表情で、それは、夏以来の見慣れた光景だった。

 慶介がほぼ一方的に糾弾し、最後に一葉が謝りの言葉を口にして、どちらも納得はしないものの有耶無耶うやむやに終わる。

 そんな、変わらない繰り返しが始まる――はず、だった。


「ねーねー、俺らと遊ばない?」


 聞き慣れない第三者の声に、ほぼ同時に一葉と慶介が振り返る。

 工場の入り口に、五人ほどの男たちがいた。どれも若く、二十歳前後だろう。小奇麗な格好をしていて、関西弁の中で育った一葉たちにとっては気持ち悪い、と感じてしまう関東弁。

 身なりは悪くないのに崩れた空気をまとう人間には、あの夏以来よく出くわす。

 世界を構成していたはずの基盤がもろくも崩れ去り、しかし、変容した世界は、混沌として野性味をおびた自由の空気もかもし出していた。言ってみれば、弱肉強食の、やった者勝ちの世界。

 彼らからは、その匂いがした。


「そーゆーことやってんでしょ? ほら、俺らお客さんだよ?」

「げ、マジでやんの? あいつら男っしょ」

「いーじゃん一回くらい、ゲテモノ食いっての?」


 好き勝手言う男たちは、平然と二人に歩み寄ってくる。入り口からは距離があるが、所詮は建物の中。何十メートルもあるわけではない。


「カズ、先逃げ」


 慶介の囁きに、一葉は頷かなかった。廃工場の入り口はひとつというわけではなく、背面に走れば外に出られるだろうが、その後はどうするというのか。

 稼いだ食料や日用品、金のほとんどはここにある。この男たちも追ってくるだろうし、日々の栄養状態は、男たちに分がありそうだ。

 一葉は、無言で慶介をうながした。代わりに、声を張り上げる。


「五人で? 順番? まさか、一気にやるつもりちゃうやろな? それに、俺は高いで?」


 まともに対価を払うとも思えなかったが、挑発するように、一葉は言葉を投げつけた。

 男たちが、馬鹿にしたように笑う。一葉は、視線も向けずに慶介を叩いた。

 迷っていたようだが、それで決心したのか、立ち上がり――そこで、ぴたりと動きを止めてしまった。


「え?」


 間の抜けた声が慶介の口からこぼれ落ち、一葉は、呆然とその様子を見詰めた。目が合うと、助けを求めるように揺れていた。

 げらげらと、耳障みみざわりな笑い声が強くなる。一葉は、怒りのあまりに血の気が引くのを感じた。


「――何、した?」

「超能力? 『遭遇』の恩恵、しってるかなー?」


 馬鹿にした声に、しきりとささやかれていた噂を思い出した。

 人体発火とほぼ同時期に、超能力としか呼べない、様々な能力を手にした子どもたち。大人にはおらず、噂では、一番の年長でも二十歳だということだった。

 そしてそれは、時期の一致から、「遭遇」の余波だと言われていた。

 政府も動いてるらしいで。オオヤケにせーへんのは、これ以上混乱させんためやって。いや、俺は、人体実験するためって聞いたで? 違うって、密かに集めて、特殊部隊作ってるんやって。

 到底普通の人間にはできない犯罪も増えているということで、噂は、インフルエンザウイルスのように蔓延まんえんしていた。だが一葉は、それが本当でも力を手にしていない自分には無関係のことと、聞き流していた。

 その力が――この男たちには、そなわっているというのか。


「うわー、生意気そうな目つき。これ、噛み付くって。狂犬注意」

「馬っ鹿、こういうの屈服させる方が燃えるんだって」


 歩み寄ってきた一人が、一葉に手を伸ばした。払いのけると顔をしかめ、後方を見遣った。


「ノリキくーん、やっぱこいつも動けないようにしてよ」

「何だよ、情けねーなー」


 笑いながら、慶介とは違って手入れのされた長髪の男が、一葉を見た。

 一葉は、見えない手で押し付けられるのを感じた。何かに押しつぶされるように、身動きが取れなくなる。それでも一葉は、睨むのをやめなかった。

 そこではじめて、長髪男のうすら笑いが消えた。不愉快そうに、一葉を見すえる。


「はっ、弱い奴ほど吠えるっていうよな」


 ならそれはお前だろうと、一葉は思う。

 力任せで負かされるのには慣れている。自分が弱い自覚はあり、強者の隙間で生きてくることにも慣れていた。

 だが――いい加減にしろと、このときはさすがに頭にきた。

 腕力でやり込められるならともかく、得体の知れない、不意に湧いた力で、これ見よがしに押さえつけるというのは――。

 頭の中が真っ白になった。

 弾け飛んだ思考の余白の後で一葉が我に返ってみると、体の自由が戻っていた。

 男たちは倒れ、血を流している者さえいる。ぎょっとして後方を振り返ると、心なし、青ざめた顔の慶介が立ち竦んでいた。


「お前…何、今の…?」

「…俺…?」

「お前やろ?! あいつら吹っ飛ばして、やったのお前やろ!?」


 言いながら、半ば叫びながら、慶介は後ずさって行く。一葉は、徐々に開いていく距離を、ただただ立ち尽くして見つめていた。


「…なんで」


 ふわと、音もなく瓦礫のひとつが浮いた。いよいよ強張こわばった慶介の顔を、見るともなく見る。


「っ、化け物!」


 放たれた言葉に、何も考えられなかった。逃げろと言ってくれたその人が、化け物とののしる。何よりも雄弁に語る、恐怖に揺らぐ瞳。

 逃げ去った背中はもう見えず、ごとりと音を立て、ガレキが落下した。

 一葉は、ひりつくほどの眼の痛みを感じていた。見開きすぎて、乾いてしまっている。

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