「怪しい者じゃないって言いたいけど」

 一葉カズハの母は、はっきり言ってどうしようもない人だった。

 体を売ることで生計を立て、子どもが生まれると、その子どもにも同じことをさせた。しかし心底どうしようもないのは自分だと、一葉は思う。

 小学生くらいまでに成長すれば逃げようと思えばいくつかの方法はあったはずなのに、結局、好きでもない相手に抱かれ続けることを選んだ。

 多分――母が好きだったのだろうと、思う。

 もしかすると思い込みだったのかもしれないが、一葉はその為に逃げられなかった。離れて暮らすなどと、思いもよらなかった。

 商品価値があったからかもしれないが、暴力を振るわれたことはなく、食事もきちんとさせてもらっていた。優しかった。


 そして、母がいなくなり、ぽかりと開いた穴はどうしようもなく埋められなかった。いっそ、一緒に死のうかと思ったほどだった。

 だが、火の回ったアパートから無傷で逃れ立っていることに気付くと、生きるのも死ぬのも同じような気がした。

 この頃どうにも、死と生の距離がはかりにくくなっている気がする。

 しかし、それなりに気の合っていた相棒も恐れて去ってしまった。

 やはりこれは、死んでしまえということだろうかと、目覚める前のまどろみの中で、一葉は考えた。


「へー、可愛かわいいな、この子」

「うるさくするなよ、ミヤコ」

「うるさいのはお兄やんー、小姑こじゅうとー」

「あほ。ちょっとここ頼む、おじさんたちと話してくる」

「はーい」


 男と女の声だ、と、ぼんやりと一葉は考えた。まだ若い。男の方は声変わりは終わっているだろうが、女の方は、喋り方がまだ子どもっぽい。

 扉を開け閉めするような音がして、男が出て行ったのがわかった。

 やはりぼんやりと、どこだここはと、目を閉じたまま一葉はのろのろとした頭を働かせた。が、慶介ケイスケを見送ったのを最後に、記憶が途切れている。

 考えても仕方がないかと、一葉はまぶたを押し上げた。


「あっ、おはよう! 喉かわいてない? お腹すいてない?」


 眠る一葉の近くに座っていたのは、つやつやとした髪をたらした、何だかかれんな女の子だった。

 日本人形から不気味さを抜いたような容姿で、にっこりと笑顔を向けてくる。


「何…天国、に、見せかけた、地獄?」

「ちょっ、それ、どういうこと?!」

「だってあんた、どう見たって悪魔やろ?」

「寝起きで人に喧嘩売るってのはどういう了見?! 表出ろっ、しばいたるわこのガキ!」


 日本人形は、案外口が悪かった。

 やるか、と体を起こしたら、どれだけ眠っていたものか、めまいがした。しかし、そのくらいで躊躇ちゅうちょするものでもない。

 一葉が立ち上がろうとしたときに――扉が乱暴に開け放たれた。


「アホかお前ら! ミヤコ、こっちはいいからキョウジの当番代われ」

「えー! おにい、横暴!」

「いいから行け。断るなら、おじさんに判断あおぐぞ」

「血の色ミドリー!」


 やかましく叫びながらも、渋々と少女は出て行った。代わりに、腕組みをした仁王立ちの男が残る。

 細いフレームの眼鏡をかけた男は、高校生くらいだろう。硬質の雰囲気も含めて頭が良さそうで、一葉は、わけもなく反感を抱いた。

 小学校すらろくに行っていなかった身としては、頭の良さを前面に持ってくる連中は、嫌味にしか思えない。

 男は、じろりと一葉を見下ろした。


「お前も、無闇に挑発するな。点滴は打ったけど、それだけで回復するもんでもないやろ。今、ゼリーでも持ってくるから寝とけ」

「…あんたら、何。俺を、どうするつもりや」


 眼鏡の向こうで考える間を置いて、眼鏡男は肩をすくめた。


「今は気にするな。とりあえず、体の回復が先。その後でなら、聞きたいだけ聞いて出て行きたいなら出て行けばいい。――ああ、ありがとう」


 最後の言葉は、プラスチックカップとコップを持って来た中学生くらいの少年に向けたものだった。

 男は、少年には笑顔を見せた。なんや笑えるんかと、けわしい顔と視線しか向けられていなかった一葉は思った。使い分けているのが腹立たしい。


「ミヤコに食事当番させるから、少し休んどけ」

「…暴君」

「お前まで言うか」


 笑いながら、眼鏡男は少年の、女の子みたいにつやつやとした髪をかき回した。最後にぽんぽんと、なでるように頭を叩く。やけに親しそうで、一葉は、疎外感を突きつけられた気分になった。

 それは世間全てに対する慣れたものだったが、目の前に突きつけられるとイライラする。


「あんたら、何」


 投げつけた言葉に大げさに少年が反応し、眼鏡男の後ろに、隠れるように身を縮める。かんにさわった。


「裏があるんやろ、とっととさらせや。それとも何か、このゴジセイに、ホドコシくれてやるってか?」


 眼鏡男が、じっとにらんできた。その後ろで、小柄な少年が駆けて行く。逃げたな、と思うと、それが慶介に重なった。

 頭に、血が上った。


「うわあほ!」


 一瞬途切れた意識が戻ると、誰かの体がおおいかぶさっていた。

 自分のものでない臭いがすぐ近くでするのも、ふれた体の熱も、気持ち悪くて嫌悪に吐き気がこみ上げる。

 いつも、抱かれたときも抱いたときも、それを押しやるのに必死だった。

 何も感じないようにしろと言い聞かせてやりすごしても、ふとした瞬間に思い出す感触に、実際に吐いたこともあった。

 だが、いくら胃を空っぽにしても、胃液を吐くしかなくなっても、込み上げる嫌悪感が消えることはなかった。


「放せッ」


 力一杯に突き飛ばそうとしても、体を押さえられている。おまけに、どれだけ寝ていたのか知らないが、体がふらつくほどだ。大して力が込められるわけでもない。

 それでも、一葉は必死だった。

 体中に染み込んだ嫌悪感と、今までは目をそらし続けた恐怖が、そこにはあった。


「ッ!」

「やめっ、頼む、ごめん、俺が悪かった! 頼むから落ち着け! あほ頭出すな、死にたいんか!」

「――…?」


 情けなくも一葉と同じくらいに必死な声に、何かがおかしいと、力がゆるむ。一葉に覆いかぶさった男は気付かず、細い一葉の体を力一杯に抱きしめた。

 苦しい、と思ったのと同じタイミングで、ごとごとと何かが落ちる音がした。おまけに、ぐぅ、とうなる男の声。

 ややあって、一葉は解放された。

 体を起こしたのは、予想通りに眼鏡男だった。頭に手を当てて呻いている。その周囲には、部屋の棚に詰まっていたと思われる本が何冊も、散らばっていた。さっきまではきっちりと収まっていたはずだ。

 しばらくしてようやく、眼鏡男は顔を上げた。まだ半ば一葉にかぶさっている状態だったが、本をふまないように気をつけながら立ち上がる。

 目が合った。少し、うるんでいるのは気のせいだろうか。


「…なんともないな?」


 何が、と一葉はにらみつけた。だが、さっきあまりにも情けない声を聞いたせいか、いくらか力は弱まっていた。

 眼鏡男は、やはり頭をさすりながら、カドかよ、とつぶやいていた。一葉の横たわる寝台の上に落ちていた本をひろい上げ、示す。


「これとか、ぶつけてないな? 悪かった、生意気な口きいとったから気付かんかったけど、不安やな、そりゃ。怪しい者じゃないって言いたいけど、まあちょっと自信ないしなあ」


 そう言いながらごく自然に伸ばされた手に、びくりと、一葉は体を強張こわばらせた。その反応に、眼鏡男はわかりやすく、落ち込んだ。


「ちがっ…さわられるの、嫌いやから」

「そっか。じゃあさっきのも、イヤやったな。ほんま、ごめん」

「…べつに」


 わざわざ言い訳をするのも、否定するのも、一葉には自分で自分の行動がわからなかった。

 まさかこの男に期待しているのかと自問して、考えたくなくなって疑問を投げ出す。そんなもの、裏切られるに決まっている。

 眼鏡男は一瞬さみしげに笑うと、一葉から距離を取って顔をのぞきこんだ。


「ききたいことは山ほどあるやろうし俺らのこと信用出来んやろうけど、少し休んでからにしても遅ないやろ。その状態で逃げても、すぐとっ捕まるやろうし。ゼリーはひっくり返ったけどスポーツドリンクは無事みたいやから、飲んで、もう少し眠っとき」


 そうして、コップを差し出された。ためらいながらも口をつけると、妙に甘ったるい味がした。

 それでも水分を求めていたのか、一葉は一息に飲み干した。そのまま、力尽きたようにまぶたが落ちる。

 薬でも盛ってあったかもしれない――でも、死んでも生きても関係ないやんか。急激に落ちる意識の中で、一葉はそう思った。


「おやすみ」


 声がやけに優しく聞こえたのは、気のせいだったかもしれない。

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