「修行が足りんなあ」

美登利ミドリさん!」     

「わ、ちょっ」      

「美登利さん、美登利さんっ、いかんといて!」       


 突然の人体発火、液体化。無差別のそれで亡くなった人は多く、発火による火事という二次災害に巻き込まれた人も多い。

 正直なところ、ハルは両親の死の覚悟をしている。

 だからこそ一人で生きようとして、それでも唯一頼っていたのが美登利で。

 自分自身の不安も経済事情もあっただろうのに、春をやとい、支えてくれた人。実感のない両親の生死よりも、だから今の春にとっては大事な人。

 春は必死で、思うように動いてくれない体に力を込め、美登利の元へい寄った。泣きながら、その体に触れる。


「美登利さん…!」

「あのー」

「何?!」

「あのな、ちょっと落ちつき? 大丈夫やから、その人」


 意識せず、春は彼をにらみつけていた。切られてあれだけ血が出て、それを、ただ見ただけで何を言うつもりか。気休めにもならない。

 彼は、困ったように頭をかいた。


「体、あったかいやろ?」

「そんなの…っ」

「うーん、あのな? この近くにまだ病院続けてるところがあるから、そこにその人連れて行きたいんや。ああ、大丈夫なのはホンマ。でも、ちょっと血が出すぎてるから…傷口、見てみ?」


 何を、と思いながらつい視線を向けた春は、黒ずんで少しずつ固まりつつある血の塊に、一層の涙がこぼれた。

 いや、と、そればかりが頭の中を回り、美登利の体をつかむ手に力がこもった。


「あー、もう」


 目の前に突然、てのひらが広げられた。

 絶句し、少ししてようやく、それが彼の手だと気付く。

 気づいた途端に盛大な文句を言おうとした春は、目隠しを解くように離れた掌の後ろから、ブラウスをはだけさせた美登利の体が見えることに気付いて逆上した。 


「なにッ」  

「ほら、よく見て。ないやろ、傷。ちゃんと塞がってる」

「――うそ」

「言ったやろ、大丈夫って。わかったら、落ちつき。君のが無茶してる」 


 彼がやったのだろう、荒く血を払われた肌の下には、傷一つない。確かに血は流れていたのに、うっすらとしたあざのような痕が残るだけだ。

 目にしているものが信じられなかったが、注意してみれば、美登利の呼吸も先程よりしっかりとしている。


「よかっ…たぁ…」 


 涙が落ちる。

 ぼたぼたと涙を流す春の頭を、彼が、ねぎらうように撫でてくれた。おかげで余計に、涙が止まらない。

 ――そうしてしばらく泣いて、手のこうで涙をぬぐった春は、お礼を言おうと顔を上げて、硬直した。


「う、後ろッ!」 

「うん?」 


 入り口に背を向ける形になっていた彼の背中目掛けて、春は存在も忘れかけていた少年が、飛ばされたナイフを投げつけたところだった。のんびりと振り向いた彼も、一瞬で顔を強張らせる。

 そこで、信じられないことが起こった。

 ナイフが、空中で静止した。

 まるでそこに、見えない壁があってそれに突き刺さったように。実は空気ではなく水があって瞬時にナイフを閉じ込めたまま凍りついたように。


「あほアスカっ!」

「おー、イチ。ナイス。さんきゅ」


 怒りの形相ぎょうそうで入り口に姿を見せたのは、小学生か中学生くらいの男の子。女の子みたい、と春は思ったが、賢明にもその感想を口にすることはなかった。

 もっとも、驚きすぎて声など出ようがない。

 イチと呼ばれた少年は、喋りながらつかつかと店内に入って来た。真っ直ぐに、アスカと呼んだ彼に向かう。


「ナイスちゃうわボケ! お前っ、あんな連絡で場所わかるか! その上何無駄に死にかけてるんや!?」

「来てくれたやん」

「もっときっちり場所言ったらもっと早よ来れたわ!」

「あー…それは…ごめん?」

「なんで疑問形?!」


 わめきながら、イチは空中に貼り付けられたナイフを無造作につかみ、アスカに手渡した。

 渡されたアスカは、一度首をかしげ、思いついたように青年の腰を探り、さやを探し当てて納めた。もちろん、青年からは引き離す。

 イチはそれらを見届けることなく、少年へと視線をてんじた。

 何故か少年は、ナイフを投げつけたままの体勢で動いていない。ただ、目だけがひどく怯えている。


「なあお前、そのまま干からびて死ぬのと一息に死ぬの、どっちがいい」 


 感情のこもっていない、棒読みに近い声。

 それだけに、本気を感じさせた。酷薄という言葉が、春の頭をよぎった。イチの顔が整っているだけに、凄味がある。


「なあ、どうする」

「はい、そこまで」


 唐突に、音を立てて両手が打ち付けられた音がした。驚きすぎて動悸の激しい春が何事かとアスカを見ると、横顔がにっこりと笑っていた。


「イチ、助けてくれてありがとう。おかげで俺はなんともないんやから、それ以上は何もするなよ?」

「…アスカのアホ」

「はいはい、悪いなアホで。あーもー、泣くな泣くな」

「泣いてへんわっ!」

「はいはいはい」 


 アスカは、立ち尽くすイチに歩み寄ると、あやすようにその頭をでた。

 つまりあれは癖なのかと、春は少しがっかりした。その後で、何故そんなことを思ったのかと自分で自分に戸惑う。

 それよりも、と思考を仕切り直す。

 アスカはおそらく春と同じくらいの年齢だろう。イチはそれよりも年下で、今や武装解除された侵入者たちのように先輩後輩の間柄なのか、兄弟や血縁なのか。後者にしては、あまり似ていない。

 いや――それよりも、そんなことも後回しで。


「美登利さん…大丈夫って、ほんま…?」


 二人が振り返る。イチに睨まれた気がするが、そんなことはどうでもいい。


「…助けて。何でもするから! 美登利さんを、お願い…!」

「うん、大丈夫。それにほとんどは、君がもう助けてるようなもんやし」

「え?」

「ちょっと待ってな、すぐに医者んとこにつれて行くから」


 曖昧に頷いた春に笑いかけて、アスカはジャケットのポケットをさぐった。折りたたみ式の携帯電話を取り出す。


「イチ、クラに連絡頼む。代りに怒られといて」

「はぁ?! なんで俺がっ」

「頼むわ。――あ、もしもし、ゴジューショク? ちょっと説教してほしいのがおるんですけど。――ああ、きはいい思いますよ。俺と同世代くらいで、二人。――うん、がんがん使ったってください。ゴウサツ未遂の現行犯逮捕ですから。――はい。――ええ。じゃあ、フクモトさんに連れて行ってもらいますんで、よろしくお願いします」


 イチにおがむ仕草を見せながら通話を終えたかと思うと、もう次をかけている。


「――もしもーし、フクモトさん? ――忙しいとこすみません、ちょっとお願いします。――ええ? 酷い言いようやなー、俺は何もしてませんって。――はは。いやとにかくですね、みどりって定食屋、わかります? ――そうそう。さすが、地元のおまわりさん。――ほんまのことじゃないですか。――そこでゴウサツ未遂があったんですよ。――捕まえてます。俺と同いくらいの男二人で、ジューショクさんに説教頼んでます。――はい、そういうことで。――はは、すみません。――はい。じゃあ、待ってます」


 話が終わると、今度は携帯電話を折りたたんだ。

 その間に、ぶつぶつと文句を言いながらも、イチはイヤホンのようなもので何か喋っていた。相手はかなりの大声を出しているようで、ところどころ、春にまで声が届いた。

 そうして、アスカの話が終わったと気付くと、イチは、えりを引っ張るような仕草を見せた。


「うー、しゃーないなー。…もしもーし?」

『アスカってめっこんボケナスがっ』 


 髪に隠れていて気付かなかったが、アスカもイチも、片耳にイヤホンをはめていた。今、二人はそれを耳から外している。なるほど、大声を避けるためらしい。

 そこから聞こえてくるのも若い男の声で、友人同士なのか、何者なのかという疑問が、やはりき起こる。


 この夏、世界――日本は、一変した。


 原因不明の人体の発火・液化現象に、当たり前だが人々は混乱した。子どもには少ないが、二十代以上はほぼ、年齢にも性別にも大差はないということだ。

 つまりそれは、ロシアン・ルーレットじみた恐怖を存在させることになった。

 その謎の現象は日本国内でしか起こっていないらしく、そのことが知られて以来、日本は強制的に鎖国状態にある。

 それでも救援物資は届き、インターネットや電話を通じてのやり取りはあり、国内機能もある程度は保たれている。

 そのためか、意外なほどに「日常」は流れていっているが、それでもじわじわと、侵食しているものはある。

 発火をのがれても、この店を襲った二人のように、犯罪にはしったり自殺してしまう者もいる。

 生きびている比率の高い「子ども」はとりわけ、親を失っているものも多く、ストリート・ギャングのように徒党を組むものもあるという。

 その部類だろうか、と、春は麻痺を始めている頭で考えた。


 気付けば、姿の見えない相手との会話は終わり、アスカとイチが話している。話しながらその手は、すみやかに少年を拘束していた。


「疲れるんやから、そんなばかばか使うなよ? お前まで倒れたら、どうやって戻りゃいいんや」

「そんなぎりぎりまで使わへん」

「ほほう、この間のことをもう忘れたと見える。ぼけるには早いはずやけどな?」

「あれは…たまたま」

「修行が足りんなあ、若造」

「二コしか変わらんやろ!」

「うん、俺も若造やからな」


 ふてくされ、怒鳴るように声を荒げたりもするイチに対して、アスカは一貫して落ち着いている。かけた眼鏡のかもし出す印象に加え、貫禄めいた雰囲気がにじみ出ていた。

 春はぽかんと、そんな二人を見詰めていた。ふと、アスカが春に視線を移す。


「えーと、俺はナラヤマアスカ。こっちは、ミサキカズハ。その人は、ミドリさん? 君は?」

「え……中島ナカジマ、春…」

「中島さん、手ぇ出して」


 戸惑いながらも言われた通りにすると、歩み寄ってきたアスカは、春の掌に数個の飴を落とした。不思議に思って見上げた春に、苦笑を返す。


「どうぞ。甘いもの、落ち着くで?」


 柔らかく笑いかけられ、子どものようにこくりと頷いた春は、包装を破いて一粒、口に入れた。

 わかりやすい甘さが、染み入るように体に広がるような気がした。気付くともう一粒、食べている。


「な?」


 屈託なく、アスカは笑いかけてくる。目の位置を同じ高さにして、子どもを怖がらせまいとするかのように。

 そして春は、気がゆるんだことに気付いた。気付いたときには――意識が、遠くなる。


「おっと」


 のんびりとした声と、支えてくれる力強い手。

 その二つを最後に、春の意識は、遠く離れていった。

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