「これ、何かの遊び?」

 人間って案外図太ずぶとかったんやなあ、と、ハルはこの頃つくづく思う。人間というか、日本人というか、自分というか。

 日本を未曾有みぞうの異常事態が襲い、今なお現在進行形だというのに、春は毎日寝て起きてご飯を食べて働いて笑ったりもする。

 異常事態にも慣れるものなのかと、妙なところで感心した日々だ。


美登利ミドリさーん、おはよー」


 夏に両親と連絡が取れなくなって以来働かせてもらっている小さな定食屋。春はいつものように、気安く声をかけながら暖簾のれんをくぐった。


「ごめん今日、寝坊ねぼうして、何か食べてもいいですか?」


 言いながら、電気をつけていないが日光の入りやすい間取りになっている店内の、五組あるテーブルと机をってカウンターにたどり着き、とりあえずいつものようにカウンター裏のエプロンを取ろうとして。

 眼に飛び込んだのは、蘇芳すおうと呼べそうな色。酸化して黒くなった、赤。

 倒れていたのは、いつもなら元気に笑って、時々うるさいと感じてしまうくらいによく喋る人。


「美登利さん!?」


 何なんでッ、と意識せず口走った春は、ころぶように駆け寄った。

 触れて、口の前に手をかざして呼吸があるとわかり、よかった生きてる、と思ってからそんなことを確認しなければならない状況に慄然とした。

 夏以来、それまでと違った意味で命が軽くなっていることは知っている。それでも、えて無視しようとしていたことを目の前に突きつけられた。


「いや…いや! 置いて行かんといて…!」


 右肩から胸にかけてぱっくりと開いた傷口を、気付かず手で押さえていた。手が、熱く濡れた。


「んー? あー、カトーさーんっ、新しいのいるっすよー」


 若い男の声に、春はうつろに顔を上げた。

 カウンター奥の居住空間から、春とあまり年齢が変わらないだろう少年がのぞいている。無気力そうな眼は逆に、無機質な殺意を垣間見せていた。

 春は、理解が追いつかないままに意識を失っている美登利の体を移動させようとした。逃げないと、とそう思うのに、力が入らない上に案外人の体は重い。

 結局、ほんの少し後ずさることしかできなかった。


「おー、女の子。ついてんじゃね?」

「色気ないっすけど?」

「いやー、これくらい育ってりゃ十分。だいたい、ちょっと上いくとほとんど死んでっし」

「まーいいっすけどねー」


 少年と、それよりは年長だろう青年と。部活の先輩後輩のようなノリで、しかし春を見て、無遠慮に笑う。

 たまらなく、こわい。

 一人なら逃げられるかもしれない。だがそれは、今抱えているこの人を見殺しにすることになる。置いていかれるのも、置いていくのも、絶対にいやだった。


「…あんたら、何」


 店内で一番武器として使えるのは包丁だろうが、それは彼らの横の引き出しにある。まさか、出すのを黙って待ってはくれないだろう。


「おーおー。それっくらい元気ないとなー」

「カトーさん、けっこーシュミ悪いっすよね」

「うるせー」


 無造作に伸ばされた手に引きずられ、美登利から引き離されそうになる。必死でその体をつかむと、男はあからさまに機嫌を悪くした。


「ハジ、その死体どっかやって」

「死んでない!」

「いや、死ぬやろ、フツーに」

「っ!」


 咄嗟とっさに手が出た。

 ひっぱたいて、その乾いた音がしたのと同時に我に返る。そのときには、青年に殴られていた。簡単に体が吹っ飛んで、痛みは後からやってきた。

 ――こわい。

 美登利の手を離してしまって、壁に背をつけた春の目の前には、無理矢理怒り顔を笑みに変えたような青年が立っている。逃げようがなく、でも、春は睨みつけた。


「…営業中、じゃ、ない?」


 呑気な声が春の閉めた引き戸を開けて飛び込んできたのは、そのときだった。青年が春をねめつけ、手を伸ばしたその瞬間。

 春も青年も、おそらくは少年も、咄嗟に入り口を見た。

 そこに立つのは、青年と同じくらいの男だった。

 丈夫さが第一だろうジャケットを羽織はおり、少し前までならテレビにあふれていたタレントの青年たちのような、少し長めの髪の毛。

 彼は春と美登利と、男二人を見ると、首をかしげた。


「これ、何かの遊び? 強盗?」

「強盗ッ!」


 思わず叫んだ春の言葉に、ああやっぱり、と頷いて、彼はおもむろにジャケットのポケットをさぐった。

 銃でも出てくるかとなかば期待して半ばおびえた春の予想にはんして、手にしたのは細い黒のフレームの眼鏡だった。

 眼鏡をかけると、少しばかり印象が硬くなる。


「誰か、手ぇ空いとったら来て。同世代の強盗。ミドリって定食屋」


 ぼそりと、つぶやくような声が聞こえた。

 携帯電話を取り出したわけでもなく、一体誰と話しているのか、もしかしてちょっとおかしくなってしまった人なのかと、助けを期待してしまった春は、身を強張こわばらせた。

 だが彼は、すたすたと歩いて春と青年の間に当たり前のようにった。


「立てる?」

「え。あ。え、えっと――」

「てっめ」

「何?」

 

 背後から振りかぶった青年を、彼は振り向きもせずに蹴り飛ばした。その後で、背後を振り返る。春の目には、背中が映った。

 どこにでもいるような高校生のようで、でも、落ち着きようからか頼もしく見える。


「先言っとくけど俺、今の状態に乗って破目はめ外したろーとかいうような奴、嫌いやから。多少荒れるんはわからんでもないけど、やっていいことと悪いこと、あるよな?」 


 淡々とした声を、一体どんな表情で出しているのか春にはわからなかった。だが、男二人の表情と空気が、これ以上ないほどに険悪になったのだけはわかる。


「この頃ようやく、ハローワーク復活したらしいわ。そうでなくても、どっかの学校行ったら、食料の配分とか仕事の手配とかやってる。そこで誰がどこにおるとかもあらかたわかる。必要なら、地図もやろか?」 

「はっ、キョーイクイーンカイゴスイセン、みたいなヤツ」

「へえ、ここでそれが出てくるって結構面白いな、お前」 

「なめんな!」

「…そういうつもりではなかったんやけどなあ」


 肩をすくめ、彼は、つかみ掛ってきた少年を入り口の方に投げ飛ばした。テーブルの一つに落ちて、厭な音を立てる。

 で、と、青年に向き直る。

 

「どうする?」

「…ッ!」


 青年がどこに持っていたのか、ナイフを振りかぶった。うわあ、と、彼が呆れたように声を上げる。そしてこれも淡々と。


「それなら、自分が殺される覚悟もしてるな」

「だまれぇっ!」


 彼は、真っ直ぐに向けられたナイフを持つ手を横から蹴り飛ばし、飛んだ凶器には目もくれず、一歩踏み出し、青年のあごを殴りつけた。

 呆気なく後方に倒れた青年は、更に頭を打ち付けたようだった。


「ああ、無理に起きようとか思うなよ? 頭揺れてるんや、下手したら吐くぞ」


 言いながら彼は、借りるで、と多分春に声をかけ、エプロンを引っ張り出してその紐で青年の手首をしばった。随分と手馴れている。

 彼も新手の強盗なのかと、春が呆然とその様子を見ていると、拘束し終えて立ち上がり、振り返った。


「立てる?」

「あっ、う、うん、はい、っ――!」

「ああ、無理せんとき。疲れてるんや」


 慌てたように、こちらに駆け寄ってくる。その言動があまりにお人よしそうで、春は、安堵して――視界の端に映った美登利の姿で一杯になった。   

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