「生きたかったら協力してくれってところやな」

 眼を開けて、天井がビルやぁと、ハルは思った。

 定食屋「みどり」は、わざとはりを見せた和風の造りで、こんな風にのっぺりとした天井ではなかった。春の住むマンションでもない。そこよりはずっと、天井が高い。だからこそ、ビルだと思った。

 そろりと体を起こすと、細長い部屋に無理矢理パイプベッドが二つ押し込められ、奥の一つに春は寝かされていた。壁のすぐ上が窓で、反対側に少し間を空けてもう一つのベッド。

 その向こうに、小さな机にノートパソコンを置き、マウスを動かしている少女が座っていた。

 いい意味で、日本人形のような少女だった。

 ぐに長い、つやのある黒髪。手入れが面倒とざっくり切ってしまった春とは正反対だ。

 細面の顔も、華奢な体も、うっとりと見入ってしまうほどに「女の子」だ。まだ、中学生くらいだろうか。

 しばらくして、少女は春の方に視線を向けた。ついつい見詰めていたために、しっかりと目が合う。


「あ。ごめんなさい、気付いてたんや。何飲む? 紅茶でいいなら水筒に常備してるけど。いい?」

「はい…?」


 少女はパソコンの横の水筒を取ると、蓋になっているコップに紅茶をそそぎ入れてくれた。湯気と、アールグレイのさわやかな香りが広がる。


「どうぞ」

「ありがとう」

「どういたしまして。ちょっと待っとって、おにい呼んで来る」


 そう言って少女は、身軽に立ち上がった。ふわりと、背にらした髪が広がる。

 が、ドアまで行ったところで小さく声を上げて振り返った。


「ごめんなさい、あたし、ナラヤマミヤコ。詳しいことは今から説明するけど、とりあえず、一緒に運ばれた人も下で休んでるから、後で案内するな」


 待っとって、ともう一度繰り返して、少女は部屋を出て行った。残されて、あたたかな紅茶を手にしたまま、春はしばしほうけた。

 ここは――どこだろう。あの少女は。助けてくれた少年たちは、何者だったのか。


「…美登利ミドリ、さん」


 多分少女が言った「一緒にいた人」は、美登利だ。案内すると言っていたということは、きっと無事ではあるのだろう。

 たまらなく、会いたくなった。

 立ち上がろうとして、体が妙に重く、ベッドに倒れ込んだ。

 いつの間にか飲み干していたために紅茶をぶちまけることは免れたが、気分が悪い。目を閉じても、立ちくらみの強烈版のような眩暈めまいがする。


「うぅ…」

「うわどうした?!」

「おにい、のいて」


 慌てた声と焦ったものと、男女の声がして、手を握られた感触があった。

 ふわりと、風が吹いた。

 ――風?

 ここは室内で、春が眠っていたベッドの脇の窓は閉まっていたはずだった。

 そして何より、春はまだ眼をつぶっているはずだというのに、ベッドの上にいるはずだというのに――花畑が広がり、柔らかな草地に横たわっている。

 春は混乱していた。だが同時に、のどかな光景に、柔らかに降り注ぐ光や温かな風に、心がくつろぐのにも気付く。


「ああ…急に動いて、倒れたんか。あー、良かった」


 ぼんやりとした心地で、春は眼を開けた。開けて、やっぱり眼をつむってたのかと不思議になる。春が眼を開けるのと同時に、花畑は姿を消していた。

 今眼に映るのは、春を見下ろす、眼鏡の少年と日本人形のような少女だった。二人ともが、安堵の表情を浮かべている。


「…ここ、どこ…?」

「株式会社タシロの、研究製作所姫路支部。基本的に玩具メーカーやけど、知ってる?」

「知ってる、けど…」


 何故そんなところに、というもっともな疑問は顔にありありと出ていただろう。少年――アスカと名乗った彼は、穏やかな苦笑を浮かべた。

 再度体を起こそうとすると、ミヤコと名乗っていた少女が、背にクッションを当ててくれた。

 まるで病人のようだと思ったが、先ほどの眩暈に懲りた春には、正直、ありがたかった。

 そう言えばこの二人――ナラヤマ、と名乗った気がする。きょうだいなのだろうか。


「タシロは、夏の『遭遇』以来、対策部署を立てたんや。『遭遇』対策部署、知ってる?」

「ええと…大手の企業が、政府と協力して『遭遇』の原因を探したり、発火を防ごうとしてたりする、っていう、あれ…?」

「うん、それ」


 あまり自信がなくてつっかえつっかえ話すと、アスカは、無表情にしていれば冷たそうにも見えるだろう顔に、人懐ひとなつっこい笑みを浮かべて頷いた。

 横手から、ミヤコが先ほどの紅茶を差し出してくれる。春は、今度はありがたく飲み干した。すぐに、二杯目を注いでくれる。

 ほのかに甘い紅茶で春が喉を潤す間にも、アスカは言葉を続けた。


「正確には、政府との協力って言うよりは、政府と多企業の同盟やな。建前としては、情報は全て共有で政府主導ってことになってる」


 建前ということは、実際は違うのだろう。なんとなく顔をしかめた春に、アスカは肩をすくめて応えた。


「まあ、そのあたりは色々…大人の事情ってやつ? この状況で、実は政府は頼りになりませんって言ったら、余計混乱起きるだけやし。まあ、それはそれとして。タシロもそれに参加してる一つで、ここがその本部。とは言っても、スペースの半分近くは臨時の病院として使ってるんやけどな」


 社長令嬢の勤務地がここで、そして彼女と親しかったアスカとミヤコの叔父(やはりこの二人はきょうだいだったらしい)の友人が個人医をしていたための流れだという。

 個人的なつながりで動くというのは、なんだか子どもの友人付き合いのようで春は首をかしげた。

 それとも世の中、案外そんなものなのだろうか。あるいは、今が非常事態のために原始的なところに戻ってしまっているだけか。

 春のそんな疑問におそらくは気付きもせず、アスカはこの部屋が四階にあり、二階と一階が病院や病室として使われている、三階と四階は基本的にはこの研究所内で暮らす者の居住区だと説明を続けた。

 ちなみに、定食屋の「みどり」からは二キロほど離れているという。最寄り駅を訊くと、なるほどと納得できた。

 それで、二人は何者なのか。ただ単に、従業員の身内というだけにしては雰囲気がある。

 遠回しにそう疑問を口にすると、アスカは、それも予想内とばかりに、落ち着いてうなづいた。


「えーと中島ナカジマさん、『遭遇』について、どのくらい知ってる?」

「どのくらい、って…」


 ある夏の朝、それは起こった。春にしてみれば夏休み第一日目の、それだけで変わらない日だったはずのその日。

 両親の生死すら不明で、奇病か何らかの現象か、それすら説明がついていない。ただ春は、幸か不幸か残る側になったという、そのことだけが確実な現実だった。

 それでも美登利の店で働くようになってからは、いくらか情報は増えた。

 例えば、首都圏では突然の火元に大規模な火事が起こったとか、小規模な村では子どもだけが取り残されてしまったところがあるとか、数は少ないが液化や気化した人もいるだとか。

 そして発火などの現象は、今も続いている。

 そんなことを話してくれた人たちも、時間がつにつれ、減っていった。中途半端に田舎な住宅地ではなく、火事があっても人や資材の多い都市や、自活できる田舎に移り住む人が増えたためだ。

 それらをどうにかこうにかまとめて伝えると、アスカは、小さく唸った。


「あー、そうか、同世代とはあんまり接点がなかったんかー。…噂、聞いたことない?」

「噂?」

「超能力を使うやつらがおるらしい、っての」

「……はぁ?」


 思い切り怪訝けげんそうに顔をしかめた春に、気を悪くするでもなく、アスカは頭をいた。


「遭遇で起きたんは、発火や液化や気化だけ違うかってな。そのー、うん、超能力みたいなのを使えるようになったのもおるんや。――ミヤコ」

「はいはい」


 それまで、アスカと春の話を聞き、時折突っ込んだり補足はしても中心になることはなかったミヤコが、自分の出番とばかりに春の顔をのぞきこんだ。


「な、さっき見た花畑、もう一度見たくない?」

「え」


 何故花畑を見たと――と口にする間もなく、春の視界からアスカの顔もミヤコの顔も、白い平坦な部屋も無機質なパイプベッドも、姿を消した。

 映るのは、一面に咲きほこった花たち。


「海とかもいいかも。今の時期、泳げへんけど」

「てか、幻では泳げんやろ」

「うっさいおにい


 きょうだいの会話は聞こえるが、春が眼にしているのは、人のいない広い海岸だった。


「夕日もいいな」


 一面青だった海辺が、急に暮れて赤く染まる。くれないの光が、今にも水平線に触れようとしていた。

 とても綺麗な光景で、吹いてくる風は、潮風にもかかわらず心地いい。足元のさらさらとした砂の感覚まである。

 だが――そんなはずは、ない。


「何――これ」

「これが、あたしの使えるようになった能力。『遭遇』前は、こんなのなかった」


 今や海辺の風景はき消え、春と手をつないだミヤコが、アスカとそっくりの仕草で肩をすくめていた。

 その隣には、穏やかにあるかなしかの微笑を湛えたアスカがいる。

 春は、まじまじと二人を見詰めた。脳裏の片隅には、さっきまで眼にしていた風景が、くっきりと焼きついている。


「これが一例。まだ、公表はされてないけどな。――タシロは、この超能力もひっくるめて研究してる。多分、根は同じやろうし。ここには能力者は俺たち以外にも二人ほどおるけど、できればもっと欲しいってのが本音や。そこで、協力して欲しい」

「…はい?」


 まさかこの流れは、と、冷や汗が背を伝ったような気がしながら、春は、我ながら強張こわばった顔をかしげた。

 全部夢だったんじゃないか、たちの悪い悪夢じゃないか、というのは、あの夏以来願い続けてきた想いだ。

 そうだったらいいな、と、そんなはずがないか、との、入り混じった感情。今、それが途轍とてつもなく大きくなる。

 だが無慈悲にも、アスカは生真面目な視線を春に向けた。


「美登利さんの傷がふさがってたのは見たやろ。あれが、君の能力や」

「…うそやろ」


 ぽつんとこぼれた呟きを、笑い飛ばしてくれる者はいなかった。

 アスカの視線はどこまでも真っ直ぐで、かたわらのミヤコも真剣そのものだ。ただミヤコからは、いくらか気の毒に思っている気配が感じられた。


「君は、十代の発火が少ないのを疑問に思わんかったか? 俺たちは、一つの仮説を立ててる。おそらく、発火も超能力者も、同じものに引き起こされてる。ただ、十代では、発火するよりも超能力者になる奴が多かったんやろう、と。そう考えれば、発火者の割合と同じだけ、超能力者も生まれてるはずや。そして、その違いを見極められれば、発火で死なせることなく、超能力なんてものは持ってまうけど、生きられる方法も見つけられるかも知らん」


 そこまで言ってから、アスカは、ふっと息を吐いた。春にはそれが、笑ったように感じられた。自嘲の、笑みに。


「実際問題、違いはまだ見つからん。同じもので引き起こされてるってことは、裏を返せば、超能力を持ってる奴ら――俺らが、いつ発火してもおかしくないってことでもある。年齢が問題なら、例えば十年後、俺は発火して死んでるかも知らん。まあつまりは、生きたかったら協力してくれってところやな」


 ちらりと、ミヤコが非難するような表情をひらめかせたが、すぐに消してしまう。天井の高い小部屋は、沈黙に満たされてしまった。

 つばを飲み込んだ春は、その音が二人にも聞こえたような錯覚におちいった。


「で、でも…うちは、違う、そんな…超能力、なんて…」

「体調が戻ったら、美登利さんのところに行けばいい。あの人も、会いたがってる。話を聞けば、切られたはずの傷を治したのが君以外におらんってことはわかるやろ。納得したら、どうするか教えてくれ。ここは、病院も兼ねてる。協力せーへんからすぐ追い出すってことはない。…ただ、どうするにしてもその能力をちゃんと使う訓練だけでも、した方がいい」

「だから、うちは違う!」


 アスカは、怜悧れいりに見える顔で、そのままの印象の視線を寄越よこした。

 これまで、優しい印象が先行していただけに、こわく感じられた。美登利を傷つけた二人に向けられたのは、この顔だったのだろうか。


「君の能力は、自分の生命活動を後回しにしての治癒。使えばそれだけ、体をけずることになる。命をそのまま分け与えてるって考えても、多分、あながち間違いじゃない。今も、身動きするのさえ大変やろ。回復はするけど、一時に多く使ったり体を休めたり栄養を取ったりの対処ができんかったら、下手したら衰弱死もあり得る」

「でも!」

「――悪いミヤコ、あと任せる」

「ん」


 唐突にきっぱりと背を向けたアスカが、それ以上何も言わずに部屋を出ると、ミヤコが、大きく息を吐いた。それだけで、随分と空気が張っていたのだと気付かされる。

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