「お前らに何があったんか、聞かせてくれ」

 その夏は飛鳥にとって、高校生になって初の長期休みだった。

 とりあえず七月末に高校の友人数人との海行きを計画しており、続く八月も目一杯遊ぶ、はずだった。今朝までは。


「どーなってんだかー」


 ぼそりと呟いた声は、風に流れて消えた。まだ朝の八時にもなっていないというのに暑さにしおれた人たちは、誰一人として聞きとがめない。


 奈良山ナラヤマ飛鳥アスカ。昨日で十六歳。


 癖のない黒髪に、どちらかと言えば狐顔。これで眼鏡でもかければ、絵に描いたような優等生(腹黒上等)だが、生憎あいにくと学校の成績は良くはない。

 今通う高校は、市内ではおそらく三番から五番目くらいの偏差値で、合格には家族親戚友人どころか知人にすら、一生分の運を使い果たしたな、と言われた。誰一人、実力とは言ってくれない。

 教師には散々、スポーツに力を入れている私立を勧められた。そこならば、内申書を有効活用できるというのだ。飛鳥は特待生になれるほどではないが、部活や市民大会では好成績を残している。


「っはよーございまーす」


 マウンテンバイクの速度をあまり落とさず曲がり、角に立つ警備員に挨拶を置き去る。既に飛鳥は顔パスで、初老の警備員も、おはよーさん、と、のんびりと声をかけただけだった。

 声を背で聞いて、飛鳥は駐輪用スペースにマウンテンバイクを滑らせる。

 施設内に入ってからはペダルはこいでいなかったとはいえ、まだ勢いのあるマウンテンバイクから体だけ飛び降り、ハンドルを掴んで前輪を空転、後輪を摩擦で止める。

 スタンドを立てると、鍵をかけようと屈みかけて、思い直してやめた。荷物はズボンに突っ込んだ携帯電話くらいで、そのまま歩き出す。


「ようボウズ、どうした朝っぱらから」

「ちょっとなー。おじさん、居ます?」

「ああ、五十崎イカザキ先生なら、いつもみてーにこもっとるわ」

「そ。ありがとーございます」


 いつもなら気楽に笑えるところが、今日は、引きつったような笑みしか浮かばない。警備員が怪訝けげんそうに首を傾げたが、飛鳥は何も言わずに建物に入っていった。

 門の横には、「タシロ(株)姫路支所」のプレートがある。


「おはようございます」


 冷房の効いた空間に、女性の涼やかな挨拶で迎え入れられる。さっきまでの運動で汗の止まらない飛鳥は、しかしぬぐおうともせずに、真っ直ぐに受付に向かった。

 受付に座る事務服の若い女性、田代タシロ恵梨奈エリナに軽く目礼する。


「おはよーございます」

「おはよう、随分早いのね。五十崎さんなら、研究室にいらっしゃいますよ。今日はまだ三日目」

「…ありがと」


 叔父がしょっちゅう仕事場に泊り込むため、三日程度では誰も驚かない。行き過ぎた福利設備の一環として、浴室があるのもそれを助長しているだろう。

 普段なら田代と多少の会話を交わしてから向かうところだが、今日ばかりはそれだけで切り上げてエレベーターホールに向かった。

 目的地は五階建ての最上階で、飛鳥は、エレベーターの位置を示す電光の階数表示を睨みつけると、近くの非常階段に足を向けた。

 足音がいやに響くが、薄い防護壁を隔てた向こうからは、これから仕事を始めようとするかすかなざわめきが感じられた。もっともまだ八時前で、八時半が定時なのだから出社していない者もいるに違いない。


「おじさんっ」


 五階分を一気に駆け上がりそのまま、階の東端にある叔父が若くして主任についている――というよりも叔父しかいないその部屋の扉を開け放つと、そこには、カップラーメンをすするくたびれた男がいた。

 まだ三十にもなっていないというのに妙なところでおじさんらしさが板についているせいで、身なりを整えさせれば結構捨てたものではない外見をしていることにも、気付く者は少ない。

 今時見かけない大きなガラスレンズの向こうで、どこを見ているのかもよくわからない眼が、ややあってようやく、飛鳥に焦点を結んだ。しかし、その片方は、カップラーメンの湯気に曇った眼鏡に阻まれて見えない。実はそちらは、相変わらず違うところを見ているかもしれない。


「…おはよう?」

「なんで疑問形? って、そんなんどうでもいい、おじさん、俺らおかしくなってもた!」

「えーと……お前も食うか?」

「なんでやねん!」


 控えめに軽く示されたカップラーメンの容器を、距離があるのに払いのける仕草しぐさをする。そんな場合じゃないのに、体が勝手に動くのはどうしようもない。

 飛鳥は、はあぁと、魂ごと出て行きそうな盛大な溜息をついた。


「俺も、どう説明したらいいかわからんのやけど。今朝急に、ミヤコが…」


 わけのわからない現状で、まともに取り合ってくれそうなのはこの叔父くらいだというのに、上手く伝えられる自信がなくて、言葉に詰まる。

 飛鳥は、焦って家での出来事を思い返した。どう言葉を並べれば、この現状を正確に伝えられるものか。一歩間違えれば冗談ととられかねないだけに、頭を悩ませる。

 この叔父が飛鳥の発言を、信用できない、と一笑に付すことはないとしても、冗談だと疑うことはありうる。

 だが、どうにか布団に寝かせてきた京のためにも、なんらかの解決法を叔父に見つけ出してもらうしか、飛鳥に残された道はない。


「その…幻覚見せられるようになって…」


 チクショウ要らん軽口ならいつでも待ったなしで出てくるのに、と歯噛みする飛鳥を置いて、着々ともうひとつの事件は起こっていた。


「きゃーッ!!」


 フロア一杯に響き渡る悲鳴。そして、それらと前後して、階下や建物の外、叔父がつけっ放しにしていたテレビなど、あちこちから似たような悲鳴が聞こえた。どれも、極限までに肺を酷使している。

 飛鳥と叔父は、緊迫した眼差しを交し合うと、廊下に近い飛鳥が扉を開け放ち、カップラーメンを置いた叔父がテレビ画面に向き合った。


 廊下に飛び出した飛鳥は、何かから目をらせず、今朝の京のように、窒息しそうになりながら悲鳴をほとばしらせる女性の姿を発見した。その女性の視線の先を追うと、部屋の中から、火柱がよろりと出てくるところだった。

 しばし、金縛りにあったように立ちすくんだ飛鳥はしかし、火柱が床に倒れこむと同時に我を取り戻し、廊下に据えつけられた赤い消火器を引っつかんだ。


「救急車! 電話して!」


 白い消火剤を撒き散らしながらそう叫んだのは、倒れ伏してもなお執拗に燃え盛る火柱が、人を核にしていると知ったためのものだった。

 だが女性は動かず、炎は、消火剤を使い切っても鎮火しなかった。

 飛鳥は、炎に包まれた人がほとんど身動きもしなくなっていると知りながら、開け放されている部屋に入り込み、窓際のカーテンをむしり取った。

 天麩羅てんぷら火災、つまりは揚げ物の最中に油を放置してしまったといった理由で熱の温度が上がりすぎ、炎が生じて火事に至ることがある。

 その際、吹き上がった炎はふたかぶせればどうにかできる。あるいは、厚い布を被せてもいい。炎から空気を切り離せば、とりあえずは収めることができるのだ。

 本当はカーテンを濡らしたいところだが、給湯室は西端で、火柱を折り返し地点にした逆側だ。数十メートルの距離もないとはいえ、今は、それが途轍とてつもなく遠く思えた。


「水! 水持ってきて!」


 がくがくと震える女性に駄目元で声を放ち、飛鳥は躊躇なく、カーテンを広げて炎の塊に抱きついた。

 熱が痛みを伴ってやってきたが、それは既に今朝に経験している。しかも、京のものよりもはるかに弱い。

 無我夢中で押さえつけていると、どのぐらいってからか、水が浴びせられた。始めは何かがぶつかったとしか感じられなかったが、二度、三度と繰り返されるうちに、ようやく気付くことができた。


「飛鳥――」

「…おじさん。何、これ…」


 何度となく水を浴びせられ、強い熱も感じなくなり、濡れて重くなったカーテンの下にあったのは、人の形をした炭だった。まだ、あたたかい。

 信じられない事態に呆然と呟く飛鳥に、叔父は、言葉もなく首を振った。そっと、飛鳥の肩に触れる。


「水島さん。水島さん、悪いけど、総務の萩原課長にここのことを知らせてくれるかな」


 壁際で、燃え尽きた男と飛鳥をなすすべもなく見つめていた女子社員は、叔父の静かな声に弾かれたように立ち上がり、ちらりと飛鳥たちを見て、逃げ出すように駆けて行った。

 それを視線で追って、叔父は、飛鳥の肩に置いた手に力を込め、立ち上がらせた。


「とにかく、着替え。俺の服があるから」

「俺――京、が…」

「京ちゃんにも連絡する」

「あかん! 京、寝てるんや、起こしたら、また幻見る!」


 咄嗟とっさすべり出た言葉に、叔父は一瞬戸惑ったようだが、わかった、と頷いた。


「とりあえず着替え。その後で、お前らに何があったんか、聞かせてくれ」


 実験の最中のような厳しい顔をする叔父をみて、飛鳥は、これで大丈夫と、まだ何一つ終わっていないのに安堵した。

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