「俺にもわからん」
だが、五十崎というのは飛鳥の母、
話は、飛鳥の生まれる前、母の香里が十五歳だった二十二年前の夏にまで
夏休みのある日香里は、天文部の活動からの帰りで、明け方の町内を歩いていた。
送って帰ろうか、との男子部員の申し出もあったが、兄に迎えに来てもらうと突っぱねた。ところがその後で、当時大学一回生の兄は飲み会で潰れて携帯電話に出ても寝言めいた言葉しか発しないことが判明したのだが、後の祭り。
まあいいかと、香里は一人、てくてくと歩いて学校を後にした。普段通学に使っていた自転車は、夏休みに入ってパンクしたままなおしていなかった。
そして香里は、通りがかった児童公園で、真剣な面持ちで水を飲む少年に出くわした。
第一印象は最悪だった、とは、後に香里が語ったものだ。
少年は、香里の視線に気付くと、ぎろりと、当時六歳という年齢には似つかわしくなく、険しい、いっそ縄張りを荒らされた獣じみた敵意のこもった視線を寄越したのだという。
そこで香里が、そそくさと視線を
香里は、自分の半分ほどしか生きていない、それどころか当時では三分の一にも満たない年齢ではないかと思わせるような成長具合の一郎少年に対して、真っ向からメンチを切り返した。
しばし、本来であれば子どもの無邪気な声の響き渡る児童公園に、狼対虎を思わせる気迫の篭った睨み合いが続いた、らしい。
結果として、睨み負けたのは少年だった。ふいと視線を逸らし、無表情のまま水飲みを再開させようとした少年に、香里は勝者の余裕で声をかけた。
「なあ、喉渇いてるん? うちに何か飲みに来る?」
「…ブス」
「ほほぉ。いいやろう、朝ごはんも食べさせたるわ。うちの作るご飯は、テロの域にあるって有名なんや」
自慢にならないことを口走って、香里は見ず知らずの少年を拉致した。
後に語ったところに
ところが、この拉致事件には長い長い後日談がつく。
香里の手料理を食べさせられた少年は気絶し、まさかそこまでの破壊力が、とさすがに慌てた香里が両親を叩き起こし、とりあえず病院に運ぶことになった。
そこで少年の体からは、有り余る虐待の数々が発見されることとなる。体の成長状態も
それから色々な出来事を間に挟み、一郎少年は、十八歳までは養育者が養育費を受けられる保護養育対象として、その後には養子として、五十崎家で暮らすこととなった。
ちなみに、一郎少年が養子になることを長々と
後にそれを知った香里は、一言、「頑固者め」と、自分のことは棚に上げて口にした。
以上が、飛鳥の知る「一郎少年が五十崎一郎になるまで」の概略なのだが、今度ばかりは、飛鳥は母の強引さに感謝した。
これまでにも、血のつながった伯父たち以上に何かと飛鳥と
「一応精神安定剤を出しておくけど、なるべくなら、飲ませないようにしてやれ。お前かザキがいてやるほうが落ち着くだろうし、その方が復帰もしやすいだろう。まあ、それにしたって、度を越すようならいつでも言えよ。無事なカウンセラーを探すからな」
「はい、ありがとうございます。あの…」
「うん?」
いっそ着ない方がましでは、と思える赤黒く変色した血のついた白衣を
あまりに異様な光景なのだが、この一日たらずで大きく変化してしまった世間を考えると、まともかもしれないと思ってしまう自分が恐い。
「ザキ…って、叔父さん、ですか?」
「ん? ああ、五十崎ってのも長いからな。イカ、って呼んだら返事をしてくれなかった」
ザキも嫌がってそうやけどなあ…と
妙な医師は、にやりと笑った。凄味のあるそれは、剣豪のようだった。もっと飛鳥は、剣豪などというものには、生まれてこの方、お目にかかったことはないのだが。
「さすがは、ザキの秘蔵っ子だ。図太い神経をしている」
それは褒め言葉か、と突っ込みかけたがさすがに思い留まった。初対面の上に年上。更には、(多分無料で)診察もしてもらっている。いくらなんでもそれは失礼だと、疲弊しきった理性が訴えた。
医師は気安く飛鳥の肩を叩くと、立ち上がるよう
「今日は泊まってけ。それと、ザキを呼んでくれるか」
「はい。ありがとうございます」
「おう」
満足そうに頷く様は貫禄があり、これで叔父さんと同い年なんて…老けてるなあと、至極失礼な感想を
診察室を出ると、すぐ外の待合室のソファーに座っていた叔父が、視線だけ寄越した。その肩に寄りかかる京は、眠っているのだろうか。
「叔父さん。来てくれって」
「ああ。代わって」
そっと、いたわるような手つきで京の頭を少しだけ持ち上げ、体を移動させて飛鳥に場所を譲る。
すぐ戻る、と言って去る背中を見つめ、飛鳥は、深く息を吐いた。本当に、叔父がいなければどうなっていただろう。
突如日本各地で
それは今なおおさまらず、今も、思い出したかのようにどこかで火柱が上がる。一度火を吹けば、考えられない速さで炭化する。それ自体の死者はさることながら、それに巻き込まれ、
飛鳥や京、叔父に、あの医師も。いつ何時発火するかわからないのだが、そのことを考えてしまえば恐くなるだけだと、飛鳥は無理矢理にそこにつながる思考は断ち切っている。
それが成り立っているのは、不可思議な現象に対するもの以外の現実的な対処を、叔父が一手に引き受けてくれているおかげだった。
だが、京や飛鳥自身に現れた妙な能力に対してはいささか事情が変わってくる。
一通りの診察で結果が後日に回ってしまうものはあるが、体に異常は見られないということだった。
脳に一部通常の人よりも活性化している部分があるらしいが、それが以前からなのか今日からなのかは、比較対象がないためにわからないらしい。
そしてそれらとは別に、飛鳥は、自分の能力に対して、ひとつの仮説を立てていた。これは、妙な能力の働きを見破るものではないか。
飛鳥がはじめて人体発火を目撃してから、叔父と話をしてとりあえず車で京を迎えに行き、ひたすらにテレビを見続け叔父が各所と連絡を取り、たまに外の様子を窺い。その間に、気付いたことがあった。
数が少ないなりにも、外を歩く人はいた。その中でごく稀に、京のときと同じように、唐突に「悟る」ことがあった。
あの少年は暗闇でも物が見える、彼女は温度を変化させられる、といったように、そして彼ら彼女らを見続ければ、
それが一体何になるのか、何故そんなことが起こるのかは皆目見当もつかないままだが、何一つわからないよりは一歩進んだと、思いたいところだ。
「…お
「起きたか。腹、減ってへんか?」
家を出るときに、ざっと食料や日用品はかき集めてある。
人体発火で混乱し通しの世の中で、次に何が起こるかもわからない。貨幣が通用しなくなる、食料の入手が困難になる、といったことは十分に考えられるための、叔父の指示だ。
いくつか転がっていた菓子パンは手軽に食べられるからと、今も持ち歩いている。他は、叔父が無断拝借した会社の車のトランクの中だ。
京は、小さく首を振った。
「何が…起きてるん…?」
「俺にもわからん。でもな、京。お前が朝見たのは――」
まずい、と気付いたときには遅かった。
朝から寝たり起きたりを繰り返していた京にとって、朝の出来事は直結のものだったのかもしれない。とにかく、見開かれた瞳に、今朝見たものをもう一度映していると悟った飛鳥は、咄嗟に華奢な体を抱きしめた。
京の能力は、幻視。接触した他者に幻を見せるものだが、今は混乱しているためだろう、己でも幻を見て、現実との区別もつけられていない。
以前叔父に聞いたことがある。人間は、焼き鏝を押し付けられていると思い込ませられれば、水差しに触れただけで水ぶくれを起こしてしまうことがある生き物なのだと。
あんなものを幻視し続けたら、京が火傷で死んでしまう。下手をすれば、人体発火も起こせるかもしれない。
襲い来る炎の幻を必死に押さえ込み、飛鳥は、力いっぱいに声を振り絞った。
「京! 聞け、これは幻や! お前はここに居る! 何にもない、いつもと一緒で擦り傷ひとつない! 京、俺がおるから!」
「…………お
「何や」
「…さっきも思ったけど、お
ぎこちなく笑う。飛鳥は、力が抜けて大きく息を吐いた。抱き合った格好のせいで、京の小さな笑い声が耳元で聞こえた。
「うーん、大物だな、彼。国境無き医師団にでも放り込みたくなるんだけど、駄目か?」
「その前に、医学免許取らせる必要があるで? 飛鳥とお前にやる気があるなら、俺は止めへん」
「あーっ、一郎兄さん! ちょっとお兄、放して、放してっ!」
暢気な叔父とその友人の声を背後に聞き、実の妹に邪険に扱われ、飛鳥はぐったりと、待合室のソファーに撃沈した。
無事でよかったのに、報われない気がするのは何故だろう。
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