「ずっと好きやったのは」

皐月サツキのさっちゃん」

「…気持ち悪い呼び方するな」


 唐突な呼びかけに思わず睨むと、飛鳥アスカは、眼鏡越しににやりと笑って見下ろす。それが余計に苛立いらだつ。


「もう一回、ちゃんとクラと会ったってくれ」


 ぴたりと、皐月の足が止まった。並ぶように歩いていた廊下に、他には人はいなかった。珍しいことだが、今の皐月にはどうでもいい。

 飛鳥と違ってコーヒーは受け取ってこなかったが、今手にしていれば、カップを割ってしまっていたかもしれない。


「関係ないやろ」

「ないと言えばないしあると言えばあるし」

「はぁ?」

和哉カズヤさんにはああ言ったけど、確実に、顔を合わせる機会は減る。下手したらこのままお別れ、なんてこともあるかもな。こんな状態やし、どこでどうなるかわかったもん違うやろ。それでいいんか?」


 聞かされたのはありきたりの言葉だった。皐月自身よくわかっていることで、思わずもたげた反感は、だが、真っ直ぐに据えられた眼に、固まってしまう。

 数瞬、動けずに立ち尽くす。

 ふっと、飛鳥が笑った。


「選手交代、後は任せるわ」

「ああ、サンキュ」 


 後方からやって来て、皐月の頭上で軽く手を打ち合わせて飛鳥に笑い返す。数日振りに目にする、青年の姿があった。

 さっと背を向けた飛鳥を目線で見送って、蔵之輔ゾウノスケは、皐月の腕をつかんだ。思わずびくりと身を縮めるが、離されることはなく、そのまま引きずるように進んで行く。


「さっちゃん。忘れとった。ごめん」


 無言のままだった蔵之輔が口を開いたのは、蔵之輔の根城と化しつつある地下の工具置き場についてからのことだった。

 片隅のソファーに皐月を座らせ、その前で、生真面目に頭を下げる。


「ごめん。そっちは覚えてくれとったのにな」

「…なんで」

「名前はカンニング。飛鳥が教えてくれた。皐月でさっちゃんって呼ばれとったって、言われてようやく思い出した」


 覚えていてくれた。

 きっと、忘れていると思っていた。皐月にとってどれだけ大切なことであっても、ほんの一時いっときいた場所での出来事でしかない。そう思わなければ、期待して叶わなければ、みじめになるだけだとわかっていたから。

 望まないこと。期待しないこと。

 それを真っ先に学ばなければ、生きて行けなかった。それなのに。


「今度は、逃げんといてくれると…助かる」


 言葉を失って、気付くと泣きそうになっていた皐月に、蔵之輔は大慌てした。

 すぐ隣にいてくれる。ただそれだけで、皐月には夢のような出来事だと、そう思い戸惑うしかできない。


「…皐月」

「…何?」


 呼ばれているのが自分だと、信じられない思いの方が嬉しさよりも勝った。それなのに、呼んだきり蔵之輔は黙り込んでしまう。

 沈黙に焦るが、言葉が出ない。

 他の相手なら会話がなくても気にもしないが、蔵之輔が相手ではそうはいかない。ミヤコハルなどに対してもだが、こちらの方が強い。

 それが何故なのかは――もう、気付いている。

 嫌われたくない。できるなら、好きになってほしい。

 その想いが余計に、頭を空転させる。今まで、人付き合いを極力避けて立ち回っていたのが、こんなところであだになる。

 何も思いつかないままにどうにかしたいと顔を上げたところで、蔵之輔と目が合った。


「…なあ、なんで俺にあんなこと、したんや?」


 さあっと、血が引くのがわかった。何一つ、言葉が浮かばない。ただ、蔵之輔の怖いほどに真剣な目を、見つめている。


「俺と関わりたくないんやったら、これっきりにする。用がない限り声もかけへんようにする。見るのも厭なら…」

「違う!」


 やはり言葉は、浮かんできてくれない。それなのに、何故か口は動いていた。


「違う、そんなんじゃない。ずっと…ずっと、会いたかった。会って、あんなことしたのに、覚えててくれて、話してくれて、おってくれるだけで、それだけで嬉しくて、だから、何かしたくって…っ」


 何を言っているのかは、ほとんどわかっていなかった。ただずっと、頭の中は真っ白だ。

 それなのに、力が抜けて照れたように笑う蔵之輔の顔は、くっきりと見えた。


「よかった。飛鳥とは喋っとったのに、俺だけ避けられてたみたいやから、絶対嫌われてると思った」

「な…なんで、飛鳥とか…」

「だって、俺と飛鳥とやったら、絶対飛鳥の方がいいし」

「オレがずっと好きやったのは蔵之輔や」


 言った後で、何を口走ったのか理解する。

 勢いで立ち上がったまま、皐月は硬直した。見えてしまう蔵之輔の眼は、大きく見開かれている。とりあえず嫌悪は浮かんではいないようだが、だからといって、硬直はけない。

 だが一方で、じわりと納得も沁み込んでいた。あの感情はやはりそうだったのか、と。

 しばらくの間、二人は黙って見詰め合っていた。


「…皐月?」

「は、い…」

「――抱き締めてもいいか」

「え。え…ええっ?!」


 いくらか硬直は解けたが、今度は、一気に汗をかいたような気がする。


「あかんか?」

「え。う、いや、その………いい、けど…」


 蔵之輔の腕は、壊れ物でも扱うようにそっと、皐月に触れた。それでもしっかりと、胸に抱き締める。頭の中に心臓が移ってきたかのように、鼓動がうるさい。

 それなのに、その言葉はくっきりと聞こえた。


「俺も。好きや、皐月」 

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