「つくづく、君って馬鹿だねえ」
「もうすぐ僕が死ぬって噂でも流れてるんじゃないの? 皆、入れ替わり立ち代りさあ。どうってことないのに」
椅子は
「…元気そうやな」
「あれから何日
「あなたが無駄に動き回ろうとするからこっちは慎重にならざるを得ないんだって、一体いつになったら理解してくれるんですかね?」
皐月よりも早く、荷物を手に部屋に入ってきた飛鳥が言葉を投げつける。眼鏡の奥から、呆れたような眼差しを向けている。
「…それ、どうして
「電動じゃないからそれほどでも。子ども抱きかかえてるくらい?」
「十分重いよ」
半ば呆気に取られた和哉の視線の先には、折り畳まれた車椅子と松葉杖がある。目の前で降ろし、ベッドに立てかけると、飛鳥は何故か胸を張った。
「これなら移動してもいいって許しが出ましたよ」
「…左は動くんだから、松葉杖だけでいいよ」
あのとき、狙ったのがそもそも腰だったのか腹でも狙ってずれたのか、それともどこでも良かったのかは、刺した男が治療半ばで逃げ出してしまったためにわからなくなった。ただ、和哉と同じ場所を刺したはずだったのに、男の足は動くことだけはわかった。
和哉は、運悪く足の神経を掠めてしまい、右脚がほぼ動かなくなった。
そのことを知った誰もが一瞬は言葉を失い、憤ったが、和哉本人がそのことで冗談めいた愚痴以外を口にしたのを聞いた者はない。
「ゆくゆくは杖でもこしらえたらいいんじゃないですか、仕込み杖とか。座頭市みたいな」
「残念ながら眼は見えるよ。それに座頭市は足は不自由じゃないだろう」
「意外にがっつり突っ込んできますね。まあ冗談は置いといて、松葉杖はとりあえず持って来ただけです。まだ抜糸も済んでないってのに、使わないでください。本当は、車椅子もいい顔されんかったんですから」
「だから皆大袈裟だって言うのに」
「恵梨奈さんから聞きました。カズさん、心配されるん苦手って本当やったんですね」
「…何の話」
明らかに図星を突かれた和哉は、ふいと目を
この子どもっぽさが安心しているからだとすれば、やはり、和哉の「親」は田代恵梨奈なのだろうと皐月は思う。さっきもここにいたが、彼女はこのところずっと、和哉にかかりきりだ。
――これで良かったんやろう。
この先も、歩くことは出来ても走ることまでは出来ないだろうと診断された脚は、こうなると逆に幸いだったのかもしれない、とも思う。
年の離れた姉は、災難に見舞われた――実のところは引き起こした元凶とさえいえる弟を、気遣いはしても厄介とは思っていないように見受けられる。
「こんなときですけど、分所の話は予定通りに進めますよ」
「ああ…そう、だね」
横顔を見せたまま、和哉の言葉は幾らか硬い。それでも、飛鳥は淡々と続ける。
「で、そっちに移る
「……どうして?」
「まだ本決まりじゃなくって、俺がそうしたいってだけのことですけどね。技術者もこっち来てくれるらしいんで、クラと、人の多いところやと疲れるから、
仲良くなったあの二人が離れるということに、淋しさを覚えていた。だがそれ以上に――
結局、和哉が刺されたあのときから、話らしい話はしていない。皐月が避けているからだ。
自分の能力が
それが――今以上に、見られなくなる。
安心すればいいのに何故かそうはならず、皐月は、無表情を保つのに必死になった。どうせなら、外に出るときのようにフードを被っていればよかったと思う。
飛鳥は、そんな皐月には一瞥もくれず、戻った和哉の視線を、ゆっくりと受け止めている。
「柿崎、でしたっけ。ざっとは話聞きました。ついでに言うと、あいつを出したのは俺です。逃がしたわけじゃなくって、ツテを使って別の施設に移したんですけどね」
思わず息を止めた皐月と違い、和哉は、「そう」と一言、穏やかに呟きを落とす。
「でも、それだけの人数で離れたら、分裂だとか噂になっちゃうなあ」
「それは否定しといてください。どうせ、あっちとこっちでの行き来はあるでしょうし、ややこしいことになっても面倒でしょ」
「怒ってないんだ?」
「今回狙ったのが俺ってのは聞いてますから」
「君さあ。…僕が言うのもなんだけど、他は駄目でも君が危険にさらされるのはいいの? その基準、どうなってるの?」
ひらりと、飛鳥が
「よくはないですよ、
笑う横顔は、どことなく京に似ているのに、何故かくっきりと違う。それは男女や年齢の違いではなく、おそらくは、内面の違いそのものなのだろう。
それに対して和哉は、一度は驚いたような眼をしたものの、にっこりと笑顔に変えた。
「つくづく、君って馬鹿だねえ」
「それって天に
一見、爽やかに
薄ら寒い。
模擬戦と言いつつ真剣で本気の斬り合いをしているのを眺めるような、居心地の悪さと緊張感。
この二人の立ち位置を眺めていると、恋愛感情どころか親愛の情すら疑わしい自分と和哉の抱き合っていた姿の方がまだ健全だったのではないかと思えるから不思議だ。
その不穏を断ち切ったのは和哉の姉で、人数分のコーヒーを盆に載せてやって来て、充満する空気には気付かずに笑顔になる。
「飛鳥君、わざわざ来てくれたんやなあ。和哉の穴埋めまでやってくれてるのに、忙しいんちゃうん?」
「やー、俺は、カズさんと違ってあれだけの仕事やれませんから、適当に割り振って終わり。案外
「何言ってるん」
明るく笑う和哉の姉は、本当に気付いていないのだろう。
飛鳥がコーヒーだけ受け取って部屋を出ようとするのに、皐月も便乗した。
だが、またな、という言葉だけは重ねられなかった。結局ろくに話せなかったが、そもそも話すことなどなかったような気がする。
皐月は、肩の荷が降りたような、見捨てられたような、中途半端な気分になっていることに気付いた。
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