「今はちょっと迷ってる」
「ちょっと
入り口近くに積んであるダンボールに顔をしかめ、その上に紙の
「まだ、ほとんどやってない? じゃあ手伝うわ」
「え? そっちの仕事は」
「とりあえず、この用紙貼って回るだけやから。急ぎでもないし、後に回す。で、相方どうしたん。どっかでサボってるんやったら捕まえさせるけど?」
「いや…訓練したいって言うから…」
「あーもーっ! そのへんはちゃんと時間見て組んであるはずやろ、皐月も止める。あんなの、がむしゃらにやって倒れたら意味ないんやから。倒れるくらいならまだしも、取り戻しがつかんことになったりしたら、本人も周りも
ベルトに引っ掛けていたピンクの玩具のような腕時計に向かって喋る京をぼんやりと見ていた皐月は、視線を向けられて記憶を
短髪の生意気そうな顔はすぐに思い浮かぶのだが、名前がなかなか出てこない。
「あー…石塚、やっけ。小学生くらいのいがぐり」
「ああ、はいはい。――石塚君、どっかで自主練してるみたい。危ないから、止めたって」
『――
『――こちらクラ。俺行って来る』
『――待って、
「はい、了解。よろしく」
音量を上げているからか、小さな内臓のレシーバーの割には、皐月にもしっかりと回線の向こうの声が聞こえた。
その中の、決して鮮明とは呼べない、
ゆっくりと鼓動をなだめ、悟られないように顔をやや俯ける。今のところ、蔵之輔に能力を使っているのを知っているのは
「じゃ、やろか」
「ほんまに、いいって。あんたはもっとやることあるやろ」
「ないない、引継ぎもある程度終わったから、今はむしろやってみてもらって、まずいところあったら呼び出してって言ってるもん。あたしが張り付いてたら逆にまずいわ」
言いながら、ダンボールの一つに手をかけてガムテープをはがす。手を差し出したので、諦めて記録用紙を載せる。
「…出ていくんやんな」
「んー、今はちょっと迷ってる」
「え?」
「皐月おるし、春ちゃんだってこっちに残るし、あたしもそろそろ叔父離れした方がいいかなーって、思ったり」
兄離れじゃなくて? という言葉は飲み込んでおく。
京と飛鳥の叔父だという男を、皐月はあまり覚えていない。二人が話しているところも見たことがないので、京が兄の飛鳥を
どちらにしても、皐月には縁のない話だ。血縁者がこの世に存在するのかすらわからないのだから。
「引継ぎ、してるやん」
「どのみち、人が増えたらあたしが一人でやるものでもないし、年からいったら、栄さんとか藤沢さんとか、あのあたりの人の方がやるべきやろうし。単に、やる人がおらんからやってただけやもん。看護部の手も足りてないって言うから、そっち手伝ってもいいし」
何でもできるっていうのはいいなと、これも飲み込む。ただの
なるべく人と関わらない仕事をと自分で希望したはずなのに、誰がやっても同じ在庫確認にうんざりとしてきている。
京は、喋りながらもてきぱきとダンボールの中身を用紙に書き付けていき、すぐに一箱を終えて
「皐月ー、手、止まってる」
「ああ…」
肯きともぼやきともつかない言葉を漏らし、皐月も途中になっていた作業に取り掛かろうとして、再び手が止まった。京も、新しいダンボールにかけようとした手が宙で浮いている。
二人の動きが止まったのは、開け放したままだった出入り口から、人の叫び声のようなものが聞こえてきたためだった。
思わず、二人で目を見合わせる。
次いで、何かが力任せに投げつけられたような音に、皐月と京は先を争うようにして廊下に顔を出した。
「ケンカ?」
「パイプ椅子?」
二人がいる部屋とは距離のある、廊下の突き当たり。そこで、少年が一人壁に背を預けてぐったりと座り込み、その近くに青色の見えるパイプ椅子が落ちている。
そして、少年の前には小さな人影。
逆光で誰かまでは特定できず、体の線が細いため、男子か女子かすら迷う。
既に、音を聞きつけた他の人たちが集まりつつある。皐月も、躊躇したものの、動き出した京につられてその背を追った。
当事者たちは無言だった。ただ、立ち尽くす少年の荒く吐く息の音だけがある。
しかし人の声はしている。ばらばらと集まった者らが、悲鳴を呑み込んだり呟いたり問いかけたりと、ざわめいている。
「あのアホ…」
呟くようにこぼれた声は、京のものだった。
何かと首を捻ると、絵に描いたような美少女は、思い切り顔をしかめていた。眉間のしわの消えないまま、もう一度ピンクの時計を取り上げる。深く息を吸った一瞬だけためらいを見せ、囁くように声を出す。
「こちら京、お
『――おう、聞こえた。なんや?』
一際、眉間のしわが深くなる。電波の向こうの飛鳥の声が、あまりにも今まで通りだからだろう。
皐月は、自覚もないままに息さえ潜めて京の様子を窺っていた。
「三階、北廊下の突き当たりであの馬鹿が
『――すぐ行く』
「…まったく」
不意に、皐月は、
京は――強い。
その強さは、しっかりと育てられたからなのかもしれない。
あの兄がいて、裏表なく慕う叔父がいて、母親からも、この状況下でも何らかの連絡が来ているという。そんな、家族に包まれて生きてきたからの強さなのかもしれない。
きっと京は、根っ子のところで人を信じられている。
そうして、我が身と比べてしまった皐月は、途端に足元さえおぼつかなくなるような感覚に襲われる。蔵之輔に会いたいのに、逃げ続けている自分は、
「揉めてるって、何があったん?」
「さあ、あたしたちもさっき来たとこなんで。あれ、お
「いや俺にきかれても」
皐月は、気付かないうちに呼吸を止めていた。視線が、京を挟んだ反対側の青年に釘付けになる。作業中だったのか、つなぎを着込んでいる。
蔵之輔が、すぐそこにいる。だが、今朝
そうすれば、蔵之輔が自分のことをどう思っているのか、幼いあの日々のことを覚えているのか、知らずに済む。それなのに、こうやって胸が痛くなるのはどうしてだろう。
――やがて、飛鳥と和哉がやって来て、その場を収めて当事者たちを連れて行った。集まっていた者らも、それぞれに散らばり戻っていく。当然、蔵之輔も。
一度だけ、目が合ったような気がしたが気のせいで、たまたまそう思えただけだろう。
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