「親になれたら良かったんやけど」

 皐月サツキは両親を知らない。名前すら、つけてくれたのは施設の職員だ。

 どうせいらないなら生まれてすぐにでも殺してくれたらよかったのに。そう思っても口に出さなかったのは、それを聞いた周囲の反応が面倒になると学習していたからだ。

 生活が、つらかったとは思わない。充分に恵まれていたとは言い難かっただろうが、比べなければ、気にならなかった。

 ただ――生きていることが楽しいとも、思わなかった。

 あの時、あの出会いがなければ。きっと皐月は、思いがけず施設を出た後の様々に呑まれ、簡単に生きるのを止めたのではないかと思う。


「不毛やなあ」

「うるさい」


 じろりとにらみつけても、相手は呆れたような視線を向けてくる。


「邪魔。どっか行け」

「ええー? 何も邪魔してないやろ」

「存在が邪魔」

ひどっ!」


 言葉だけでなげいて見せながら、顔つきも身のこなしも、落ち着き払っている。ついつい胡散臭いと感じる愛想の良さを貼り付けながら、飛鳥アスカは、衣料品の在庫を確認する皐月を眺め、入り口に寄りかかってただ立っていた。

 何が楽しいのか、ふらりと、日に一度二度と、皐月の元にやって来る。

 そうして口にするのは――彼の、親友のことだ。ヒーターの修理をしたとか、うっかり一台壊しかけたとか、今開発を進めているのは脳波測定器を流用した能力値を測る機械だとか、聞いてもいないのにぺらぺらと喋る。


「そろそろ、姿見せたってもいいんちゃうんか?」

「…隠れてない」 

「いいや、隠れてる」


 これも、何度も繰り返される会話だ。

 皐月には、あの「遭遇」で得た力がある。体の一部を触れた状態で命じた言葉に、従わせる。ただし、約一日。

 それを使い毎朝、蔵之輔ゾウノスケに認識するなと命じていることを、飛鳥は知っている。


「いいやろ、吃驚するやろうけど絶対喜ぶって」

「…人のことに構う余裕、あるんか? ミヤコ一葉カズハけられてるみたいやけど?」


 みたいも何も、飛鳥の妹の京からは直接聞いているのだが。

 十数日前、飛鳥が京らと気まずくなったのと前後して、皐月は京と知り合った。到底仲良くなるような出会いではなかったのだが、何故か、話をするようになった。


「俺がおらんでいけるなら、それがいい」

「はあ?」


 呟きめいた言葉に、思わず視線を向けてしまう。

 飛鳥は、めた様子でひっそりと立っていた。口の片端がかすかに持ち上がっているのは、笑っているのだろうか。どこを見ているのか、視線は皐月には向いていない。

 何故か釘付けになって身動きができなくなった。

 やがて、それに気付いたのか、皐月に向けられた視線はいつものように多少の鋭さはあっても穏やかで、口元にはゆるやかなみが浮かぶ。

 まるで、手品師のポーカーフェイスのように。


「俺のことは、俺がどうにかする。そっちは、ちゃんと考えてるか? 例えば、明日あいつがおらんなっても隠れてたことをやるんじゃなかったって後悔するようにならへんなら、そろそろ口出すのはやめる」

「…はあ?」

「もう一回くらい、向き合ってみたらどうや? ただただ逃げ回って、後になってなんであんなことしたんやろうってやむくらいなら、あと一回、あいつを信じてみてくれ。クラはいい奴や」


 そんなん、知ってる。

 思わずこぼれそうになった言葉を慌てて飲み込んで、皐月は目をそむけた。

 いい人だと、知っている。いや、いい人でなくても。皐月にとってだけは、大切な人だ。

 あのとき、蔵之輔に出会わなければ――きっと皐月は、生きることを諦めていた。


 それの何が特別だったのかは、覚えていない。


 ただある日、蔵之輔は皐月の暮らす施設にやって来た。長期の生活者だけでなく一時預かりも行っていたあの施設に、蔵之輔は両親を失ってやって来た。

 一人は殺され、一人はその殺害者として、放棄された子どもが蔵之輔だった。

 勿論もちろん、そんなことが大っぴらに子どもらに知らされるわけがない。だが何故か、悪い話ほど広がるのは早い。

 結果、蔵之輔は遠巻きにされた。いじめやからかいの対象にならなかったのは、蔵之輔の突き刺すような視線を恐れたためだ。

 その頃皐月は、一緒に暮らす子どもらに避けられていた。大人たちの見ている前ではそれほどではなかったが、裏へ回れば丸っきりの無視も珍しくはなかった。

 それをつらいとは思わなかった。むしろ、妙にちょっかいを出されるよりも楽でいいと思っていた。

 お互い一人でいる皐月と蔵之輔は、たまに居場所がかち合った。

 言葉を交わすでもなく、ただ近くで時を過ごす。それだけのことが、何故か、終わってから皐月のかけがえのない宝物になった。

 あるいは、蔵之輔が施設を去る日に、皐月には別れの言葉を残したことでそうなったのかもしれない。


 ――だから、「遭遇」の混乱の後に蔵之輔の姿を見つけたときには目を疑った。

 幻を見ているのかと思った。あれからもう何年もっているのだから、別人かとも思った。現に、蔵之輔は皐月を見てもわかりはしなかった。

 そして皐月は、その少し前に暴行を受け、幾らか精神の均衡を欠いていた。


 一気によぎった諸々を押しやり、皐月は首を振る。一つ呼吸を落として、飛鳥を見遣る。

 その冷静な顔を、無性に殴りたくなった。実際やれば、あっさりと避けられてしまうだろうが。


「逃げてるのはそっちやろ。一葉から逃げて、どうせならはっきりと断ったったらいいやん。後悔しそうやから、迷ってるから断れへんわけ?」


 一瞬だけ虚を突かれたように、飛鳥は表情を失った。だがすぐに、苦笑いが浮かぶ。


「あいつのあれは、刷り込みみたいなとこもあるからな。雛が親鳥見てひたすら後追っかけていくような。そやなあ。どうせなら、親になれたら良かったんやけど」

「それは、言い訳とは違うんか」

「――さあ?」


 例のポーカーフェイスを取り戻し、飛鳥は、寄りかかっていた桟から身体を離す。ちらりと、開け放したままだった戸口から外に視線を流した。


「邪魔して悪かったな。でもまあ、その力無駄に使うのはもうちょい考え」


 シャツのポケットに引っ掛けていた細い縁付の眼鏡をかけて、飛鳥は身をひるがえした。入れ替わりに、京が入り口をくぐる。

 日本人形を思わせる長い黒髪を背に流した少女は、紙のたばかかえていた。

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