「覚えてくれとってありがとうな」

「…どーすっか…」


 寝て起きれば、気持ちはいくらか落ち着いていた。とりあえず、パンをかじって考える。

 狙いをつけているところは何件かあるが、どれにするか。

 とりあえず出歩くかと、夕食を水で流し込んで終えると、仕事道具を詰め込んだカバンを腰に巻く。本来は美容師が使っているものだったらしいが、便利で以前から愛用している。


「クラやん。これから仕事?」


 家を出て、近くの公園に出たところで呼びかけられた。今日は厄日かと、思わずそんな考えが頭をかすめる。

 さすがに夜間の電灯まではともっておらず、輪郭くらいしかわからないが、多分知り合いだろう。声にも、聞き覚えはある。


「…酒臭い。寄んな」

「っんだよー、欲しいか? 欲しいんか? しゃーないなー、ちょっとなら分けたるわ」

「いらねーって。あっち行け、酔っ払い」

「酔ってへんって。今日はどこ行くん?」

「触んな」


 馴れ馴れしく伸ばされた手を払いのけて、まだ何か言っているようだが背を向ける。

 面倒になって、もう止めておくか、と思ったがふと、気になるところがあったことを思い出した。

 生活費確保の対象ではない。

 タシロという会社の研究所らしいその建物は、避難者を受け入れているというわけでもないにもかかわらず、人の出入りが多い。簡易病院にもなっているということだが、それ以上に、「遭遇」の一件を解明するためなのだろう。

 夜だから、活動をしているとは思わない。だが、見るだけ見てみようか。

 そう離れてはいないし、夜で活動していないなら逆に、誰かに見とがめられることもないだろう。

 近くといえば近くだが、歩くのが面倒で自転車を取りに戻った。


「…早く、終わりゃいいのに」


 ペダルを踏みながら呟いて、そうしてから、でも、と反論が浮かんだ。「遭遇」が解明されて、秩序を取り戻したとして、今までの日常は戻らない。新しくできた秩序の中で、自分はどうなるのか、と、考えたところで厭になって考えるのを止める。

 どうせ、その先には誰もいない。蔵之輔は独りぼっちになってしまった。

 黙々と走って、たどり着いたところで建物を見上げる。ただのビルだ。五階建て、だろう。問題は中で活動する人たちであって、うつわは関係ない。


「そりゃそうか」


 何やってんだ俺は、と苦笑して、自転車のスタンドを下ろす。生ぬるい風が吹いて、「遭遇」以来切っていない髪をかき回す。

 門には鍵がかかっていたが、簡単に乗り越えられる高さだった。警報でも仕掛けてあるかと思ってしばらくビルを見上げたが、どうにもその気配もない。

 警備会社にでも連絡が行くつくりかもしれないが、こういうところでは、通報されたことを侵入者にも知らせ、追い出すのが一般的だ。犯人を捕まえるよりも、被害を出さないことに重きを置くものなのだ。

 無用心だな、とを進めながら、何をやってるんだとの自問自答も起こる。

 ここから何かを持って行くつもりはないし、「遭遇」の解明を知るにも、どこにどんな形で経緯がまとめられているのかもわからないのだから無謀だし、知ったところでどうなるものでもない。

 帰って、眠れないなら眠れないで何か組み立てるなりばらすなり、懐中電灯の明かりでだってできる。そう思うのに、蔵之輔はなめらかに、持って来た道具で正面入り口の鍵を外していた。ペンライトをくわえ、作業は淡々と進む。

 何をしているのかと困惑するが、中を見てみたいと思う気持ちもある。見てどうするのか、というのは抜け落ちている。

 そうして中に入ったところで、足が地面から離れた。

 一瞬の無重力に、叩きつけられて呼吸が止まる。喉には、何か冷たいものが突きつけられている。


「何が目的か知らんけど、うちは泥棒お断りやぞ」


 まだ若い男の声。台詞せりふ自体は気が抜けるが、妙な迫力があった。声を出そうとしても、咄嗟に出ない。


「顔照らして――クラぁ?」


 まぶしい光に視界が染まったかと思ったら、素っ頓狂な声がした。蔵之輔の頭の中は既に、事態についていけずに、視界と同じく真っ白になっている。


「うわー、半年振りに会ったと思ったら泥棒て、華麗な転身してんなお前。何やってるんや」

「…は?」

「あー、わからんわな、そりゃ。キョウジ、俺照らして、って、まぶしっ」

「………奈良山ナラヤマ?!」


 記憶をたどるのに少しかかったが、懐中電灯の明かりに浮かび上がったのは、一年半年前はクラスメイトだった、そして今の蔵之輔の通称を呼び始めた男だった。

 思わず名前を叫んだが、その先が出てこない。

 一体何をどうして、元クラスメイトに喉にナイフを突きつけられる状況になってしまったのか。悪いと言えば、悪いのは蔵之輔だ。

 そのむくいのように、親しげでのんびりとした口調に変わったものの、突きつけられたそれは微動だにしていない。

 お互いにまぶしくない位置に移動した光の中で、奈良山飛鳥アスカは困ったかおをした。


「えーと。顔見て、二度目はないって警告して叩き出すつもりやったんやけどなあ…本当、何やってるんやここで?」


 不思議そうに訊かれるが、それは蔵之輔も知りたい。蔵之輔自身、一体何をやっているのかと思う。


「いや…様子だけ、見ようと思って…」

「様子? 何の?」

「ここで遭遇の解明やってるって聞いて…その様子?」

「いや俺に訊くなよ」


 素早くつっこんでから、思案がおになる。

 少し落ち着くと、こいつはよく俺のことを覚えていたなと、そんなことを思う。

 蔵之輔とは一、二年と同じクラスにいたが、中途半端に髪が伸びた上に見えにくい懐中電灯の明かりの中で、一目でわかるとは。強く印象づいていた蔵之輔でさえ、気付くまでにいたというのに。


「別に、何か盗むとか壊すとか、そういうのとは違うんやな?」

「ああ」

「本当みたいだよ」


 近くから何故か肯定の声が上がって、ぎょっとする。懐中電灯を持っている人物だろうが、何故そんな保証をされるのか。微妙に声変わり手前くらいの、少年の声だ。

 奈良山は、それに頷いて、何故か眼を輝かせた。


「なあクラ、機械いじり趣味やったよな? 今もか?」

「は? あ、ああ…」


 それで今の今まで一人でも生きて来られた。

 だが、そんなことを話したことがあっただろうか。あったかもしれないが、特に親しくもなかったただのクラスメイトのことを覚えているのは何故だ。

 蔵之輔の疑問にはお構いなしに、奈良山は手を引いた。押さえられていた喉とのしかかられていた胸の圧迫感が消える。


「飛鳥さん!」

「悪意はないんやろ? ならちょうどいい。なあ、クラ。ちょっとここで働いてみる気、ないか?」

「…はぁ?」

「機械に詳しい奴探してたんや。あいにく、俺の判断だけでは決められへんけど、その気があるなら話してみる。…ってまあ、今何やってるかも訊かんと先走ってるとは思うけど。あ、恭二、こいつ俺の友達。石動蔵之輔で、クラ、もしくはクララ」

「飛鳥さんって、あんまりネーミングセンスないよね…」

「そうか?」


 はあぁ、と、なんだか気の毒なくらいに深々とした溜息が聞こえた。


「で、クラ、こっちはササキキョウジ。えーと…家族みたいなもんやな。俺ら、ここで寝泊りしてるんや。遭遇解明の責任者も。興味あるならとりあえず、今日は泊まって行くか?」

「は?」


 何故そうなる。

 あんぐりと口を開けた蔵之輔に構わず、奈良山は勝手に決定事項にしてしまった。

 ここまでどうやって来たのかと訊かれ、素直に自転車と答えると、すみやかに取りに行ってしまう。そして、そのままの勢いで部屋まで連れて行かれた。

 少年とは別室らしく、気付くと姿が消えていた。


「ベッドひとつなんや、悪いけど掛け布団貰うな。ほら、代わりにタオル」

「…俺が床で」

「いやいや。無理に泊まらせるのに悪いし」


 自覚はあったのか。

 奥にもれるようにしてえられたパイプベッドに押しやられながら、投げ渡されたバスタオルを手に、でも、と口をついて出る。

 ところが、手早く掛け布団に包まって床に寝転んだ奈良山は、しれっと返した。


「じゃあ、勝手に出られんようにこの配置ってことで」

「なっ…」

「そっちのが奥で、窓から出るにも三階で、ベランダとかないし。俺またいで外に出るなら、多分起きる。これなら納得やろ? ほら、寝ろー」


 とらえ所がないのは、相変わらずのようだった。

 まるで仲のいい友人のように気安く、かと思えば、先ほど突きつけ続けたナイフのように、警戒を完全に解くわけでもない。しかもそれが、ふりなのか本気なのかが掴めない。

 唖然とした蔵之輔は、だが咄嗟に、待てと呼びかけていた。


「ん? 何?」


 奈良山は素直に訊き返してくるが、訊きたい何かがあったわけではなく、言葉が出ない。焦りばかりが先行した。


「その…なんで、俺のこと、わかった?」

「あー…キョウジが、誰か入って来たみたいやって知らせてきたから様子見に。まさかそれがクラやとは思わんかったけど」

「じゃなくて、…俺、印象残るわけでもないのに、なんで覚えてた」

「えー、影薄い? そうかぁ?」


 心底意外そうな声に、耳を疑う。全く自慢ではないが、小学校で六年間同じクラスだった女子に、それと気付かれていなかった実績があるというのに、どういった思考回路になっているのだろう。

 寝返りでも打ったのか、声の位置が変わる。


「流されにくくって、はっきり特技があって、かっこいい奴がおるなあ、って思ってたんやけど」


 恥ずかしいことをさらっと言う。きっと本人には、恥ずかしいという自覚がないに違いない。そんな口調だった。

 これが女の子なら恋に落ちただろう。残念ながら男だ。それなのに、嬉しいのが少し腹立たしい。


「色々喋ってみたかったのにできんまま卒業してもてちょっと後悔しとったんやけど、こんなことになるとはなあ。あ、俺のこと、覚えてくれとってありがとうな」

「目立ってたやろ、お前は」

「そうか? そうやったとしても、興味なかったら忘れとっておかしくないやん。顔か名前はわかるけど誰、とか」


 だから、と奈良山は続けた。


「ここで働いてくれたら嬉しいけど、そっちの都合もあるやろうから無理は言わへん。とりあえず、今日は寝よ。朝は、六時にご飯やから。おやすみー」


 ぽつねんと取り残された蔵之輔は、何がどうなっているのか考えようとして、放棄した。ごろりと、硬いパイプベッドに寝転がる。

 何か長い一日だった、と思う。

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