「死んでもいいなんて思わないで」

 恭二キョウジは限界だった。少なくとも、そう思っていた。

 もう何日も、満足に食べていない。幸い水は水道管がほとんど無事らしく適当に飲めるが、食べ物はそうもいかない。

 道端の草でも食べられる種類はあるというが、恭二に見分けが付くわけもなく、炊き出しをしているところもあるらしいが、人の多いところには近寄りたくもない。


 どうやら自分は、人の考えていることが聞こえるようになってしまったらしい。

 母と父の死を呆然と受け止め、何度か人の内面に触れて気絶を繰り返してようやく確信した事実は、何一つ救いも生きる手立てももたらしてはくれなかった。

 出火した母から燃え移った炎に家は呑まれ、全焼はまぬがれたお陰でわずかなりと持ち出せたものはあったが、人のいるところにいられないのではお金があっても意味がない。


「…あ…」


 誰かが近付いてくる、とわかったが、もはや動く気力もない。 

 二つ、青年と少女の「声」が近付いてきて、倒れている恭二を見つけ、驚いて駆け寄ってくる。純粋な心配と不安の声。

 不安には、恭二の得体が知れないことや死んでやしないかということなど。

 そして――精神感応か、と、「声」がした。


ミヤコ、先に戻ってセンセーに急患って伝えてくれ。ああ、道は向こう通って」

「…わかった。けど、後で全部説明!」


 少女の「声」が遠ざかって行く。しかし、青年は近付いては来なかった。いや、近付いては来たのだが、その前に呼びかけがあった。れっきとした、言葉で。


「おーい、少年。意識あるなら反応見せろー。ないならかついで行くぞ、どっちやー」


 何事だと思いつつ、意思を総動員して頭を持ち上げる。だが、少し離れているだろう青年の姿を見るほどには、持ち上がらなかった。


「よしわかったー、とりあえず意識あるけど動けはせんのやな? 今からそっち行くわー、耐えられんようならさくっと気絶させるから言えー」


 何か無茶な事を言っている。言っている上に、聞こえてくる「声」も本気だ。

 呆気に取られた恭二は一瞬、勝手に聞こえてくる「声」すら気にならなくなっていた。相手はおそらく恭二のこの妙な力に気付いていて、それでいながら助けようとしてくれている。

 一体何者だ、と咄嗟に「声」に耳を澄ました恭二は、だが、青年の声に気を散らされた。


「しっかりしろー、一応頼りになるはずの医者がおるし、食べるもんもとりあえず、ってそうや、いいもんあるわ。いやあ、家の冷蔵庫整理に行ったとこでなあ、運がいい。ほら、これならいけるんちゃうか? …触るぞ?」


 ひやりとした手が触れて、一旦、恭二の意識は闇に呑まれた。


 気絶にはすっかり慣れてしまい、そこから意識を取り戻すのも慣れたものだった。

 苦労して開けた目には、丸太を並べたような天井が映った。そして、覗き込む顔に気付く。

 おそらく、恭二よりはいくつか年上だろう。高校生くらいで、人の良さそうな顔つきの青年。驚き、安堵したような笑みを浮かべる。

 ――それが、封印したかった記憶を呼び起こす。

 だが彼はすぐに、心底申し訳なさそうなかおになった。


「ごめん、気絶させるつもりはなかったんやけど…今、平気か? 点滴打って、脱脂綿とかで一応水も飲ませとったけど、飲むならそこ。俺、邪魔やったら出てるけど、いけそうなら話したいんや。大丈夫そうか? きついなら、落ち着くまで待つ。ここは山ん中で、まず他に人はおらへんし」


 言われて気付く。「声」は、ほとんど聞こえていなかった。恭二を見下ろす青年の、心配げなものが聞こえるだけだ。

 正直、こわい。

 人の心の声など聞きたくはないし、青年と関われば、いやでも兄のことを思い出してしまいそうだった。それでも、今何がどうなっているのかは、知りたかった。


「…っ」

「あ、やっぱ咽喉のど渇いてるか」


 そう呟いて差し出されたストローを吸う。スポーツ飲料の味がした。以前はそうも思わなかったが、妙に甘ったるい。そう感じても、飲むのはやめられなかった。

 ストローはペットボトルに差し込まれていて、それを丸一本飲み干してようやく、人心地付いた。次はお腹がすいているのを感じたが、そんなことを言えはしない。

 だが、言う前から相手は知っているようだった。


「おかゆでも作ろか? お腹すいてるやろ」

「…いい」


 今度は出すことができた声はそれでもかすれていて、おまけに、この数日はもとより一年ほどをろくに会話もせずに過ごしていた。聞こえる声が、自分のものでないような違和感があった。

 だが青年は意に介さず、そうか?と首をかしげる。


「…はなし、って」

「ああ、なるほど。えーっとじゃあその前に、はい、ゼリーとアメちゃん。少しは腹のしになるやろ」


 時間のない時の朝食に、と宣伝していたのを見たことがあるパックから直接すすれるゼリー飲料と、やたらに種類のあるアメがいくつも。恭二の寝るベッドの取りやすいところに並べて、青年は椅子に腰を落とした。

 ずっと、そこにいたのだろうか。恭二が意識のなかった間も。

 妙な気恥ずかしさと、病気のときに看病をされているような安堵感。不思議と、厭な気持はなかった。


「場所、ここで大丈夫か? うるさいなら、もうちょっと離れるけど。最終手段は、無線機あるし」

「…なにを、知って…?」


 青年の気遣いが明らかに恭二の突然身についた能力を踏まえたものであることに気付き、安堵感も何もかも吹き飛んだ。厭な汗が吹き出る。

 うわ失敗した?との、青年の「声」も聞こえた。


「失敗って、なに…」


 どうにか体を起こして、青年を睨み付ける。できることなら出て行ってしまいたかったが、今の恭二にはそれだけで精一杯だった。一体、体はどれだけ弱っているのだろう。

 青年が焦るのがわかった。


「そ、そのあたりを説明したかったんやって! 無茶するな、栄養状態とかぼろぼろで倒れて一日寝通しやったんやぞ、センセー戻ってるし何かあったら俺じゃ対応しきれんかも知らんのやから! 変なことする気はないから、頼む、休んどってくれ!」


 「声」からもその言葉に嘘はないような気がしたが、離れて聞こえる「声」はあくまで相手の考えの表面上で、青年がそのことも理解しているなら、つくろうこともできるだろう。

 恭二に睨み付けられたまま、青年は唸った。が、目をらそうとはしない。


「信じられへんかも知らんけど、俺、見た奴の能力がどんなのかわかるんや。多分、君がその能力を持ったのと同じ原因やと思う」


 そうだとすればどれだけ不公平なんだろう、と、恭二は思う。

 青年は身につけた能力に害されることはないのに、自分は、聞きたくもない人の「声」を聞き、こんなにも弱っている。

 そんな恭二の感情に気付いていないだろう青年は、言葉を続けた。


「で、能力に関してやけど、どういう状態かもわかる。君が誰かに触られて気絶するのは、自分を守るためにやってることや」

「守る?」

「ああ。離れてても考えてることを知ることはできるけど、触れての方が確実に深く知れる。でも、そんなことは知りたくないと思ってる。だから、わかる前に意識を落として断ち切ってるんや」

「…だから?」

「ものは相談。俺に触れてくれたら、警戒する必要がないってわかるはずや。考えてやってのことじゃないやろうから難しいかも知らんけど、試してくれへんか?」


 唖然あぜんとした。この青年はもしかして、馬鹿なのか。


「…意味がわかって言ってる? 勝手に、心の中見られるのに?」

「勝手ちゃうやん、俺が許可しとる。そりゃまー、こわいって言ったらこわいけど。俺やって人に知られたくないことくらい山ほどあるし、自分でも意識してないとこで何考えてるかわかったもんちゃうし、ちょっと家庭環境複雑やからそのへん、どろどろしてない保証もないし」

「じゃあ」

「でも、このまま話しとってもらちがあかんやんか。俺、説明とか苦手な上に下手やし。補足なら後でいくらでもうってつけの人らがやってくれるけど、まず信用してもらわな話にならへん。体調回復したら、それ、使いこなせるように訓練もしなあかんし。信じてもらうなら、その能力やし、これが一番手っ取り早くないか? …厭なもんまで見せたら悪いけど」  


 青年の心配の比重は、どちらかといえば恭二にあるようだった。本当に馬鹿なのかも知れないと、先ほどとは違った意味合いで思う。それとも、偽善か。

 そんなもの――触れればわかる。


「…いいか?」 


 黙っていると、おずおずと声がかけられた。恭二は青年を見て、ゆっくりと頷く。差し出された手を、恐る恐る握った。

 いつものようにたくさんの「声」が聞こえて、意識が落ちる――と思ったときに、叱り飛ばされた。『しっかりせい!』との「声」に、『無理なら一旦手を離すか』とも。今までにないことで、驚きに、気を持ち直す。

 そうして随分と長い間、恭二は青年の「声」を聞き続けた。


「無理やったか?」


 手を離すと、心配そうに青年が声をかけてきた。何故そんなことをと思っていると、『短かった』からだと、「声」が教えてくれた。

 恭二が思っていたよりもずっと、実際にかかった時間は短いようだった。


「…違う」

「え?」

「ごめん…飛鳥アスカさん」

「いや謝られるようなこと、って名前、言ったっけ俺?」


 首を傾げ、恭二が口を挟むより先に気付く。何故か、顔を輝かせて。


「成功したんか! うわ凄い、名前もわかるもんなんや!」

「…能力、わかるんじゃ…」

「いやだってそこまで細かいことはわからへんし。えーと、自転車の乗り方知っとっても実際は乗ったことないみたいな? …っと、で、信用してもらえるか?」


 浮かれていた顔を引き締める。変な人だな、と恭二が思ったのは決して悪い意味ではなく、少しおかしくなってしまった。

 笑ったのは、本当に久し振りだった。


「よろしくお願いします」

「こちらこそ。んじゃとりあえず、おかゆ作ってくるから待っとき」

「飛鳥さん」

「ん?」

「後で、ちゃんと説明してください」


 う、と笑顔がゆがむ。やはり、さっきのあれで全て済ませた気でいたらしい。そのあたりまでも十分に、恭二には読み取れていた。


「苦手だからってけてたら、いつまでもそのままですよ?」

「うー…努力はするわ」


 克服した奴に言われるとこたえるなー、という「声」が聞こえて、遠ざかっていく。

 それを見送って、恭二はベッドに体を戻した。体は重いがようやく、安心できる場所に来られた気がした。それは、もしかすると関西に引っ越してきてから初めて。


 恭二がこちらに引っ越してきたのは、去年の春、中学の入学と同時だった。それまでいたのは千葉の都心寄りだったが、特に違和感はなかった。

 ただ、明らかに言葉が、会話のテンポが違った。そもそも人付き合いは得意ではなかったが、それが決定打だった。

 徐々に学校に行きたくなくなって、そうしたものは周りにもわかるのか、簡単にいじめの対象になった。

 そして――気遣ってくれた兄を、殺した。


「…っ!」


 燃え死んだ両親の姿が脳裏に蘇る。

 家族は皆――死んだ。そのうちの一人は恭二が殺して、二人も見殺しにした。それはまるで、死神か寄生虫のようだ。命に寄生するもの。

 父に触れたときに聞こえた、失望の「声」。

 優秀で人当たりも良かった兄を、欠点ばかりの自分が殺した。だからそのことは、こんな能力を身につける前から知っていた。だが、だからといって突きつけられて傷付かないかといえば別だ。

 父も母も、思っていたに違いない。代わりに――恭二が死ねばよかったと。


「…っ」


 急に、頭が痛んだ。何かに強く押されるような、脳を直接押し潰されているような痛み。

 声もろくに出せない痛みがあると、初めて知った。


「おーい、ねぎ抜いた方がいいか? あんま食べてないなら、シンプルに出汁だしだけ…」


 戻って来た飛鳥が、恭二の異変に気付いて一瞬立ち止まり、駆け寄る。伸ばされた手を、咄嗟に振り払った。今、「声」まで聞いている余裕はない。

 飛鳥は躊躇せず、薄い夏蒲団ごと恭二の頭を抱えた。


「ゆっくり、息、して。使いっぱなしやった反動が来てるんや。口、開けて」


 言った通りにできないでいると、あごを掴まれた。聞こえる「声」はひたすらに必死で、気を取られているうちに、口の中に投げ込まれた何かが、舌の上で崩れた。

 ラムネのような何かだと気付いたのは、しばらくってのことだった。飛鳥の「声」から果糖と知るのは、更にその後。


「ごめん…超能力が脳に関係あるらしいってのは、わかってたんや。でも、わかってなかった。ごめん…!」

「飛鳥さんの、せいじゃ、ない」


 飛鳥自身が超能力に戸惑っているのは、心に潜った恭二が知っている。

 それでも、喉が渇くことや糖分を必要とすることを、知ってどうにかしようとしているのは、むしろ凄い。謝られる理由はどこにもない。

 だが、後悔も本当のようだった。

 痛みの消えた恭二は、そう知らせてぐったりとベッドに横たわると、泣き出しそうな飛鳥を見上げた。


「悪いことしたと思うなら、約束して。…飛鳥さん、誰かの役に立たないならいる価値がないって思ってる。そのためなら、自分が死んでもいいって」


 飛鳥が息を呑む。

 これは飛鳥の心の奥底に沈んでいた考えで、本当は口にするつもりもなかった。飛鳥が動揺しているのを見ると、言うべきではなかったかとの後悔もよぎる。

 それでも、恭二はやめなかった。


「そんなの、間違ってる。それじゃあ、そうやって残された側はどうすればいい? かばって死なれて、謝ることも文句も言いようがなくて、そんなの、ひどい」


 飛鳥のことを言っているのか兄のことを言っているのか、わからなくなる。

 自暴自棄になって車道に飛び出した恭二を庇って代りに死んだ、兄。

 決して同じではないけれど、重なるところのある飛鳥に、恭二は勝手に見立てて言えなかった文句を口にしているのかもしれなかった。


「簡単に、死んでもいいなんて思わないで」


 表情を凍りつかせた飛鳥は、ふっと息を吐き、遠くを見るような目をした。


「…そっか、そんな風に考えてたんか、俺」


 驚くほどに感情の抜け落ちた声で、「声」も息を潜めている。恭二は、迷いながらも手を伸ばしていた。無性に不安になっていることに気付く。

 だが触れるよりも先に、飛鳥の手が恭二の髪をき回した。

 それでようやく聞こえた「声」は、それまでであれば耳を澄ますだけで聞こえる程度のものでしかなかった。そしてそれは、言葉を裏切らない。


「不安にさせたらごめん。とりあえず、火にかけたままやしおかゆ作って来るな。――ああもう、そんなかおするなって。最大限努力はするから」


 笑顔で、飛鳥は背を向ける。

 それが拒絶のように思えて、言わなければ良かったと、後悔を落とした。

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